主人が僕に託される財産というのは莫大なものです。
主人というのはイエス様のことを指し示します。僕というのは、私たちです。
イエス様が肉の目においては不在状態というのが、現状の世界のことです。
イエス様は、肉の体をもってしてはここにおられない。天に上げられて、私たちに聖霊をお送りくださり、私たちが信仰に満たされて、信仰によってイエス様のお姿を見ることが許されていますが、この肉の目をもってしては見えません。
だから、不在状態。
そこで、不在状態の主人は、僕にご自分の財産を預けてくださる。主への信仰を回復した人たちにとっては、この与えられている賜物というのは、まさに賜物であって、主人の財産であるのだということに気付きはじめている人たちのことですね。
「肉体も魂も霊」も、すべてイエス様から預けられているものです。
が、この洞察というのは、一般的な世の感覚とはかけ離れたものであると思います。私たちがいかに神を離れ堕落してしまっているかということがわかります。
どちらかというと、いつも「預けられている」ではなくて、「私が持っている、私のもの」という感覚に立ちがちです。これが罪の現実です。
しかし、違う、預けられたタラントンです。タレント、賜物。それらはすべて神からのものです。
霊も、肉も、魂も神様からいただいた授かりものです。
白銀幼稚園の保護者の皆さまへの教育講演会で、北陸学院中高の堀岡満喜子校長先生が来られておっしゃられていました。
「子どもは作ったのではなくて、子作りしてできたのではなくて、神からの授かりものである。」
そこに立つことがまず大事だ。考え方全部に影響を与えるというような趣旨のお話を聞くことができました。まことに幸いでした。
神からの預かりものであるタラントン、タレント、賜物というところにそのままスライドして当てはまると思います。子どもだけじゃないです。私たちが得ているものすべて。一番わかりやすいのが命そのものがタラントンです。
私たち自身が、神からの授かりものです。
この感覚は、私が生きてきて悩んできた問題の核心に超ジャストフィットします。
「私は生きたくて生まれてきたんじゃない、なんで生きなければならないんだ。」というそんな問いが中学生の時からどこかにありました。
それは、まさに全部神からの預かりものであり。自分で生きたいから生きているのではなくて、授かったから、ここにいるんだ。
神のご意思がここにあるんだという世界だったということに20を超えて、聖書に出会って気づき始めました。
だから、私は、いま不在のように見えるイエス・キリストが私に授けた賜物を、タラントンを一身に引き受けたものだったということ。そこに立つことがまずは、重要だったのだと思っています。
この地点からすべてが始まりますし。癒しもこのポイントにあると思います。
そのうえで、タラントンという単位と価値について知っていただきたいと思います。貨幣の価値としては、1タラントンは6000デナリ、デナリというのは一日の賃金と言われていました。だから、1タラントン=6000デナリは、まぁ、超ザックリ言うと6000万とか7000万とかそういう感じですかね。確かに、主人は絶対的に大きな、偉大なる価値のあるものを私たちにドンって最初から預け、授けているのです。
で、気になってくるのが、どうして5タラントンの人がいて、2タラントンの人がいて、1タラントンの人がいるのかということですが。そのことに対する答えが記されています。
それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて、旅に出た。(マタイによる福音書25:15、新約48)
「それぞれの力に応じて」と書いてあります。それは、私たちの考えではなく、神様の見立てです。神の分析、思いによって私たちにはこれだけ必要だ、これだけ預けなければという「神様のご配剤によって」決められているということです。
言い換えると、賜物の大小の責任はこちら側にまったくないとも言えます。
こちら側がいくら、おれはもっと欲しかったとか、そういうことを言っても、的確で必要な、ジャストな量が授けられているということなのです。
タレントの飯尾和樹さんのギャグの「あーあ、オレの親父がトム・クルーズだったらなぁ」というものがありますね。もう私、飯尾さんが大好きでたまらないんですが。。。
もっと一杯いろんなタレントをもってたらなぁというようなギャグですね。
そういうところ。みんな思うんです。
だから、刺さるんだと思います。
我々はいつまでも、どこまでも他者との比較にとらわれて多い少ないで考え、卑下し、また逆に高ぶったり、そんな次元の低いところをうろうろしていると思います。
しかし、もう悩む必要はないですね。神様の配剤によって、理由はまだわからないけれども(天に行ったら気づくでしょう)、的確なものが私に授けられているということです。私が成長するのにジャストサイズなものがあつらえられているということです。
適格で公正なものを授けてくださると信じて、その信頼によって、バチバチに私たちがもっているものをどんな状況であろうが用いて、成長させていく。そこには神のご意思、ご配材、ご計画がある。神の心があると信じて、信頼をささげることによって成長するのです。
それが天の父の願いであることがわかりますね。
そのためには、この主人が一体どんなお方か、良くわかっておく必要があると思います。これが要です。これがわからなくて、神様がどういうお方かにフォーカスできないのが問題なのです。
すると、自分自身が何を持っているとか持っていないとかなり、恐れにとらわれて道を踏み外すのです。
旧約の歴史を見てください。自分たちには力がないと言って、神が勝利を約束している戦いからイスラエルの民は逃げました。神の言葉よりも、自分たちの目にうつる、自分たちの分析、肉の思い、私たちがどう思うかを先行させたのです。(カデシュ・バルネア→申命記1:19~33)。
