2022年5月8日 主日礼拝説教 マタイによる福音書20:17~34 「低い者が高くなる」石井和典牧師

2022年 5月8日 主日礼拝説教 マタイによる福音書20:17~34 「低い者が高くなる」 石井和典牧師

 

 力を手に入れたいという欲望が悲劇を作り出してきました。

 

 ヤコブヨハネの母が、イエス様に要望します。

 自分の息子たちを天において一番高い地位につけてください。

 それが「一人を右に一人を左に」ということが指し示す意味です。

 

 しかし、イエス様のお姿を見てください。最も偉いお方は、最も低きに下るのです。

 一番高いところに鎮座ましまして、動かずに、「おれが偉い」などと主張するお方ではありません。

 このお方は、愛です。

 

 愛さない者は神を知りません。神は愛だからです。ヨハネの手紙Ⅰ 4:8、新約433)

 

 主はもっとも高いところから、もっとも低いところに急降下される方です。それは、民を愛するためです。そのような究極の運動的な力を私たちにお見せくださるお方です。

 まるで母親が子どもに走り寄るようにです。本日母の日に思うべきことは、母の愛と同時に天の父の愛です。天の父がそのように走り寄るお方であるからこそ、母がこどものために走るということなのです。神が先です。

 

 だから、私たちは「どこにいようが何をしていようが」安心です。最悪の現実の中でも、主が走りよってくださることを信じることができます。

 

 主は必ず私のところにお越しくださいます。仕えてくださるお方だからです。信じてよいのです。

 弟子たちの足を洗われるとき、単にその時だけ、その特定の弟子たちの足を洗ってくださったということではありません。すべて主に従って、主の御前に、主を主人だと認めて自分自身をささげるもの、そのものに対して常に、永遠に変わらずに主がしてくださること。

 

 それが洗足木曜日、最後の晩餐、聖餐式で示されている内容なのです。

 

 主は永遠に変わることなく私に仕えてくださる。

 何度も言いますが、私がどこにいようが、どんな環境であろうが、どんな境遇であろうが、関係ありません。例え戦火の中にあったとしても、です。主は現れてくださるはずです。

 主は愛なるお方だからです。もっとも高いところからもっとも低いところに下ってくださるお方だからです。この主のご性質は永遠に変わることがない。

 

 つねに、そのご愛を信じるものたちに対して、同じことをしてくださる。

 それが聖書から読み取ることができる内容です。

 

 十字架というのは、すべての民が避けて通りたい道です。最悪の最悪です。

 あなたはその死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない。木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである。あなたは、あなたの神、主があなたに相続地として与える土地を汚してはならない。申命記21:23、旧約299)

 子どもたちである私たちのために、最悪の道を通り、救いを達成されることを選ばれたお方です。

 イエス様は十字架に掛けられ、死なれ、すぐに十字架から降ろされましたよね。それは、安息日に入る前に、呪われたものを放置してはいけなかったからですよ。

 

 イエス様は「確かに呪われたもの」として、人々に「処理」されてしまったのです。

 

 そんな最悪な最後、誰も望みません。

 私は「今自分が死のなら、今何をするのか」という黙想というものを毎日していますが。

 もちろん、自分が呪われたものとして、人々からさげすまれ、つばをはきかけられながら死ぬなどということは、どう考えても黙想のなかで出てきません。

 

 しかし、イエス様はその最低最悪の道を実際にお通りになられたのです。

 この世界を造られた神の独り子、そのような方が通っては絶対にいけない道であります。

 しかし、主はその道さえも通ることができました。

 なぜなら、私たちを愛してくださったからです。愛とはどういうことなのか。

 

 何があっても私たちのところに主は来られるということです。

 

 愛するということを通して、すべての壁を乗り越えることができる。

 そのような運動的な力、柔らかさを私たちにお見せくださった。それがイエス様であられました。

 

 イエス様はその最悪の道をこのように表現して弟子たちに教えてくださいました。

 

 「今、私たちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を嘲り、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」(マタイによる福音書20:18、19、新約38)

 

 最も低いところに下るということを主がおっしゃられている時に、弟子たちが考えていたことというのは、「自分がどうやって上に上がる」のかということでした。

 

 徹底的にみんな間違っている。方向を失っている。

 逆に行っている。転倒している。そのことを認めることができる。こういう空間。それが、教会なんですね。

 イエス様の前にみんな間違っている。

 あの人が間違っているのではないのです。「私こそが間違っていたのです。」

 それを簡単に認めることができる。ああ、なんという真実なる空間なのでしょうか。

 

