2022年4月17日 イースター礼拝説教
ルカによる福音書24:13~35 「すぐ近くに主はおられる」 石井和典
しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(ルカによる福音書24:16、新約158)
見えないんですね。復活のイエス様が。最初は。
二人の弟子たちはこれまでに起こった出来事を自分の頭で整理しようとしていました。しかし、整理がつかないし、目の前にイエス様がおられるにもかかわらず、イエス様であるということに気付きません。
目の前におられるのに気付かない。
象徴的な内容ですね。この時この時代の弟子たちのみならず、すべての時代のすべての人がこういう状態なんじゃないでしょうか。
イエス様が敗北の姿をもって勝利される。そのようなことを弟子たちは受けとめることができませんでした。メシアは圧倒的な勝利をおさめると思っていました。また、そうでなければ、メシアとは認めれないとまで思うものもいたはずです。だから、十字架から逃げたのでしょう。
私たちには、十字架の姿が、福音書の記者たちの信仰と証によって、これが栄光のお姿であるということがわかっています。
特に、ヨハネによる福音書ははっきりと、詩編22編を引用し、十字架が聖書の言葉の成就であるということを語っています。しかし、その場に居合わせた人々にとって、これが勝利の姿であり、主の言葉が実現していく道のりだということは、理解できなかったのです。
人間には主の勝利がどのようなものか気付くことができない。だから、啓示を通して、理解が与えられて、敗北の姿が勝利であったことが示されるのです。
私たちは自分の歩みが「神様の心の実現のため」であるということをなかなかすぐには受け入れることができないでいます。
自分の歩みは自分の歩みと思ってしまっているのです。
自分でコントロールできると思っている。でも、本当にコントロール可なのでしょうか。私はそのようには全く思わなくなってきました。そもそも、私は自分でコントロールして生まれてきたのでもありません。
聖書全体を読み進んでいけば、かならず神様の心だけが実現する、それ以外はならないということがわかってきます。
当事者にとってみれば、神のみ言葉がまさかわたしのところで、この時、この場所で実現するということを受け入れるのは難しいのだと思います。
しかし、安心なのは、私たちがすでに生まれてきてしまったように、「実現するものは実現する」ということです。
私たちがどう思おうが、主ご自身が証の御業をつぎつぎと打ち立ててくださるということです。もしも目を開いたならば、それが見えてきます。
しかし「見ない」と「見えないまま」です。
見ないと見えないまま。それはイエス様がすぐ近くにおられても同じように起こることであるということがわかります。
弟子たち二人は暗い顔をしていたと記されています。
復活を信じていないと、暗い顔をするしかないのです。しかし、復活を信じ始めると暗い顔をしている必要がなくなります。
イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。それで、二人は暗い顔をして立ち止まった。(ルカによる福音書24:17、新約158)
暗い顔をしているということは望ましい状態ではありません。しかし、イエス様と出会って、道が開けていくときって、どんなときかというと、「暗い顔」をしていた時ですね!
何もわからずに、逡巡して戸惑って、道を失って、敗北感に打ちのめされている。
そんなときに、主は出会ってくださいますね。
出会ってくださると顔色が変わります。
肉の目ではどうにも出会えないようですね。見ていても見えない状況です。
イエス様ご自身はすでに語っていてくださいましたよ。ご自分の復活について、しかし彼らはまだまだ自分の思い込みで、肉の目で物事を見ていただけだったのです。イエス様はこのようにおっしゃってくださっていました。でも、通り過ぎて、受け止めているようでいて受け止めておらず、信じていなかったのですね。
そして、言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」(ルカによる福音書9:22、新約121)
聞いているようでいて、聞いていなかったのです。
情報としては頭にはいっていたけれども、確信がなかった。自分の出来事として体験していなかったということですね。腑に落ちてはいなかった。心の目が閉じていたからです。
私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、あなたがたに知恵と啓示の霊を与えてくださいますように。そして、あなたがたが神を深く知ることができ、心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。(エフェソの信徒への手紙1:17~19、新約345)
心の目が開かれ、悟るということが必要なのです。そうすれば、目の前で展開されていることがいかに恵み深いことなのかがわかるようになります。イエス様が目の前にいるということは、クリスチャンにとっては考えられないぐらいに大きなことですよね。
そのような考えられないぐらいに大きな偉大なことは実は起こっているということなのです。
それを見ていなかっただけなのです。
情報が情報のままで終わるのではなくて、そこから霊の発火、魂に火がつくということがおこる必要があります。
それが聖霊の満たしです。聖霊の満たしが起こって彼らがやっと悟るということができる。目の前のイエス様の姿が見えるようになるという出来事が起こるわけです。
ちゃんと彼らは情報は整理できていましたよね。
ルカ福音書24章19節から24節です。しっかりできています。
