2022年7月24日 主日礼拝説教 マタイによる福音書22:34~46「神を愛し、隣人を愛する」石井和典

 イエス様の心を理解し始めると、聖書全巻がすんなりと心に入ってくるというか、特に旧約聖書のわからなかったことがわかるということが起こります。

 

 本日の箇所はまさに、旧約聖書全体をどのように理解していくのかという道をはっきりと指し示す内容となっています。このイエス様の心をしっかり理解していけば、読めなかった律法(モーセ五書、創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記)が読めるようになるし、しかも読むだけじゃなくて、理解力と力をもって養分を吸収することができるようになります。

 

 養分が吸収されはじめたらもうこっちのものです。聖書を自分でガンガン読み進めて力を受けることができます。成長から成長へのループに入ります。その鍵となることばがこれです。

 

 エスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の戒めである。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』(マタイによる福音書22:37,38、39、新約43)

 

 旧約聖書を読んでいると、時代も文化も伝統もかなり違う社会において語られていた言葉がいかに私に対して影響力を持つのか、惑うというか、どういうふうに読んだらよいんだこれはというような内容が書かれています。

 例えば、イカ、タコを食べてはならないというようなことが書いてありますし、うなぎを食べたら旧約聖書違反だよというようなことも見えてきますし、いや、おれは絶対イカ、タコ、うなぎは食べるよといような内容が記されているのを感じてしまいます。

 このような律法においては、ウナギが鱗がないこと、内と外を分けないこと、聖と俗とを分けないということ。そういうことが主がお嫌いになられること。イカタコは背骨がないこと、骨がないこと、それはすなわち信仰の骨がない、神に対して心が一直線にむかっていないことを主がお嫌いになられている。そのような霊的な意味をイカ、タコを食べるなとかうろこのない魚を食べるなということから読み取ることができるのです。

 主がどのようなお方であり、主が何かしらのメッセージをくださっているのだということに集中することが必要になってくるということが理解できるのです。

 だから、ポイントはすべて「神を愛すること」なのです。神がどのようなお方なのかを知ろうとすれば、律法がこうしなさいと命じられるその謎が解けて行くということに気づくことができるのです。

 

 愛そうとすれば、知ろうとします。

 知ったうえで、知った知識をもとに、関係を麗しいものに形作ろうとします。知れば知るほどに、さらに知って。さらに関係を強めて、人生を、生活を、共同性を形作っていこうということを考えるものです。

 神を知ろうとすればするほどに、自分が、人類がいかに愛されてきたか、いかに赦されてきたか、いかに偉大なる主の御業が人類へと向いていたのかを自覚的に受け止めるようになり。

 主が何千年も昔から、私たちを、そして私を愛してくださっているということを知るのです。

 主の愛で、全能の力で守られていることを悟れば悟るほどに、隣人を愛さないではいられなくなります。

 

 律法(旧約聖書)で一番大事なのはイエス様がおっしゃられた通り「神を愛すること」です。

 神を愛するということはどういうことかというと、何度も言いますが、強調しますが「神がどのような方かを知る」ということですね。

 

 そして、神がどのような方かを歌い上げるのが賛美です。

 

 だから、賛美は教会にとって一番の一番に大事なことです。

 

 イエス様においても、律法においても、キリスト教の三つの要の文書において、十戒においても、主の祈りにおいても、使徒信条においても、「賛美」が一番大事なことです。

 

 言い換えると、私を通して表現されるべきこと、すべてが賛美(神がどのようなお方かの証)であるということに気づくということが回心していくことです。

 すべてが賛美であるということは。

 神さまがここにおられるという臨場感をもって物事をとらえなおしていくということです。

 

 先日、馬場幼稚園の保護者会の役員の方々が、牧師に「賛美」についてのメッセージを動画撮影させて欲しいということをおっしゃってくださいました。

 これ。感動的な出来事だと思いませんか(笑)。洗礼を受けて教会員となっているというわけではないし、教会との関係性もまだまだはじまったばかりというような皆様が。

 教会の本質の本質である「賛美」に興味をもってくださって。教えてほしいと言ってくださるのですよ。教会はこれだけで良いんだというような内容ですよね。そこをダイレクトに!真直球で聞いてこられるとは。奇跡です。

