2022年6月12日 主日礼拝説教 マタイによる福音書21:23~32 「信じる力」石井和典牧師

花の日・子どもの日

 子どもたちが問安をして、やさしさを示し、癒しを与える。

 心が解き放たれて癒されて、満たされて、余裕がそこにある状態。

 そのようでないと、隣人のために心を開いていくことができずに、自分の問題で精一杯の状態になってしまうでしょう。

 

 自分の思いを捨てて祈りに生きることがいかに重要であるのか、祈りによって神に応答するところに、力が満ちていくということを先週のペンテコステ礼拝において聞きました。

 

 主を愛するという思いで満ちていないと、教会の内部の問題も、外の問題も解決していくことができないということをコリントの信徒への手紙Ⅰ(早天礼拝で読んでいます)の最後の部分から学ぶことができました。

 パウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来りませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 16:21~24、新約318)

 

 この箇所が何十年も私は引っかかっていましたが、やっと悟りが与えられました。

 主のご愛に応答することによって、感謝を満たすことによって、実際にあらゆるところに主を見て感謝することで心が満たされ、主を愛することで力が与えられる。その力は自分の内側から溢れるようになり、広がってパウロの内側にある愛が広まることによって問題が解決していく。

 

 主を愛さないと、何の力もありませんし、人に力を手渡すことができない。それでは何も解決しないのです。コリントの教会のようにどちらが優れているかと言ってお互い攻撃しあったら崩壊するだけです。

 

 しかし、主を愛することによって解決します。主を愛さないから解決しない。

 だからパウロは「主を愛さないものは呪われよ」と言っているのです。

 主の思いに応答すること、感謝の喜びで満たすこと。喜びの力が溢れてきて、問題は氷解していく。

 

 先々週の箇所。マタイ21章12節以下。

 イエス様が神殿において暴れられたということは非常に衝撃的な出来事でした。

 

 イエス様は冷静で落ち着ていていて、愛にあふれていて、怒りなどに支配されることはない。そんなふうに皆が思いますし、聖書全体を常に読み続けている人間からすると、このマタイ福音書21章前後の個所というのは非常に違和感のある内容となっています。当時のユダヤ教を呪うほどにイエス様が怒りを燃やしておられるのがわかってきます。呪うっていことがあるんですね。パウロも呪っていますね。

 力を発揮できない状態にあるとき、「そんな状態ではいかん」って呪うのです。祈りがないがしろになっていたのです。

 

 イエス様は確かに暴れられました。

 神殿で商売をしている人たちを追い出されました。そんなことをされたもんですから。神殿を支配していた祭司長や律法学者たちは、完全にイエス様を敵として扱うようになりました。彼らにとっての利権というのはまさしく神殿であったからです。自分たちを守ることができなくなってしまうので、イエス様が批判されたことを彼らは受け入れることができませんでした。

 

 イエス様は聖書を引用されて、批判されました。

 そして言われた。「こう書いてある。『私の家は、祈りの家と呼ばれる。』ところが、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイによる福音書21:13、新約39)

 この箇所はイザヤ書56:7の引用なのですが、イエス様はこの箇所を引用しつつ、神様に招かれたすべての人が、異邦人も子どもも女性もみな、当時の社会において区別され、差別されてきたその一人一人がイエス様の前で、神様の前でひざまずいて豊かな祝福に預かるようにと願ってくださっていたののがわかります。

 イザヤ書56:7前後で語られている内容を読めば読むほどにイエス様のお気持ちが伝わってきます。排除されていた病を負った人々に触れられているということからも、主のお気持ちがわかります。

 

 神殿は祈りの宮と言われて、信仰を寄せて集まる者たち、自分を低くして神様に心からお仕えするのだと願っている者たちが皆受け入れられて神様の民として生き始める。

 そのことへの純粋なる喜びの中に立つことができる。

 主イエスはそのように願ってくださっていたのです。

 しかし、神殿を支配していたものたちは、神殿を独占しました。

 自分たちの利権が守られる場所にしてしまいました。

 自分の庭にしたのです。そこには力がありませんでした。

 

