小さな一人の命が成長して、そこからさらに神の光があふれ出してくる状況を主が願っておられます。先日の春の集会において平和を考えるときにも共に聖書から読みました。
ミクロなところから平和が爆発的に広がると。
だから、小さな一人が大事だと。いつも一人の成長がキーポイントなのです。
早天礼拝で読んでいる創世記、水曜日の聖書研究祈祷会で読んでいる申命記、聖書全巻、イエス様の言葉に一貫した視点があるといることを知ることができます。
命と成長です。
私たちは、日々「生きよ」と言われているのであり、「成長していくこと」を主が喜んでくださり、命が永遠に保たれるために、主イエスは建設的な批判をくださるのであって、イエス様がご指摘くださる内容に、耳を傾け、心を注ぎ改革を願えば、主が変化を起こしてくださる。
驚くことに常に全能の神が小さなこの私に寄り添ってくださっていることを発見します。
日々のあゆみの中に、「インマヌエル(主が共におられる)」を実感をもって見出すことができる。これがクリスチャンの歩みです。
永遠の主の力を確信し、安心して、主の力の中に浴するということが私たちには必要です。
主の支配の中に、主の庭に、主の園におるのだという安心感が大事です。
そうでないと、何か持っているとか、何かできるとか、人よりも優れているとか、そういったことに縛られて、目が奪われ、神の視点に立つのではなく、自分が正しいと人に認めてもらうために行動するという、自我の奴隷になってしまうからです。
強い力で、永遠から永遠まで主があなたを守ろうとしておられる。それは御子キリストを十字架におかけになるほどであった。これを知り、この確信を心の宿し、主の心に浴し、回復する。
この地点にまず立つことが大切です。
主の心に浴すると、自分を大きく見せることは、ゴミのような内容であることに気づきます。空洞の空洞の話です。
神が私の価値を認めて、私を神が「よい(トーブ→ヘブライ語で善いとか満足したとかいう意味がある)」と言ってくださり、その永遠の主の評価の中を生きれば、だれも、何をも私を否定することなどできないことがわかるのです。
そこに立たないと、なんとか認められようとするポイントを探そうとします。自分がこのような点で優れているとか、より信仰的にすごいところにあるとか。立派なおれをみてくれとか。
ここがいつも罠として存在する内容です。
主の心に集中しないと、自分をアピールすることになります。
それは主がどのように私たちを見ていてくださるのかという内容のある話しを知ったものからすると、全く意味も、価値もないゴミです。実際に「おれのすごさを知れ」ということが背景にあることは、何も生み出しません。
ファリサイ派の人たち(ユダヤ教の超保守的な真面目な信仰者)はイエス様にやり玉にあげられてしまいます。
というのも、モーセの座について、自分たちは教えることができる立場なんだということを誇っていたからです。自分たちの敬虔さを誇っていたのです。
イエス様から言えば、それは全く敬虔でも信仰深いことでもないのです。
弱い立場にある人たちに実行することができないようなことを力あるものが上から押し付け、自分自身は実行しないという愚かさの中に落ち込んでいる。これは主への信頼に生きるものの姿ではありません。
モーセの座、教えることができるという座に鎮座ましまして、自分が偉く見えるかどうかを見ていた。だから、神を見ていませんでした。
神様が何を願い、どういう視点なのか、どのように恵み深く一人の人に接してくださっているのかは無視していた。
成長と命の視点はもっていなかった。自分が大きくという視点です。
主はその魂胆を見抜いてこのようにおっしゃられました。
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱のひもを幅広くしたり、衣の房を長くしたりする。(マタイによる福音書23:5、新約44)
全部見抜かれていますね!
尾ひれをつけて大きくしていることも見抜かれていますね!あぁ、恥ずかしい。
ということを我々は人に見られないと思ってしていますが。全部主には見えています(汗。
イエス様の視点はあまりにも鋭すぎます。MRIじゃないですが、全部すけて見えているんですよ。
本当に内側で隠している本心の思いは何かです。
主はそれに報いられるんですよ!
