2022年5月15日 主日礼拝説教 マタイによる福音書21:1~11「名もなき人々の讃美」石井和典牧師

2022年5月15日 主日礼拝説教 マタイによる福音書21:1~11

「名もなき人々の讃美」石井和典牧師

 

 イエス様がエルサレムに入場なさいます。そのお姿は聖書に記されている、メシア。

 救い主のお姿でありました。

 聖書に記されている預言が実現してきます。本日のマタイ福音書21:5に記されている預言はゼカリヤ書9:9です。

 娘シオンよ、大いに喜べ。

エルサレムよ、喜び叫べ。あなたの王があなたのところに来る。

彼は正しき者であって、勝利を得る者。へりくだって、ろばに乗って来る雌ろばの子、子ろばに乗って。(ゼカリヤ書9:9、旧約1466)

 

 人々はエルサレムを解放してくれる王を求めていました。特にイエス様の時代というのは、ローマ帝国の傀儡として、ヘロデ王が立てられていました。

 だから、ローマ帝国から完全に解放し、ローマを打ち破る力強い王が現れてくれるのだと、民は期待していました。

 しかし、そのような王はいつになったら現れるのか、わかりません。

 そこで、イエス様が現れたということは、そのような彼らの期待を満たす方が来られたのだという理解をしたい者たちがたくさんいたのです。

 政治的な解放者が現れる。それがすなわちメシアの到来と理解していました。

 

 しかし、イエス様は「彼らが望んだような」王ではありません。

 イエス様は罪から民を解放し、まことの王として、人類の歴史すべてにかかわってくださるお方です。いま、現在の私に、私たちにかかわってくださるお方でもあられます。そして、すべての時代にわたって、一人一人の人生そのものを変革してくださる王でありました。

 

 救い出し、一人の人が神の国に生き始めるということを通し、神の国がわがうちに、そして来るべき世おいて実現されていくということを民は経験するのでありました。罪からの解放者です。根本問題の、中心の中心の課題に直接介入なさる方でありました。

 

 そのお姿をはっきりと指し示すのが「ロバに乗って来られる」ということでした。ロバに乗って来られるということの意味する内容は聖書に記されている通りです。

 

 「シオンの娘に告げよ。『見よ、あなたの王があなたのところに来る。

へりくだって、ろばに乗り荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」(マタイによる福音書21:5、新約39)

 「へりくだって」です。その威厳を指し示すというよりも、柔和の極み、やさしさの極み、小さな小さな、子どものロバに乗ってということです。

 

 私は、教会に来させていただいて本当に幸せだと、最近妻とよく話しています。

 というのも、何があっても、死んでもとにかくイエスさまの後をついていきましょうねって、自分にも周りの人にも真正面から語っていくことができるからです。

 大真面目にそれだけ追求していけば良いところです。

 それが教会でしかないとますます深く信じるようになって来たからです。

 

 人間の集まりですから、「なんでこれがイエス様の共同体と言えるの」というような出来事が次々と起こります。しかし、その問題は共同体が成長するための成長ポイントです。

 私が追求していけば良いのは、ただ、大真面目に、イエス様がロバにのっておられるように、わたしたちも、一緒にろばに乗って登場しましょうね、ということです。

 それを例外なくどんな場面においてもということです。決して二枚舌にならないでということです。

 

 私は、かつては、軍馬にのって「おれに反抗するものは殺すぞ」的な、ちょっと言い過ぎですが(笑)。そういう感じの、人に何かを押し付けたり、人を何か正論によって押し倒したり、自分が潰されないように、相手を潰すと、まぁ恐ろしい言葉ですが。

 そんなことを考えて生きてきてしまったのです。

 しかし、もう軍馬に乗らなくてよい。ロバに乗って笑いながらそこにおれば良い。それが、主が私に示してくださっている内容です。

 

 ゼカリヤ書には「喜び、叫べ」と記されていますね。うれしくて叫びつくす。この世界はこのお方によって動いていたんだ。と、いまさらながらに知って、喜び尽くす。すべての造られたものは、このイエス様のお姿にもとずいて造られていたんだと。そのことが教会がともに味わうべきことです。

 ああ、イエス様がおそばにいてくださるために私たちは創造されたんだ。だから、この空はこんなに優しいんだ。だから、この山はこんなに美しいのだ。すべての見え方が、インマヌエルなる主、共におられる主を発見すると変わるのです。

 イエス様を象徴的に表すために、ロバは創造されていたんだ。そうとも言えますね。なぜ、ロバはあんなにかわいいのか。(スマホでパソコンでロバを検索して写真を見てください。)それはイエス様を指し示すからだと。

 牧場に行って、ロバの近くで一日中過ごしたいです。

 

 このロバというのは決定的に重要な項目でありました。ゼカリヤ書の預言の成就、確かにメシアであられるのだということを指し示す内容です。ロバじゃなければいけなかったのです。

 さらに一つ不思議なのが、そのロバを準備されたのはもちろん神様でありますが、このロバを差し出した人です。どうして、自分の大事なロバを差し出すことができたか。

 

 信じたのですね。メシアの到来を。信じなければできないことでしょう。

 しかも、この一言で、です。「主がお入り用なのです」。

 

 いやいや、イエスの一団。弟子たち。お前は一体誰だと、どこの馬の骨かわからん怪しいやつに、わたしの大事なロバを貸すわけにはいかんとは言わないんですね。

 私だったら言ってしまいそうです。

 しかし、この人は信じたのですね。

 イエス様の噂を聞いていて、まことにメシアたるお方が来られたのだと。人々に接せられるそのお姿、その柔和でへりくだったお姿。そのお姿から、真実を読み取ったのでありましょう。