しかし、彼らにはイエス様が、力ある預言者としか見えていません。それは間違いではありません。しかし、彼らは受け止めきれてはいませんでした。それはイエス様が神の独り子、メシア。神と等しいお方であり、世界を創造なさるような力あるお方であるということです。イエス様が神であるということは受け止めきれていないのです。
彼らはイエス様がどのようなお方であるのか、本当には理解しておらず、今目の前に、復活の体をもって現れてくださるお方であるということは受け止めてはいませんでした。
神の独り子、メシアであるということを受け入れるということはどういうことか。
それは現代の私たちにしてみれば、いまここに、いまこのわたしに、主イエスが力をもってかかわってくださるのだということを受け止めるということです。
そのことを心の底から信じ、体験する。あなたに、主がかかわってくださると信じ受け止めるということです。これがイエス様がメシアであるということを信じるということです。
本当にイエス様あなたはメシア、神の独り子、神だったのですね。
あぁ、だからすぐ近くにおられ、インマヌエル(主は我々とともにおられる)となんども教えてくださったことが、今わかりました。
確かに主が私の歩みの中におられました。私に今ここで、また私の過去にも、かかわることがおできになったのですね。
ご自身を隠しておられるように思えるときにも、実はここに主の御業があったのですね、と読み取るのです。
神様は全能者であったのですね。私たちを造られ、創造には目的がおありだったのですね。
いまこのときも見ておられるのですね。というような洞察を深くすることができるようになるということです。
彼らにとってのメシア観というのはどこまでも、ローマ帝国からの解放!でありました。だから、力によって勝利するということ。そのことが必要だったわけです。
しかし、イエス様は、力によって勝利するのではなくて、人々を神の国に勝ち取ることによって、罪の赦しを得させ、神の支配の中にいれることによって勝つということを目指しておられたのです。一人の小さな小さなこどものような支援を必要とするその人から、こんこんと命に泉があふれながれて、そこらじゅうが満たされていくという祝福の道をみておられたのです。
心を復活させて、霊を復活させて、まさにいまここにいる人たちが魂の救いを得て新しい歩みをはじめ、祝福の源として歩みはじめることができるようにされるためでした。だから、全く力をもっていない、学もない、人脈もない、金もない、軍事力もない、使徒たちを通して、おそろしいほどの命の爆発が、命が満ち溢れて、人々が新しい歩みをはじめていくということが起こっていったのでありました。
このようにメシア観というものが、イエス様をどのように思っているのかということが更新されて、心が熱くさせられて、その熱くさせられたこころによって、聖霊の働きを確信して前に進むようになる。そのような道を主はこの弟子たちを通して見せてくださっています。
イエス様がご自分についてどのように書いてあるのかを証してくださいました。
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書いてあることを解き明かされた。(ルカによる福音書24:27、新約 )
律法と預言者といったら旧約聖書のことです。旧約聖書はイエス様に指し示すために記されたものであるということです。
イエス様がどのようなお方であるのかという洞察が深められていくことによって、弟子たちの共同体は変化していきます。
洗足木曜日の礼拝でもお話しました。集中する必要があるのは、私たちに何ができるのかとか、私たちが何をもっているのかではないと。
「イエス様がどのようなお方であるのか」ということであると。
そうでなければ、教会を通して起こった変化もおそらく全部忘れられていってしまうと思います。イエス様の御業として残っていかないでしょう。
「私たちが何ができるのか」にフォーカスしている共同体は教会とも言い難いです。
しかし、主イエスがこのようなお方であるというメシア観。イエス様がどうなのかが更新されるとすべてが変わっていくということを経験することになります。
イエス様と語り合うなかで、この力のダイナミズムというものを彼らは感じはじめていたのですね。だから、イエス様に一緒にお泊りくださいといいはじめます。どこの誰だかわかっていない状態ですよ。一体イエス様のことを誰だと思ったのでしょうかね(笑。
しかし、彼らはこのイエス様がどのようなお方であるのかという語りの中に心奪われるような経験をして、心があつくなって、このイエス様がどのようなお方なのかという語りをやめることができなくなっていたのですね。
その語りの現場に実はすでにイエス様ご自身がおられた!
そして、目が開かれた!
すると、あたりまえのことに気付いた。「そこにイエス様がおられたんだ」と気付いた!
肉眼の目でもはや見る必要がないので、イエス様は見えなくなりました。
すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。(ルカによる福音書24:31、新約158)
二人は互いに言った。「道々、聖書を説き明かしながら、お話しくださったとき、私たちの心は燃えていたではないか。」(ルカによる福音書24:32、新約158)
心燃える体験が、イエス様のことを語る中にあります。説教を聞いていて経験することというのはそういうことです。主イエスがご自分のお姿を、この語りの中であらわしてくださって。不思議なことにここに主がおられる、近くにおられたんだということが体験されて、心が熱くなっていく。
心が熱くさせられた人々の中に、復活の命がすでに宿っています。
私たちの心が閉ざされていると、「あるのに気付かない」で通りすぎるでしょう。
しかし、主イエスの心に感動する皆様の中にはすでに復活の命があります。
そこに集中の方向を変える。主が出会ってくださいます。そして、主イエスが物理的におられなくても、主の業が私たちによって行われていきます。私たちのうちに主が住んでおられるのですから。アーメン。