次週の主日礼拝

2024年3月3日(日)午前10:30~11:45
受難節第3主日礼拝
旧約聖書イザヤ書56章1~7節
新約聖書使徒言行録18章1~8節
説教「御言葉を流す通路」石井和典牧師

◇ 今週の集会 ◇
≪聖書研究祈祷会≫

2月28日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記24章28~53節
祈祷題:「新年度の準備のために」

<礼拝前の黙想のために>
牧師たちの集まりに最近は積極的にすべて参加するようにと意識していますが。非常に恵み深いものを得ています。献身している人の近くにいることは多くの発見があります。聖書の言葉の近くにいつもいるということも常に発見の連続です。聖書の言葉は神の言葉であり、「献身者によって集成された言葉」だからです。
聖書は財宝そのものなので、若い人たちは特にここから離れないで、常に聖書を持って生きてください。10代、20代からこれを小脇に抱え、問題にぶつかるたびに立ち帰ってください。
大切な宝がすでにご自分の人生の足元に埋まっていたことを発見なさることと思います。
聖書を参照しつづけると、皆様が経験なさる人生の些事が実は甘露味を帯びた主からのメッセージへと転換するときがくると思います。ユダヤの民が聖書を子どもたちに教えるときに、甘い蜜をなめさせながら教えるとも聞いたことがあります。聖書にたどり着いた民はなんと幸いでしょう。      (石井和典)

次週の主日礼拝

2024年02月25日(日)午前10:30~11:40
受難節第2主日礼拝
旧約聖書:創世記1章1~5節
新約聖書使徒言行録17章16~34節
説教「神の中で生きている」石井和典牧師
≪聖書研究祈祷会≫

2月21日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記24章10~27節
祈祷題:「求道者のために」

<礼拝前の黙想のために>
エス様との出会いは常に光で照らされます。新しいものの見方ができるようになります。私がはじめて伝道師の試験を受けるときに菅原力先生が教師検定の委員長として、私をテストしてくださったことを思い出します。あの時から、私にとって日本基督教団と菅原力先生とは切っても切れない関係というか、私の中では教団といえば菅原先生という感じです。不思議なイメージの仕方ですが。
そして、つい先日の中部教区の教師研修会においても、菅原先生から「日本基督教団の教会で教師として生きること、また教会生活をしていくことの喜び」を聞き取ることが許されました。
こういう感じで、神様の御業、神様からのメッセージというのは、不思議なくらいつながりがあり、また私の中でラインというか、筋というかつながっていくものです。
信仰が与えられなければ見えてこないものです。信じれば見えてきます。神様がおられるからです。導きはずっとかわらずあり続けるのです。発見するかしないかです。(石井和典)

2024年02月18日(日)午前10:30~11:40 

受難節第1主日礼拝 

説教「キリストの信実によって生かされる」菅原 力牧師 

新約聖書ルカによる福音書22章31~34節
◇ 今週の集会 ◇
≪聖書研究祈祷会≫
レント(灰の水曜日)
2月14日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記24章1~9節
祈祷題:「受難節の歩みを覚えて」

<礼拝前の黙想のために>
この記事を読んでくださっている方は、ご自分の信仰生活に真摯に向き合っておられる方だと思います。私はクリスチャンとして歩んで23年にもなろうとしていますが、成長は遅々たるものだったと言わざるを得ません。なぜ遅々としてしまうのかというと、本当に大切なことを第一にしてこなかったからです。それは「祈り」です。
エス様はイザヤ書56章7節を引用されて、「私の家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と教えてくださいました。家とは神殿のことを指しているのですが、「主がおられるところ」です。それは私たちクリスチャンにとっては、自分自身なわけですが。主のご臨在するところは、例外なく「祈りが満ちる」のです。
主の心で満ちる。主のご臨在を味わう。主との関係を楽しむ。喜びで満ちる。世界中のキリスト者たちが、イエス様が何を大切にされていたのかに気づいて、そのままに生きるようになったら、そこら中から命の泉が湧き出して復活の空気を味わうことでしょう。  (石井和典)

次週の主日礼拝

2024年02月11日(日)午前10:30~11:40
降誕節第7主日礼拝
説教「熾烈な霊的戦い」石井和典牧師
旧約聖書詩編2編1~6節
新約聖書使徒言行録17章1~15節


≪聖書研究祈祷会≫
2月7日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記23章1~20節
祈祷題:「受験生・卒業生のために」