この主人は圧倒的に偉大な、考えられないぐらいのタラントンを持っている。
旧約聖書を見てもわかりますが、主が願われたら、どんな劣勢でも逆転できます。敵13万5千人の軍隊に対して、300人で楽勝の楽勝、余裕の余裕で、戦わずして勝ちます(士師記6章~)。
預けられた資産は主人の全財産というわけではまったくありません。主人はその何億倍というような天文学的な倍数の資産を持っています。いうなれば、世界人口79億人ですから。私が持っている79億倍以上をもっておられるということです。
21節を見ると、5タラントンのことを、「少しのもの」と呼んでいます。これは驚きですが。3億円に相当するものが少しなのです。それが主人です。ここをまずは知らないといけませんね。
また、3億円を人に預けることは、それがまったく失われてしまう可能性さえあるわけです。しかし、そういったことをすべて甘受することができるほどに、偉大な資産をお持ちである。それが私たちのあるじであるイエス・キリストであるということがわかります。
僕が失敗しようが、しまいが、すべてのリスクを甘受し、責任をおとりになられる、そういう能力をお持ちのお方である。
聖書を、イスラエルの歴史を見てみるとそれが真実であることがわかってきます。
イスラエルは失敗しかしません。
なのに、神様は、イエス・キリストをお送りになり、信仰に立つものが全員救われるようにしてくださっています。全責任を担って、すべてをかけて、救い出すことがおできになるのだということ。何がすでに起こっていたとしても、全責任を担ってくださるのだということがしめされていますね。
だから、このお方に信頼して、勇気をもって自らに与えられた賜物を最大限に生かし、失敗も何も恐れることなく、ただ、主人のこころだけを恐れて前に進めばよいのだということがわかってきます。
この箇所の問題の核心とは何でしょうか。それは、僕が「主人がどういうお方であるのか」にフォーカスするのを忘れ、自分を「比較の中で、他者よりも少ない」ととらえ、判断を見誤ったということです。
彼は主人のことを間違って理解しています。主人は僕が成長して、いただいたものを十分に生かすことができるようになり、その僕のほんの小さな業を見て、「おぉ、忠実な僕よ!」と言って宴会をしたいのです。
お前はそんな小さなことに対しても忠実であったのか。なんという忠実なものよ!と大喜びしたいのですよ。
子供が与えられたものを大事にして、喜んでそれを何かの役に立ててと。
そういう子どもの姿を親は見たら、もう死んでもいいと思えるぐらいうれしいんじゃないでしょうかね。
私は、今まで親の善意をドブに捨てるような行為をたくさんしてきてしまいました。死ぬほど勉強して、偏差値をあげて、私立のめちゃめちゃ学費がかかる学校に入れてもらったのに、そこに入った瞬間から勉強しなくなりました。あんなに朝から晩まで勉強に命を懸けてるんだから、大成せいよって、大枚はたいて道を開いてくれたわけですよ。
しかし、全部をドブに自ら捨てました。
しかし、それでも見捨てないその親の姿を通して、私は学びましたし、私の内にある不思議な平安というものは、父母が与えてくれたものです。
その与えていただいたものが、父と母を知るためのものでありましたって、本当は私はちゃんと伝えなきゃいけないですね。父はもう去ってしまいましたから。母にですね。
主人がどういうお方か知って、信頼をして、与えられているものを最大限に生かして、主人が祝宴に向かいたいと願ってくださっていて。「おぉ、忠実な良い僕よ!」と宣言したくて。少しのものであっても忠実であったのならば、それを最大限に受け止めてくださって、宴会をしたいという。
それが私たちの父なる神。メシア・イエス・キリストのこころ!
神がどういうお方であるかを見失うことによって。それを中心に置かないことによって我々は堕落します。それがホセア書に記されています。
イスラエルの子らよ、主の言葉を聞け。この地に住む者を主は告発する。この地には真実も慈しみもなく神を知ることもないからだ。呪いと偽り、殺人と盗み、そして姦淫がはびこり流血に流血が続いている。それゆえ、この地は乾きすべてそこに住むものはしおれる。野の獣、空の鳥、ついには海の魚に至るまで絶え果てる。(ホセア書4:1~3、旧約1386)
神様がどのようなお方かを知ることを忘れた民は堕落するのです。
そこにはディスオーダー(無秩序)が入り込みます。争いが入り込みます。人格否定がお互いの得意技になります。そんな乾いた地には、命を求めるものは集まりません。
それは主のご性質である、慈しみ(神が約束を必ずお守りになられる、ヘセド)、真実(信頼と真実によって私たちを満たしてくださる、エメト)なお方であることを忘れることによって起こります。
何があっても、主を知るためのものであることを忘れるな!
そうでなければ、私たちの勝手な「わたくしごころ」が優先されて、父が恐怖を与える方だから、恐怖に対応するようにしなければと、タラントンを地に埋めておかなければとなってしまいます。
我々が、注目して、いつも見ているべきは、主イエスのこころです。
ここから外れた瞬間に我々は堕落し、自分の考えによって行動し、主によって道を閉ざされます。
まぁ、道を閉ざされるというのは幸いの中の幸いです。そこで、また回心のチャンスが訪れるのですから。なんども主によってストップがかけられているのに気づかないというのが我々の偽らざる姿でしょう。
白銀幼稚園や馬場幼稚園の幼い子供たちが先生に信頼をささげてよだれを垂らしながら走って両手をあげて運動会でゴールするように!
私たちも信頼をささげて、主が信頼に足るお方であることをすべてに見て。誰が見ても、「この人たちは成長するよな」と思うような、信頼の走りをささげたいと願います。アーメン。