 

 私は悔い改めなければと思わされます。主の御業がどこにあるのか。自分は見えていなかったと言わざるを得ない。

 

 イエス様がいつも人間が思っていることの外側からやってこられる。まさか主なる神が、独り子を世に人間の姿によっておつかわしになるなんてというようなスタイルで。

 私たちの想像できることの外からくる、そんな具体的な体験が、保護者の方々が「賛美」という言葉を口にするということでした。

 このこともイエス様のお姿、イエス様の御業をさししめす出来事でした。イエス様を知るということ。愛するという出来事です。

 

 イエス様がどのようなお方かに集中していれば良いのです。それが神を愛するということに集中するということです。

 エスは言われた。「『心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』(マタイによる福音書22:37、新約43)

 ギリシャ語で、心、魂、思いは、カルディアとプシュケーと、ディアノアと記さています。

 これは難しい言葉ですが、言いたいことはこの言葉を通して「人間の全存在によって」ということを言いたいのです。プシュケーという「魂」という言葉は「命」が意識された言葉でありますし、思いというディアノアという言葉は「知性」を意味することもある言葉です。ハートも、命も、知性も全部つかってという意味ですね。

 これは人々が古くから言い古してきた内容です。ユダヤの人たちがメズーザという家の入口に貼っている木箱の中にも入っている言葉ですし、テフィリンという祈りの時に頭につけるやまぶしのような箱の中にも申命記6:4の言葉が記されています。

 さらにユダヤの人たちは、朝昼晩とこの「聞け、イスラエル」という祈りをささげつづけていました。申命記6:4、5を今一度読み上げておきます。

 聞け、イスラエルよ。私たちの神、主は唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。

 

 ヤハウェというお名前の、ヤハウェというのはヘブライ語のイエイヒという言葉がもとにあります。「わたしはある」というお方、それが全能の神様です。存在の根拠であるお方。源であるお方。そのお方はただ一人。父はおひとりで、そのお方にだけ力があるということです。

 そのお方に頼って、そのお方の言葉から聞いて、そしてそのお方を知ろうとする。愛するということにすべてをかけて生きていく。そのような歩みの中に入れていただいている。あらゆる祝福にあずかることができるし、力が与えられ、喜びで人生が満ち満ちていく。

 それがイスラエルの民である。だから、神の言葉に聞かなければならない。

 

 神の言葉というのはイエス様そのものですから。神様そのものなるお方ですから。このお方に聞くということが、彼らが祈り続けている内容の実現であるのです。

 ずっと毎日毎日祈り続けてきたのですよ。

 それなのに、それを実行することができないのです。

 聞け聞け聞け、と何千年も言い続けているのに、聞かなければいけないイエス様が現れると、ほとんどの人はその言葉をまっすぐには聞いていない。。。

 

 これが人間です!

 

 恐ろしいですよね。本当に大事だ。これこそが大事だ。神の言葉に聞くことが大事だ。そのお方を愛することが大事だ。そう告白し、祈り続けているのに。

 実際にそのチャンスが訪れて、イエス様が前に現れると「殺そうとする」のです。。。

 

 人間は「二枚舌」のサタンの心に支配されています。。。その恐ろしさに気づいて、癒していただくしかありません。

 

 家族が大事だ、親が大事だ、本当に身近な人を愛することが大事だ。そう口で告白するのに、実際にはそれを実行するのに足踏みしたり、通り過ぎたりしてしまう自分がいることに気づかされます。

 神様のことを愛しますと言いつつも、神の愛に浴して、その愛の中で溺れて喜びに満ちて、心が満ち満ちてきて、隣人を満たすということよりも。自分の思いに溺れて別のことをしてしまう。

 

 肉の欲求、内側からの突き上げ、心の中に去来する抑えきれない怒りや、嘆きや、不満や、失望。そういったものに毒されて、そちらの影響力の方が大きいように見えてきてしまって、心が惑わされるのです。