 

 「出来事から何を読み取るのかは、その人の心次第です。」神の言葉が実現する、聖書が実現する。神がご自分の業をなさる。

 そのようなことを「一心に見つめようとするこの福音書のような立場」と、「そうではない立場」というものがあり得ますね。何を見ても、そのことに対する反応は、人の心によります。

 

 エルサレムに入場されて、来週の箇所になりますが、イエス様がなされたことは何かというと、祭司や律法学者が怒り出す内容です。

 神殿を清めるということで、神殿の庭で商売をしている人たちを追い出されました。

 一体何事だと、どうしてこんな暴力的で破壊的で反抗的な人間を放置しておいて良いだろうかと思ったのです。

 そして、腐敗しているユダヤ教に対して、イエス様は「イチジクの木が枯れるように枯れてしまえ」とおっしゃられた。

 もう、彼らにとってみたら喧嘩を売っているとしか思えない。そんな内容ですね。

 しかし、イエス様を信じるものたちは、ここから、メッセージを強く読み取ったわけです。王が入場され、ご自分の道を示していかれたのだと。それはすべて、民が気づくため、救いとは何か。神とともに歩むということはどういうことか。インマヌエルなる主がおられるということはどういうことか。子心の内側から、隅々まで、生活のすべてが変革されて、神の国の住人として生きることであると。

 

 ダビデ王のようにエルサレムに入場され、預言書ゼカリヤ書の実現としてこの出来事が整理されていく。信仰がなければ理解できません。

 信仰がなければ、この出来事は、「イエス様が暴れている出来事」としか見えなかったでしょう。祭司長や律法学者が怒り狂って、イエス様を殺そう、「こいつは生かしておけん」とまで考えるような出来事に写ったわけですから。

 

 出来事をどのように見ていくのかということに注意しなければなりません。

 見え方は、私自身がどのような心をもっているかに、強烈に影響されます。

 福音書を見てくださればわかりますが、人々の反応は、人によって、全然違います。同じ出来事しか起こっていないのにです。これが、人間の社会です。人間そのものです。そして、その心をどうするかは完全に自由です。

 さらに恐ろしいのは、このイエス様の入場を喜んだエルサレムの住民たちも、はじめは良いですが、後でイエス様から離れていったということです。

 はじめは、自分の衣をこのイエス様の前に敷いて、その上を歩んでくださいと行動したのです。なんて信仰深いのかと言いたくなります。

 最後はエルサレムは全体的に、イエス様を排除し、その結果十字架への道を許してしまったのです。

 「絶対イエス様の処刑に反対!」ということであれば、イエス様が十字架にかかるということはありません。

 ポンテオ・ピラトはイエス様が無罪であるとわかっていたのに、「民の声を恐れて、暴動が起こるのではないかという政治的な判断から」イエス様を十字架につけたのですから。

 民が、「イエス様は絶対無罪」って叫んでいたら結果は違っていた。

 

 しかし、そんな腐敗した社会の中に、主イエスはご自分の足跡を残してくださいました!

 人がどのように生きることが幸いであるのかをはっきりと指し示してくださっているのです。

 

 すなわち、人は「ホサナ」と叫ぶこと、この中に生きるということこそが、幸いの中の幸いであるということです。ホサナというのは「ああ、主よ、どうか救ってください」という意味です。ああ、もうわたしの人生自分の力ではどうにもなりません。

 イエス様にすがりついて、主のお力にだけより頼みますということですね。

 ロバに乗ったイエス様の前に、ホサナと叫ぶ。自分はどうすることもできないと、自分に悲しみながら、しかし、お優しいお姿で私たちのために仕えてくださる、ロバを象徴する、そのお優しいイエス様の前に、私たちがひざまずけば良いのです。

 

 いつまでひざまづかないでいるのですか。ひざまづきましょう。教会が直面している問題というのはこれだけでしょう。

 

 そうすれば、主は必ず用いてくださいます。それが聖書に記されていることではないですか。

 

 主ご自身の足跡が残るように、主が確かに私の人生の上を歩んでくださったのだと。今日の無名の登場人物たちによって、その記録が残されている。

 主が私の人生にご自分の業を刻んでくださって、このロバを貸した人が、この後絶対に忘れられないように。私のこの小さな人生もすべて、主の預言が実現していくという文脈の中で。主がご自身の業をなしてくださるのだということの中に、巻き込んでくださって、記憶してくださって、私たちを使ってくださるのです。

 

 イエス様がロバに乗るお方であると示されたこの人。永遠に記憶されています。私の心にも、このイエス様がロバに乗って!ロバという存在でご自身の心の低さを見せてくださって。私がロバを見て、あぁ、って癒されていくそういうことが永遠に続いていく。神がどういうお方であるかということにだけ集中していくことによって癒しが驚くほどに私に流れ込んでくる。

 

 

 必要なものがないない、言って歩んできてしまいました。正義がない。平和がない。平穏がない。能力がない。力がない。人脈がない。豊かさがない。しかし、実は本当に必要なものはここにあるじゃないですか。

 先週は母の日、本当に必要な母の愛はあったじゃないですか。北陸学院の大学礼拝においても同じ話をしました。本当は十字架の赦しがそこにあるじゃないですか。愛されたから、私は生きているんじゃないですか。そうじゃなければ生きてませんよ。生まれてませんよ。

 そういう基本的に重要なことに、「気づかない」「気づいているのに、その中心をどっかに飛ばしている」

 

 イエス様が、ロバに乗ってこられる。

 私はホサナと叫べば良い。あぁ、主よ憐れな私をお救いください。これだけで良い。

 そこに奇跡が起こります。本来の道に帰りましょう。アーメン。