 皆様、私たちが常に見ていくべき方向というのはどちらなのかわかりますか。

 

 イエス様が見ておられた方向ですよ。 

 それは一人の人が神様に触れられて、癒されたという涙のもと生活が一変するという驚くべき在り方です。そこに注目し、そのことが起こるようにと、主に対して歩みを常に整えていくということが教会がなすべきことであることがわかります。

 

 当時のユダヤ教のあり方を主イエスは、真っ向から批判されて、呪われました。

 イチジクの木が枯れてしまうということがその後に描かれています。

 イエス様が呪われた結果イチジクが枯れます。

 それは当時の腐敗してしまったユダヤ教をさしています。

 本来なら実りをたくさんもたらして、人々の喜びとなるはずのイチジクの木が何も実らせてはいないという現実を主イエスはご覧になられてお怒りになられたのでした。 

 

 信仰は常に命の実りをもたらします。

 

 神殿が建立されたはじめのソロモンの祈りは、すべての人がもしも神様のみもとに立ち返ってきて、神殿を覚えて(神様のご臨在を覚えて)祈るならば、その祈りに神ご自身がすべて応えてくださいという祈りでありました。

 主よ、もしも本心から、心のそこから、この民が心を変えて神様のところに帰ってくるのであれば、どんな手をも用いて主がその一人の人を救い出してくださいということがソロモンの祈りであり、また、聖書に記されている神様の心であることがわかります。

 私は、なんという驚くべきことがこの聖書に記されているんだろうかと最近非常に喜びの中で恐ろしくもなります。

 

 もしも、私が心から神様にすべての罪を告白して、一切隠しだてせずに、主の御前に自分の罪を認めて、その御前で主に祈るならば、その祈りがすべて例外なく聞き届けられるということ。

 これが本当に起こるんだよということが信仰生活であり。この信仰生活をまことに生きているのであれば、主イエスがこの私のところに即座に走り寄ってこられるような、主の接近というものを感じることになるのだろうということがわかってきます。

 

 主イエスの周りには、主イエスを攻撃しようとしてやってくる人が現れます。それは、主イエスが真実に触れるからです。

 神殿はこんな祭司長たちが自分たちの経済的な利権や権威を主張するような場所ではないと。神がおられて、神が働かれる場所であると。はっきりと主イエスはそこに触れられるので、彼らはこのイエスを攻撃せざるを得なくなってしまいます。

 

 イエス様が例え正しい教えを教えていようとももはや彼らにとってはその内容は関係ありません。口を閉じさせるために、問いかけをしていきます。

 我々は神を前にしたときに、本当に自分の心が平らで、偏っておらず、耳が開かれて、やわらかい状態か確認していく必要があります。皆様の心は皆様の自由です。

 自分の思いにおぼれていては、イエス様に対して、自分の先入観でのぞみ、その結果イエス様を排除し、排除するための論理ならば、なんでも使うというような態度になってしまいます。

 

 イエス様の道を準備するために現れたのが、洗礼者ヨハネでした。洗礼者ヨハネは、民衆のかなりの指示を受けていたようです。ユダヤ教を改革するための教えを荒れ野から語っていました。そのことに同意して洗礼を受けて新しい歩みをはじめて行く人たちが起こされていました。その洗礼者ヨハネによって道が整えられて、主イエスは現れなさったのでした。そのことを用いながら、祭司長の問いに対して主イエスは応えられた。本日の個所はそんな記事です。

 イエス様の応答は彼らの口を塞ぎました。主イエスにはそのような知恵が溢れておられたのでした。ご自分が十字架におかかりになれるその時までは、とらえられてしまうということも起こりようがありません。時があり、その時に向かって主イエスは整えて行かれるのです。それまではどんなに時の権力者や有力者がイエス様を陥れようとしても捕まえることはできません。