 

 イエス様はファリサイ派の人たちやサドカイ派の人たちにとっては、自分たちの立場を危うくする危険人物にしかうつらなかったのです。「自分たちが危うくなるかも」「自分の主張を守るため」そういった肉の心に影響されて、彼らは自分の内側から湧き出してくる肉の感情に従って行動してしまいました。

 

 我々の内側には、このユダヤの人たちの心の状況と同じような状況が展開されてしまいます。

 

 心を尽くして、魂を尽くして、力を尽くして主を愛しなさい、それを知っていながらどうしても対立してしまう心を抱えています。

 主の思いの中で、主の愛に溺れてというような恵みの道を捨て、自分の内側からやってくる別の思いに支配され、その結果ものが見えなくなって肉の判断力によって動くので、神の言葉は耳に入ってこないのです。

 

 聞け、聞け、聞け。と主が叫んでいる姿が見えてきます。何千年も叫び続けておられる姿を見る必要があります。

 

 だから!

 

 聞けと言われて「聞いていなかった」と悟るものが、主イエスの前に出てくるわけですね。

 それが弟子たちです。使徒的な働きをしていくものたちです。

 聞けと言われて「聞いていない自分にさえ気づかない」、その人々は主に従うことは決してできません。

 相変わらず、自分たちの洞察にもとづいて動くしかないのです。キリストを殺すという洞察によって生きてしまいます。

 

 何十年も信仰生活をして、共同体のリーダーシップを取るようになって、自分が聖いかのような顔をしているその人が、イエス様に敵対します。

 

 実は、信仰の一歩目でつまづいている。これに気づくことが大切です。

 聖書の言葉を聞いていながら、聖書の言葉を受け止めていないし生きてもいないのです。

 私もやっと気づきました。何十年も信仰生活をして、何度も聖書全巻を読んでいるのに、みんな通り過ぎて本当に重要なことを聞いてない。

 

 常に我々の問題はここです。

 

 そして、その問題が明らかにさせられればされるほど、私たちがいかに深く愛され、愛され、愛されてきたことかを悟るのです。

 

 私は20歳の時に洗礼を受けて、その2年後に神学校に入学し、その4年後の28歳の時に伝道師として立ちはじめたのですが。

 そのはじめから、全然少しも前に進むことなしに、何年も何十年も第一歩の問題で躓いていることに気づかずに、まるで自分が何かできるものであるかのような顔をしつつ、牧師として歩んできてしまいました。

 しかし、実態はどうでしょうか。

 

 実態は!一歩も自分で歩くことができない赤ちゃんだったのです!

 

 今41ですよ。20年も神様は忍耐して、忍耐して、ハイハイしかできない私が、一歩歩きだすために20年を要している私を憐れみのまなざしてご覧くださっていたのです。

 主イエスは、すこしも諦めず、待って待って待っていてくださった。一歩目で躓いてる私が、躓いているんだということを自分で気づいて、心のそこから主に助けを求めることを。

 

 聖書を何十回も読んでいながらも、少しもその中を生きていなかった自分に気づいた。認めた。すると、主が助けぬし、パラクレートス、傍らに立つ弁護者、「主が見ていてくださるのだ」という確信を内側に与えてくださったのです。

 ペンテコステ聖霊降臨)が起こりました。

 

 赤ちゃんでも大丈夫ですよ。主が見ていてくださるんですから。

 立派じゃなくても大丈夫ですよ。主が見ていてくださるんですから。

 主の視点にだけ気づけばよいのです。純粋に鳴き声をあげれば良いのです。

 

 「聞け」と言われて20年かかってやっと「聞いていない自分に気づいた」のです。

 

 しかし、ここからです。神の永遠の御業に参与させていただけるという確信が満ちています。

 聖書に描かれている人たちと一緒に永遠を目指して歩むのです。イエス様と歩むのです。

 

 新しい人生をはじめましょう。キリストの十字架によって思いが清められた歩みです。自分の内側の何がおかしなことであったのかに気づきます。しかし、力に満ちてきます。アーメン。