キリストに出会うということはどういうことか。
豊かにされるということです。満ち溢れる霊的な、精神的な豊かさのゆえに、満たされていくということです。
キリストに出会うと癒されて、存在そのものが変化します。
コリントの信徒への手紙にしるされているのは「召された」というありようにすべてをかけて生きる使徒パウロの姿です。
召してくださったお方がおられるということ。そのお方はキリストなわけですが、キリストの行動に自分のすべてをかけて行くあり方に彼の存在が変化してしまっています。
自分が何ができるかではなくて、キリストが召してくださるので、というキリストに従う生活のはじまりです。
このお方に注目して、集中するというあり方は、「豊か」になるしかありません。
つねに結論がそうなります。あらゆる苦難が押し寄せてきます。命を奪われるのではないかというような危険が襲います。しかし、その最低、最悪の現状の中から、与えられて与えられて、与え尽くされます。
底の底にくだったようなところから、満たされて満たされて、高くさせられる。神の力によって。
これを神の民に経験させ、ご自分が力ある神であることを証されます。
この神ご自身にあずかることが、聖書が証しする神の民の歴史です。
だから、何があっても、壊れても回復します。ダメになってもよみがえります。主イエスがおられないと思うような現実の中に、主がおられることを発見するのです。
コリントの信徒への語りかけの中で、特に満たされているものとして、「言葉」「知識」「賜物」という言葉をパウロはあげています。
あなたがたはキリストにあって、言葉といい、知識といい、すべての点で豊かにされたからです。こうして、キリストについての証しがあなたがたの間で確かなものとなったので、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、私たちの主イエス・キリストが現れるのを待ち望んでいます。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:5~7、新約294)
しかし、与えられて豊かであることが、逆に罠になって、分派が出来上がってしまっている状況が見えてきます。
当時の文化的な背景としては、身分の向上のための経済的な競争が激しく、成功主義的な宗教が盛んでありました。成功のために自分の優れたところをアピールするということが、教会の中にも入り込んできて、教会の指導者たちの名前をもちだして、私はパウロにつくだとか、私はペトロにとか、私はアポロにとか、私はキリストにとまでいう者たちが出始めたのでした。
キリストにという派は、具体的な誰かということではなくて、自分に与えられたキリストとの特別な関係性といいましょうか、神秘体験のようなものを誇ったということです。
だから、この争いの本質は何かというと、何か誇れるところをもって他の人よりも自分の方が優れているというところを誇示することで、自我を高めるということでした。
世の人たちが行っていたことと同じことが、その精神性が、教会の中に入ってきて、その世の考え方に毒されていました。にもかかわらず、気づかずに、信仰という土台を用いて、神ではなくて、自分たちを誇りとするような歩みに至ってしまっていたということなのです。
だから、パウロはコリントの第一の手紙でも、コリントの第二の手紙においても、「誇るものは主を誇れ」と言っているのです。この言葉というのはこのコリントの信徒への手紙を理解するための鍵となる言葉です。
「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 1:31、新約295)
「誇る者は主を誇れ。」自己推薦する者ではなく、主に推薦される人こそ、適格者なのです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 10:17、18 新約330)
コリントの信徒への手紙Ⅱにあるように、彼らはなんとか、自分自身を自己推薦するというか、自分が正しいということを示すというか。あの人が正しいのではなく、私が正しいのだということをしめしたいために、すなわち自己推薦をするために、いろんなものを持ってきた、わかりやすいのがどの指導者に自分がついているのかということであったということなのです。
ですが、当たり前のことですが、キリストが私たちの主であり、このお方だけが要(かなめ)です。このお方の前に皆でひざまずいて小さくさせられている。
ここに、私たちが一つになる機会があるのです。
これだけです。
これ以外のことで私たちが自己推薦し、自分が正しいのだということを言おうとした瞬間に、誰かとの争いや、誰かを陥れて自分を高めるという方向性に流されてしまうのです。こういった思いというのはどこか皆心あたりがあるのではないでしょうか。というのも、世の中の考えはおそらくみんなこういうものだからです。神が中心にいないとそうなるでしょう。
こちらの教会が優れているとか、こちらの教派がすぐれているとか、こちらの教団がすぐれているとか、この指導者が優れているとか、この信徒がすぐれているとか。
そのようなことを追い求めることは、キリストの御前に、下品で、愚かで、さもしい歩みとなります。
目の前のキリストを差し置いて別のものを見ることになるからです。
冷静に我に帰ればわかるのですが。。。
コリントの人たちは、コリントのⅡの手紙において、立ち帰って悔い改めたというようなことも書かれていますので、これは我に帰って、自分たちがいかに愚かであったかを悟ったということです。
「おれが正しい」と主張しているその横でキリストが憐みの視点で見ておられたことに気づいたということです。それでも主は見捨てないのだということに気づかされてまた恵みに満たされたことでありましょう。
自分の愚かさに気づくということは、私たちクリスチャンにとっては、痛快な出来事です。
そのすぐ傍らに主イエスがおられたのだと気づく経験となるからです。満たされる瞬間になるのです。
主のご愛を自分の愚かさを自覚するその現場で体験するのです。
キリストに出会うって決定的ですね。
立ち返り、改善され、改革され、生まれ変わる。
人生の失望の瞬間が、自分に失望して悟るというような出来事に変換させられてしまいますね。
だから、自分の弱さや愚かさを誇ることができるのです。