 

 イエス様のお姿を見ていると、いついかなる場面においても、時の権力者に対しても、主を畏れること以外に、畏れる必要のあるものはないことがわかります。「神の時」以外全く何も恐れる必要はありません。神の時以外の何かを恐れるから道を踏み外すのです。

 

 天の下では、すべてに時機がありすべての出来事に時がある。生まれるに時があり、死ぬに時がある。植えるに時があり、抜くに時がある。殺すに時があり、癒やすに時がある。壊すに時があり、建てるに時がある。泣くに時があり、笑うに時がある。嘆くに時があり、踊るに時がある。石を投げるに時があり、石を集めるに時がある。抱くに時があり、ほどくに時がある。求めるに時があり、失うに時がある。保つに時があり、放つに時がある。裂くに時があり、縫うに時がある。 黙すに時があり、語るに時がある。愛するに時があり、憎むに時がある。戦いの時があり、平和の時がある。

 人が労苦したところで、何の益があろうか。私は、神が人の子らに苦労させるよう与えた務めを見た。神はすべてを時に適って麗しく造り、永遠を人の心に与えた。だが、神の行った業を人は初めから終わりまで見極めることはできない。(コヘレトの言葉3:1~11、旧約1022)

 

 イエス様を陥れて捕まえようとしても、捕まえることはできません。

 しかし、その時がくれば彼らはイエス様を十字架へ向かわせることになります。驚くべき主の業。主が命を生み出すためにご自身の業をなされるのです。その時のために、自分の体を主に向けていくことが大切なのです。

 

 太陽がやってきたら、太陽のほうに身を向けて一心に光をあびなければなりません。背を向けていては滅びしかありません。

 

 イエス様を前にしたら、私たちは常に朝令暮改にならざるを得ません。

 神様を前にすると、これまでの自分の思いが打ち砕かれて全く新しくさせられるからです。

 だから、イエス様がおっしゃられた本日の例えというのは、すごくわかりやすいですよね。息子がいて、兄はお父さんのいうことを聞かないようにふてくされている感じですが、あとで考えなおしてぶどう園へ行って働きました。弟は、聞いているような体は装っているけど、ぶどう園には行かない。

 

 はっとさせられます。

 信仰生活って、毎日実際に取り組み、生活をすべて変えていきますと気づくことですが。

 神様の心の前に、自分の方向をガシガシ、瞬間瞬間変えていくことです。

 命の方向を向いていないのです。イエス様の方向を、それに気づいてしまってドンドン回転していく。回心というのは、別に一時の特別なことじゃなくて、これは毎日のこと。

 毎日、心を回して、180度思いを変えて、朝礼暮改しまくって歩むこと。

 

 神という芯が、軸ができたのです。

 それがイエス様の十字架の御業ですよね。関係が回復したのです。その関係性からすべてを得ることができる。イエス様から必要な祝福もすべて、霊的な糧もすべていただけるようになっているのです。軸がすべて神。主イエス。だから、自分自身はいくらでも回転できる。

 そして、神の力を体験するのです。

 神の祝福のすべてを得るのです。

 何をやっても祝福される。

 

 考え直して信じて、足どりを変えるならば、主が走り寄ってきてくださる。

 

 古代から、永遠にかわらず、主が語り掛け続けてくださっていることです。

 今日、私たちは主の御前に、自分の向きを主に変えて、主が与えようとされている聖書に語られている祝福のすべてを、息子、娘として受け取っていただきたいと思います。

 自分の思いにおぼれていては、力はありません。

 イエス様がおっしゃられているような呪われるべき、イチジクの木になってしまいます。

 

 主が命を与えてくださったって、喜んで咲きほこらないと!

 主の力をたたえないと!花の日なんですから。アーメン。