<礼拝前の黙想のために>
エス様はエルサレムに王として入場されました。そのお姿はロバにまたがられる姿。謙遜さと柔和さが権威です。真の権威は、「ロバに乗った柔和で謙遜な王」にあります。
我々は何もものが見えていないと言えます。本当に力ある方はこのお方なのに、別の権威や力を求めます。王がまるで別にいるかのような態度です。何か頼りになりそうなもの。周りの人々が賞賛していたりする。すると、その力に寄りかかっていきます。
人間は1秒先のことも予測できません。しかし、イエス様にはご自分が十字架におかかりになられることも見えていました。今このように私たちが礼拝堂に集っていることも。前段階が何年もあってやっとここにいることも。全部お見通しです。
そうです、千里眼
このお方だけです。他の人には何も見えていません。このお方のところに行って、癒しを受け取ってください。主が仕えてくださったように、低くなって礼拝すると、人生が復活します。   (石井和典)

次週の主日礼拝

2024年02月04日(日)午前10:30~11:45
降誕節第6主日礼拝
説教「福音は閉じ込められない」石井和典牧師
旧約聖書出エジプト記20~22節
新約聖書使徒言行録16章19~40節

<礼拝前の黙想のために>
聖書を通読していて気づくのは、主のご意識が必ず最後には実現するのだということです。主イエスがお命じになられたことが、皆様の使命となり。その使命は私たちが信じ受け入れると必ず実現していきます。
人間は様々に心に夢を抱きますが、実現なさるのは主です。だから、はじめから主がどうお考えであるかの実現をはかっていくのが最短コースなのですが。人間の心は最短コースを選ぶのではなくて、徹底的に迂回して遠回りしてしまうものです。一筋縄にはいきません。私はもうクリスチャンとして歩んで23年にもなります。こんなに時間が経っているにも関わらず、信仰生活ははじめの一歩を踏み出したよちよち歩きの赤ん坊のようです。
こっちに頭をぶつけ、こっちにしりもちをつきという感じです。七転八倒の歩みでありますが、そこで主に対して一歩踏み出すだけという遅い成長を遂げる。しかし、主はその遅々たる成長を喜んでくださいます。だから、ゆっくりでも「一歩前へ」です。(石井和典)

次週の主日礼拝

2024年01月28日(日)午前10:30~11:40
降誕節第5主日礼拝
説教「悪霊を追い払う」石井和典牧師
旧約聖書詩編106編44~48節
新約聖書使徒言行録16章11~18節

◇ 今週の集会 ◇
≪聖書研究祈祷会≫
1月24日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記22章1~14節
祈祷題:「高齢者の健康のために」

<礼拝前の黙想のために>
 絶対に裏切ってはいけない人。絶対にこの人だけのことは守ろうと思っている人。そういう人に対して最悪のことでしかできなかったというところから弟子たちの歩みははじまっていくと言っていいでしょう。
 「絶対にこの人への忠誠は守る」と弟子たちが思っていたのは、イエス様についてですが。その人への不義理をこそ行ってしまうのが人間です。その大失敗から、大切なことにたくさん気づいて行くのです。
 初代教会の使徒たちの歩みというは、信じられないほどに力強い歩みですが。「大失敗」という基礎があってこそ、彼らの強さが生み出されていたことを思います。
この大失敗からの回復が確信されるから、隣人への伝道、隣人が立ち上がる。本当に復活が一人一人の中で起こっていくと信じつつ、教えを手渡すことができたのです。
イエス・キリストの心によってこの地域がやがて復活させられると信じています。(石井和典)

次週の主日礼拝

2024年01月21日(日)午前10:30~11:40
説教「聖霊から禁じられる」石井和典牧師
旧約聖書詩編51編12~14節
新約聖書使徒言行録16章1~10節

≪聖書研究祈祷会≫
1月17日(水)午前10:30~11:30 午後7:00~8:00
聖書:創世記21章22~34節
祈祷題:「新年の歩みのために」


<礼拝前の黙想のために>
 今、イスラエルの人々の叫びが私のもとに届いた。私はエジプト人が彼らを虐げているのを目の当たりにした。(出エジプト記3:9)
小さな一人の人が傷ついていることは主にとっては小さなことではありません。主はその叫びに応えてくださいます。だから、私たちがなすべきことは、「叫ぶ」こと、それは「祈る」ことです。
地震が起こって、できることは何か問いかけますが、できることは限られています。ならば、何があっても「叫び続ける」ことだけは継続していきたいと思います。主が応えてくださることを信じて、信頼のみをささげ続けましょう。
あの出エジプトを起こしてくださった力ある神が小さな一人一人の叫びに応えてくださる日がくることを信頼したい。
泣いていても、すべてを失っても、絶望していても、主のそばにこころを注ぐのならば、確実に道が備えられることを信頼し、愛する友のために私が叫び、愛する友と手を取り祈り叫ぶ日を仰ぎたいと願います。 (石井和典)