2022年5月22日 主日礼拝説教 「祈りの家」 石井和典牧師
マタイによる福音書21:12~22
イエス様が祈ることをいかに喜んでくださっているのかがわかります。
祈りを失ったユダヤの民は枯れたいちじくの木と思っておられます。祈りを失っては実を失います。神殿は「祈りの家」と呼ばれるべきです。
神殿というのは、クリスチャンにとっては自分自身であります。
あの人は「祈りの人だよね」と言われていますか?
あなたがたは神の神殿であり、神の霊が自分の内に住んでいることを知らないのですか。(コリントの信徒への手紙第一 3:16、新約297)
自分が神殿となっているということ、神殿となっているということは、そこが祈りで満ちているようにと主が願ってくださっていることを知ってください。
祈りの家で起こることとは何ですか。
それはイエス様が引用してくださったイザヤ書56章を読んでいくとよくわかってきます。
私は彼らを私の聖なる山に導き私の祈りの家で喜ばせよう。
彼らの焼き尽くすいけにえと会食のいけにえは
私の祭壇の上で受け入れられる。
私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。 (イザヤ書56:7、旧約1139)
祈りの家に招き入れられるということはどういうことなのか。「喜ばせよう」と記されています。だから、祈りの家に招かれるということは、喜びが満ちていくということなのです。祈りの中にいないと、招かれていないと喜びは満ちてこないのですね。
祈ることには最終的には喜びにいたる道が準備されていくということを受け入れてください。祈りのはじめは苦しかったとしても、そのあとにあることは主が喜んでくださるという喜びが待っていることを忘れないでください。
異邦人が祈りの中に入れられるということが主のご計画であったのだとわかってきます。それはイザヤ書56章全体を読むとわかってくることです。イザヤ書というのは鍵の中の鍵というべき言葉が満ちていると思います。
私たちこそが、イザヤ書の中におるのだということが理解できる言葉が記されています。
主に連なる異国の子らは言ってはならない「主はご自分の民から私を分け離す」と。
宦官も言ってはならない「見よ、私は枯れ木だ」と。
主はこう言われる。
宦官が私の安息日を守り私が喜ぶことを選び私の契約を固く守っているならば
私の家と城壁の中で
私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え消し去られることのないとこしえの名を与える。
(イザヤ書56:3~5、旧約1136)
王に仕える去勢された宦官がイザヤ書の時代にはおりました。彼らは王に仕えるために去勢されていました。宦官は多くの場合イスラエルの約束された民というものではなくて、異邦人でありました。
彼らは自分たちはユダヤの民に仕えながらも、神が約束してくださった約束の民とは違うということを明確に意識せざるを得ない状況に自らあると自認していました。ユダヤの民にとって祝福というのは、子どもを通して広がっていくという思いがありましたから、去勢されているということは、その約束から遠く離されているというような感覚を得るしかない状況であったのです。
しかし、主はまことの約束の民をおつくりになられると宣言されておられます。
それは、祈りの宮に民が集められるということをもってだとイザヤ書は伝えています。内容が回復されるということがどういうことなのか、悟ってください。
内容が回復されるということは、具体的には「祈りが回復される」ということです。
祈りが回復されていくと、神殿が再建されて、神殿が再建されると、心の内側に何が主に喜ばれ、何が主がお嫌いになられるのかということを悟る心が起こされていくのです。心の内側に「本当は何をすべきか」という律法が記されるということが起こっていくのです。それはエレミヤ書31章に記されています。
その日が来る――主の仰せ。私はイスラエルの家、およびユダの家と新しい契約を結ぶ。それは、私が彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に結んだ契約のようなものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らは私の契約を破ってしまった――主の仰せ。その日の後、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである――主の仰せ。私は、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に書き記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる。もはや彼らは、隣人や兄弟の間で、「主を知れ」と言って教え合うことはない。小さな者から大きな者に至るまで、彼らは皆、私を知るからである――主の仰せ。私は彼らの過ちを赦し、もはや彼らの罪を思い起こすことはない。(エレミヤ書31:31~34、旧約1221)
イザヤ書にはこのように記されています。
私の家と城壁の中で
私は、息子、娘にまさる記念のしるしと名を与え消し去られることのないとこしえの名を与える。
(イザヤ書56:5、旧約1138)
祈りの宮で、神殿で、すなわちクリスチャンの存在そのものの中で、主はイスラエルの民が受け継ぐべきもの、そのすべてを与え、とこしえの名、永遠に消し去られることのない名を与えると約束してくださっています。
主イエスは、私たちを永遠に記憶してくださいます。私たちの存在は永遠に主イエスの心の中に記憶される。神の中に記憶される。神殿の只中で。祈りの中で。