 痛々しくて見ていられませんよね。弟子たちの姿。しかし、これは実際の私たちの姿のように見えてきますよね。

 イエス様の前で、自分が正しいことを言っているような気になって、しかし実はイエス様が見ている方向と違う方向を見ていると。これは、まさに教会のリーダーシップをとっていこうとするこの代表役員である私がはじめに犯す間違いであろうと思います。

 ビジョンを指し示すんだと言って、自分が正しい道を指し示しているかのように演じている。しかしいつも主に聞いて、修正されて、主がその杖でただしてくだささらないと、常に間違えるものであると本当に自分で認めているのか。

 自分が振りかざしてしまって、掲げてしまったものをとりおろすことができないでいるのではないか。そういう問いかけを自分にできない限り私は、自分が何か偉いものであるかのように思い込んでしまっているということになるでしょう。

 常に、間違え、常に、転倒し、常に方向がずれている。まったく逆を行っているかもしれない。

 こういう弟子としてのあり方というのが「自分で見えて、主が目指している方向が見えてくる」のだと思います。

 

 エスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。私が飲もうとしている杯を飲むことができるか。」彼らが、「できます」と言うと、(マタイによる福音書20:22、新約38)

 

 これも見えていませんよね。神の愛に徹底的に満たされつくされない限り、こんな自分がぼろ雑巾のようにさせられて捨てられていくなどという道をだれも通ることはできないのです。彼らになど、絶対にできません。

 自分がキレイに、高く引き上げられて、キラキラ光って、そのうえで、力を奮って、誰かの上に立つなどということを目指している彼らに、十字架にかかることなど絶対にできません。

 

 しかし、「できる」というのです。何もわかっていないからです。

 

 しかし、わかったとき、彼らはただひたすら涙しながら、十字架のもとにひざまずくしかない、ただ泣き崩れて、その恵みを受け取ることしかできないんだと受け止めている自分に気づくのです。

 

 クリスチャンの共同体って私は最高の共同体だと思います。

 なぜなら、「自分の目に丸太があると気づいている人たちの共同体」だからですね。イエス様の御前で全く恥ずかしい自分しかいないこと。

 イエス様が考えておられたことと全く真逆のことばかりしてきたこと。それを認めている人の集まりだからです。

 

 その人たちって、絶対だれよりも謙遜ですよね。自分が間違っていたことを認めて呆然としているのですから。最高です。こんな共同体ほかにありません。

 

 私たちは、どれだけおなじ問題をいろんなところでおなじように行い続けるのでしょうか。

 

 権勢を手に入れたいという欲望が、世の悲劇をつくりだしてきました。

 

 そんなもの手にいれても本当に偉くはなれません。本当に偉いというのは、十字架にかかることだからです。一番下で、ぼろ雑巾のように扱われて、捨てられて、処理されてしまう。そこまで下って下ることができる愛が内に燃えているということだからです。

 

 あなたがたの中で頭になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」(マタイによる福音書20:27、28、新約38)

 

 イエス様が憐れんでくださると目が見えるようになります。

 本当に見る必要があったものが何なのかが見えるようになります。

 この弟子たちとの対話の間に盲人の癒しが挿入されてくるということには、皆様お気づきでしょうが、特別な意味があります。

 ちょうど今日の箇所のあとにも挿入されていますね。マタイによる福音書20:30~34です。

 

 ここにしるされているということの意味は、「弟子たちは目が見えていなかったけれども、見えるようにしていただいた」のだというメッセージが込められているということです。

 主イエスの憐みのこころが注がれる、その主イエスの憐れみのこころだけが鍵であり、その憐みが注がれるところ、人々の目が開かれてものが見えるようになって、本当に大事にする必要があることを大事にすることできるようになっていく。

 

 というか、今までは見えなかった!ということなんですね。

 

 イエス様のご愛のもとで自らの胸をうって自分が間違っていたことを認めて立ち返って、自分の義を捨てて、自分を捨て十字架の主に従うまでは、何も見えなかったのです!

 

 しかし、見えるようになった。

 

 だから、弟子たちは教会共同体を造ることができるようになりました。何を大切にすれば良いのか、見えた。見えたものが形作る共同体には、特に悲しみを抱えた人たちが訪れ、そこで癒しを体験します。十字架の主の御前で自分が一番憐れまれるべき罪人でしかない。そう本気で思っている人たちの共同体。足を踏み入れたいですね。主が高めてくださいます。アーメン。