何度も申し上げてしまうことなのですが、私は自分がクリスチャンたちと出会った一番はじめの瞬間っていうのがいかに幸いであったのかと思わされます。大学生の時に、キリスト者学生会の門をたたいたわけですが、そこで友人が与えられました。
その友人たちは、私がいかにキリストに出会うことができるのかに集中し、私が何か聖書の中から発見したら、そのこと一つ一つに喜んでくれて、誰一人として、「お前よりもおれのほうが優れているんだ」などという空気感を出すような人はいませんでした。
皆の前に、キリストがおられたのです。
その経験というのは、驚くほどに、今も脈々と命の泉として私の中で力を放っているのを感じます。
永遠に向かう力として、人を動かし、さらには私からこの力は誰かに伝わるということをも生み出しています。
はじめは小さな小さな、自分次元の自分視点の、自分がどうであるかにしかフォーカスしていない視点しか、狭い視点しかもっていません。
私がキリスト者学生会の門をたたいたときも、自分がどう信仰に至るのかということだけ考えていました。そこに神様のご配慮や神様のご計画や、驚くべき主の憐みの心がしめされつづけるのだなどというような洞察はありませんでした。
だから、その時は自分がいかに信じるのか、信じているのか、自分の信仰がすばらしいのだというようなことを人に認めてもらいたいというようなあり方しかとることができませんでした。
しかし、そんな小さなものしか見えていない私を大きな視点で憐れんで包み込んで、その20年後の今、そこに主がおられたのだと気づくようにというような大きな偉大な視点で主イエスは私のことを見ていてくださっているのです。
安心なのは、つねに主の視点に立ち帰れば、自分がどんなに愚かでも偉大な主の目があるということです。そのご計画とまなざしの中にいだかれている自分を発見すれば良いのです。
大きな視点に抱かれているということを発見すれば、主のご計画が見えるようになってきます。パウロがコリントの教会の人たちに洗礼をあまり多く授けることがなかったことが、主のご計画と導きであるのだとさえ受け止めています。教会の指導者はそりゃできれば一日も早くすべての人が洗礼をうけて欲しいと思っていますよ。しかし、そのように思い通りになからなかったことに主のご計画があると見ているのです。
コリントの教会からあえて経済的な支援をうけないということも、彼にとってはキリストを証するということのためでした。分派の問題がありましたから、どの分派から支援を受けているなどという偏った状態にならないためでありましたでしょう。また、パウロから洗礼を受けたということになれば、パウロ派を正当化するような人たちが増えるでありましょうから、洗礼を授けることができなくて良かったと言うのです。
パウロの視点からすれば、すべて主のご計画の内、主のご配慮の内、起こる事柄に主の心があるということを信じているのです。
しかし、コリントの人々の中にはキリストへの信頼という大きな視点ではなくて、何か世の考え方が入ってきて、キリストへの視点を失わせ、お互いにだれが優れているのかというような話しになり、キリストが一番願っておられない、お互いのつぶしあい、精神的に殺しあうというようなことに至ってしまっていたのでした。
パウロを批判し、陥れようとするものたちもたくさん現れてしまいました。
パウロ派ができているということは、反パウロ派もあらわれます。
反パウロ派は、パウロが善意で行っていることも全部批判の対象とします。
パウロがコリントの教会から収入を得ることなく伝道していることに対して、攻撃をしかけるものたたちが現れました。
こんなのありえないですね。自分の献身の思いをもって、親が子をささえるように自分の身を削りながら、仕えていっているのに、そのことを批判の対象とするとは。
現代の教会の問題って、まさに「コリント問題」そのものって感じがしませんか。
誰が優れているのか、どっちが偉いのか。
露骨な言葉を使わなくても、教会や教会員どうしの張り合いみたいなものがあって、数とか信仰が比較されて、というような状況が展開されているような空気感がどこからともなく漂ってくることがあります。
我々がなすべきことは、この地上にあるすべての教会が力を得て、神の国をのべつたえることです。
この地域の人たちが、キリストに結びついて、命の泉から命をくみだせるようになって、キリストに似たものにされ、聖なる主の宮となり、祈ることができるようになり、そして、神の業がその主の宮である一人の人や教会から、起こされていって。社会全体を神の国の福音で飲み込むこと。主のご愛によって飲み込むこと。
悔い改めよ、神の国が近づいた。
というキリストの言葉を、心の底からあじわい、人生すべてが日々変革されていく。キリストの支配がじわじわと広がっていく改革を自分の人生の中で経験するものがあふれていく。毎日、人間変革の瞬間を一人一人が味わっていく。
ここにおられるすべての人が、成長しないところから脱する必要があります。
自我に凝り固まった頑固な石状態から解放されることが必要です。冬眠していてはいけません。冬眠からさめて栄養を受けないと。柔らかく、耳が開かれて、すべてのことに命を見出し、人に命を与えることができるほどに成長し、かかわる人みなを神の国の空気感の中にいざない続けることができる。
人々は復活しますよ。
私は復活しているという歩みですか。
無尽蔵の泉から、イエス・キリストとの関係が回復して、つねにどう歩めばいいのか示される。そういう歩みになっていますか。
復活の力を感じつづけていますか。
そういう歩みに召されています。我々が復活していれば、心あるひとは目を向けてくれます。回心がはじまりますよ。
隣人にどのように接しているのかに、皆様が何を神から受けているのか、受け取っていないのかが現れます。
キリストの思いに触れて、キリストが憐みのまなざしで見ていてくださったのだということに浴している人は、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにして、キリストの心によって一つになろうと隣人に接することでありましょう。
何があっても、どんな時も、敵を前にしてもキリストの御前にいることを意識し、洞察できる。それが目を覚ましているものです。
十字架の御許にひざまずく歩みをご一緒いたしましょう。アーメン。