祈りがいかに尊いものであり、祈りによって物事が起き、祈りによってペンテコステ(聖霊降臨)が起こされ、祈りによって個人の内側に変革が起こされていく。
マタイ福音書の中に描かれているイエス様がいつも、「心の内側のこと、霊的な問題」にふれて、内側がいかに充実したもの、命の満ちたもものとなっていくようにと願ってくださっていたのかを聞く必要があります。
イエス様はご自分が引用されたイザヤ書56章が実際に実現するために、行動を起こして下さるお方だることを知ってください。
主は、この聖書に書かれている通りに人類に行動してくださるお方です。だから、聖書を心して読まなけばならないのです。
聖書には私とイエス様との間で起こることが記されています。荒唐無稽な、おとぎ話が記されているのではありません。今ここで、私の人生の中で起こりえることが記されています。
異邦人が祈りの宮に招かれて、イスラエルの民以上の喜びを与えられるのだということが記されていました。
それが実現するために、主イエスは神殿の境内で疎外されて来た人たちのところに行かれた、その姿を私たちにお見せくださっているのです。
当時のユダヤの伝統では、神殿の境内には、目の見えない人、足の不自由な人は入ることは許されませんでした。しかし、イエス様は、人々が禁じたその神殿の境内で、目の見えない人を癒し、足の不自由な人を立たせました。
その前に、神殿の両替人を追い出し、鳩を売る人々をも追い出したので、神殿を支配管理していた祭司長たちは怒り狂ったわけですね。
祭司長、律法学者たちに完全に喧嘩を売っている内容です。しかし、これを通して、イエス様が内容を回復させようとされていることを読み取ってください。
外形をいかに繕っていたって、「祈りがなければ、内容を失った信仰者」です。内側には本当は命がない「白く塗った墓」です。
疎外されている人々が驚くべきことに神の国に入れられ、その人々を通してその人々のところで預言が実現していく。
主イエスが確かに、この小さなものたち、病を負ったもの、子どもたち、弱い者、社会で疎外されていた人たちによって、砦を築いてくださることを見ることができるのです。それは詩編8篇の言葉が実現する内容でした。イエス様がマタイ21:16で引用されたのは詩編8篇の言葉です。
主よ、我らの主よ
御名は全地でいかに力強いことか。あなたは天上の威厳をこの地上に置き
幼子と乳飲み子の口によって砦を築かれた。
敵対する者に備え敵と報復する者を鎮めるために。(詩編8編、旧約825)
先日、馬場幼稚園の教師向けの聖書研究会で、子どもが祈っている姿の動画を見ました。子どもにどうやって祈りを教えるのかというような話になって、子どもは実に自然に祈りの中に入っていくこと、しかも、それを楽しみ、一日何十回も祈るのだということを聞きました。
首を振りながら、リズムを刻みながら、ガクンガクン言わせながら(笑。
すばらしいですね。
イスラエルの嘆きの壁で祈っていた、真っ黒い恰好をして、ひげを生やして、必死で祈っているおじさんたちと、同じですよ。
私はイスラエルに行って彼らの姿を見て、回心させられたのですが。
どうしてより多くの洞察力をもって、新約聖書をもって祈りについて知っているこの私のような民が、どうして祈らなかったのか。。。
すみません。私、牧師にさせていただいてからも、ずっと長い間、一日の祈りの時間が数秒、、、という時が続いていました。数秒ならまだ良い方で。。。
自分の力や知恵で何かをしようと思ってしまっていたのでした。だから、祈りに時間を費やすことが愚かなことのように思ってしまっていた。
完全に、主イエスがマタイ福音書を通して伝えようとされていることから道を外してしまっていました。心の内側のことなどどうでも良くなってしまっていました。自分自身が神殿であることを意識することができないでいました。それゆえ実りを実らせることができませんでした。
実りというのは、ガラテヤ書5:22、23に記されている霊の結ぶ実のことです。
これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22、23、新約343)
私たちがこの祈りの実りを持っていれば、私たちの家族が、「それをください」と言って集まってきます。友人が「どうするればそんな平安になれるの」って近寄ってきます。
律法学者や祭司長たちは、イエス様の姿を見て腹を立てました。
彼らは宗教的な儀式には参加して、祈っているていはとっていました。
でも、実りがなかった。実りがないのは、イエス様に腹を立てたというところからわかります。
イエス様はいちじくの木を見て、突然のろわれましたが。
それはこの実りを失ったユダヤ教の人々のことを暗示する内容でした。
信仰が回復されれば、ものごとを動かすことができます。それが本日の最後に記されています。主が回復されようとされた、内容のある、内側の世界。祈りの回復ということをしっかり見据えていただきたいと思います。
その点をつかんでいかないと、教会が全く力のないまま、社会で誰にも影響力をもつことができないまま、枯れていきます。
主イエスがおっしゃられた信仰を抱くのならば、ものごとは動くのです。
主イエスがマタイ福音書で語られている霊的な、神に向かう精神性の回復ということをしっかりと視座に入れてください。「祈りの回復」ということです。神殿の回復ということです。それが起これば、イエス様がおっしゃられた通りになります。
イエスはお答えになった。「よく言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイによる福音書21:21、22、新約40)
いちじくが実っていますか。その実りをもとめて人が来ていますか。祈りはじめ、実らせていただきましょう。アーメン。