このポイントを押さえてくださいね。じゃないと何十年も無駄に過ごすことになります。
やがて私たちの心の内にあることは結果をもってあらわになる。
何千年もの時をへれば、それが聖書のように残っているか、消えているかどちらかでしょう。
おれを大きく見せたいという動機のことは全部消えています。
主の命と成長の視点に合わせれば、永遠に残されるでしょう。
人間って常に迷っちゃうんですね。どうしようもないですよ。礼拝に出席しても心は迷っている。イエス様にやり玉にあげられている人たちはおそらく私たちの何十倍も真面目に信仰生活をしていた人たちですよ。今もファリサイ派の人たちが祈っている姿を見ることができます。嘆きの壁とか西壁、ライブカメラとか検索して見てください。本当に四六時中祈っています。
でも、ずれていると主イエスは言うのです。的を外します。罪の中に落ちます。神様のこころが中心じゃなくなります。
そういうものであることを痛いほどに味わい、自分の問題に気づいているかどうか。
そして、瞬間瞬間主に立ち帰っていくものであるかどうかです。
私ごとですが、いかにおれが真面目になったか、回心したか、変化したか知ってほしい。それを人に見せたい。そんなことが動機になっていたことがあります。いや、今もどこかにあります。
しかし、本当に大事なことは、主の心に私が触れ、感動し、癒され、喜びが与えられ、その力によって今動かされている。その主の心にすべての人が触れるということ。ここに集中することが大事だってわかっています。
でも、なんか不純な思いが去来する。
もうね、何度も死ぬほど立ち帰れば良いんだと思いますよ。聖書を読んでいると、「おれこそは正しいとか、信仰深い」というように思っているひとこそが誤っている(汗)。
説教者である私が一番危ないというか。一番の偽善者になっていることが多いのです。
私は人に誇れるようなところはいっぱいもっている(エッヘン)、、、しかし、それはまさしくゴミである!それによってキリストに至るのではないと大胆に公に宣言してしまうことです。
私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。・・・しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。(フィリピの信徒への手紙3:5~8、新約356)
むしろ、私の弱さこそが、私をキリストに結びつけた宝であると。キリストを知ることに比べればすべてがゴミのように小さなことに見えてくるが。これまでゴミと考えていた自分の弱さこそが、キリストを知る入口になる。
だから、「かつてはゴミと考えていた弱さこそが、私にとって宝のように価値のあること」であるということです。
パウロはキリストの弟子ステファノを殺しました。しかし、その最低最悪な出来事が、常に彼にとっては自分自身をキリストの前にたたせる出来事となったのです。
自分が殺人者であるという現実を受け止めきれますか。私は受け止められません。もし自分だったら首を吊りたくなります。。。
もし、私が白銀教会の誰かを自分の正しさをぶつけ、義憤をもって殺したら。絶対にそんなこと起こりませんよね。しかし、パウロにおいては起こっていたんですよ。教会のメンバーを彼はキリストを知らなかったときでありましたが、殺したんです。
キリストの弟子を殺したのです。
その記憶は無かったことにしたい。もう触れたくない、触れてほしくない。
しかし、この出来事は聖書に記述されてしまいました。というよりも、おそらくパウロ自らこのような自分の恥というか、考えられないような黒歴史を自ら語ったのです。
そういうものをあえてオープンにしてその闇にキリストが触れてくださったことを証したのです。
彼の登場の仕方は「キリスト教の迫害者」です。
最低最悪です。しかし、彼こそが、神の恵みを全身にうつすものとなりました。
だから、自分がどう見えるのかではないのです。自分の人生が周りの人が最低最悪と評価しようが、そこでキリストが出会ってくださるのですから。
ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。(コリントの信徒への手紙Ⅱ 12:9~10、新約333)
キリストは心を開くものたちの人生を光で満たしてくださいます。
特に闇の中に光が輝くのです。
私たちが自分たちの闇がどのようなものであるのかを自覚して、それを主に明け渡したとき、その闇から光が輝きだすということを次々と経験していきます。
主は一つ一つ問題に触れてくださいます。ファリサイ派の人たちの問題を指摘するだけではないのです。心開いて、主のお取り扱いを願えば、何から何まで主のお取り扱いを受けることができます。
私は驚くほど様々に癒しを経験してきました。
ニコチン中毒やアルコール中毒から解放されました。物質的に脳にドーパミンが湧き出してくるようなもの、中毒症状を呈するものに対してかなり弱い部分があります。
食べ物もコントロールできませんでしたし、ネット情報を見ることにはまり、ゲームにはまってしまったり。食べることも忘れ、寝ることも忘れゲームをしていた時期もありました。
本当に愚かな時間を無為に過ごし続けてきました。
しかし、主は確かに私に触れてくださってそこからどのように逃れて、どう生活を改善するのか、一つ一つ方法を指し示して教えてくださいました。
自分がいかに愚かなのかということを知るという、その痛いプロセスをたどらないといけませんが、しかし聖書を読んでいると、愚かな自分を認めて、神のもとに帰るということがいかに力ずよいものかわかってくるのです。
主はそういう人を絶対に何があっても見捨てずに、導かれる!
それが聖書に記されている4000年、いやもっと長いスパンで実現していっている歴史ですよ。
主に立ち帰るならば、絶対に見捨てられない。
主に立ち帰るならば、絶対に見捨てられない。
主に立ち帰るならば、絶対に見捨てられない。
私のあんな黒歴史にまでも触れてくださる。そう確信できるのです。
私の黒歴史とはなにか。
それは牧師としての牧会生活のなかで、たびたび、何か問題が起こることの責任をクリスチャンたちや、教会のせいにしてきたことです。裁いて心の中で見限り、殺してきてしまったことです。
しかし、この恥ずかしいところを通して主の力が溢れだすのです。
自分の愚かさを知れば、他者の前で低くなるしかなくなるでしょう。主は私たちを一番偉い者にしようと本気で思っておられます。だから、低くなるように導かれるのです。自分の愚かさに気づくように、私たちはファリサイ派は律法学者そのものですよね。
しかし、そのような気づきが与えられるものを主は高めてくださいます。
あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも、高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。(マタイによる福音書23:11、12、新約44)
アーメン。