2022年9月11日 主日礼拝説教 マタイによる福音書24:1~14 「終わりの時」 石井和典牧師

 イエス様はロックだと言う人がいます。

 で、私はロックという言葉の意味が完全にはよくわからないので、大体想像するに、当時の社会で皆が信じているような固定観念をぶち抜いて、真実の、真理の芯の芯をつくようなドキッとする言葉で迫るという、そういう意味でもしあるのならば、イエス様は間違いなくロックなお方であろうと思います。

 

 神殿擁護派、ユダヤ教体制派の人にとっては、絶対に受け入れることができないことをおっしゃいます。

 

 「神殿が崩壊する」と。

 

 この預言的な言葉は、本当に実現しました。

 

 AD70年にユダヤの第二神殿はローマの軍隊によって破壊されてしまいます。

 イエス様がおっしゃられた言葉は歴史的にすでに実現したところがあります。しかし未だというところもあり、これからの終わりの時を指し示す内容ともなります。実現したのは以下の言葉です。

 

 エスは言われた。「このすべての物に見とれているのか。よく言っておく。ここに積み上がった石は、一つ残らず崩れ落ちる。」(マタイによる福音書24:2、新約46)

 

 これは神殿が崩壊するという預言ですが、この預言がまさに実現して、ユダヤの民は離散することになりました。しかし、不思議なことに離散したユダヤの民が帰りはじめるという出来事が1948年の再建国を皮切りにして起こり続けているというのが現代です。

 

 イエス様はこの神殿崩壊の預言をされたあとに、オリーブ山に立たれました。オリーブ山で座って説教をされるということはどういうことを暗示しているのかというと。

 神のご臨在がこの神殿を離れて、行ってしまうのだということを象徴的に指示しているということなのです。

 神が神殿ではなくて、別のところからお語りになられ、神の栄光が別のところからまた昇ってくるのだということを暗示する内容となっています。

 

 確かに、イエス様の福音を聞いてまず悔い改めて、導かれていく教会の時代(私たちが歩ませていただいている時代)というのは、ユダヤの民を一度福音がはなれて、異邦人に与えられたものでもありました。

 しかし、終わりの時に至って、またその栄光はユダヤの民に戻っていくのだということが聖書を読んでいると示されてくる内容でもあります。

 ローマの信徒への手紙にこのような記述があります。

 

 きょうだいたち、あなたがたにこの秘義をぜひ知っておいてほしい。それは、あなたがたが自分を賢い者と思わないためです。すなわち、イスラエルの一部がかたくなになったのは、異邦人の満ちる時が来るまでのことであり、こうして全イスラエルが救われることになるのです。(ローマの信徒への手紙11:25、26、新約285)

 

 全イスラエルが救われる。またその前に「異邦人の満ちる時」が来ると。

 異邦人が満ちた後に、選ばれた民(イスラエル)に主イエスによる救いがいきわたる。

 

 アブラハムに約束された全世界への祝福の源となるということは、もう一度アブラハムの民である、イスラエル民族、ユダヤの民において味われなければならないと見えてきます。

 

 だから、栄光が一度イスラエルの神殿を去られるのだということです。

 しかし、そのような裁きの時にいたってなお、救いの道を主イエスはご準備くださり続けるということが見えてくる内容なのですね。もう、つねに主は変わらずに何とか救われる人が残されていくようにと、その道をつねに造り続けてくださるのだということがわかってきますね。

 約4000年も前に滅ぼされてしまったソドムとゴモラの話が象徴的ですよね。アブラハムは神からの約束の言葉に満たされていたゆえに、ソドムとゴモラのためのとりなしをさえ祈りました。ソドムとゴモラは、滅ぼされてしかるべき場所でありました。なぜなら、そこに入ってくるものたちを性的に犯し、小さな弱いものたちの命を自分の好きなようにあしらっていたからです。そのことに対して神様の怒りがくだされていきます。しかし、アブラハムは神様のご性質が、憐れみであるということをわかっていたので、というか自分に与えられた祝福のあまりの大きさに圧倒されていたので、他者にたいして非常に寛大な目が開かれていたので、ソドムとゴモラをなんとか赦していただかきたいと主に祈りました。その記事は以下です。神様を理解するのに決定的に重要な箇所で、今もこの主の思いが響き続けていると言っていい箇所なので、開いていただきたいと思います。

 もしかすると、あの町の中には正しい人が五十人いるかもしれません。その中に五十人の正しい人がいても、その町を赦さず、本当に滅ぼされるのでしょうか。正しい者を悪い者と共に殺し、正しい者と悪い者が同じような目に遭うなどということは、決してありえません。全地を裁かれる方が公正な裁きを行わないことなど、決してありえません。」主は言われた。「もしソドムの町の中に五十人の正しい者がいるなら、その者のために、その町全体を赦すことにしよう。」(創世記18:24、25、26、旧約22)

 

 どんな時代であれ、どんな社会であれ、救いの道が確実に準備されている。その道に目を開くか開かないかなのです。

 

 さらに、読み進めていくと、主イエスはやがて再び来られるということがわかってきます。

 それはマタイによる福音書24:29~のところに記されています。イエス・キリストが再び来られるという再臨の預言ですね。

 

 終わりの時がすでにやってきていて、異邦人であるイスラエル以外、ユダヤの民以外に、どんどん福音が広められていって、戦勝報告である福音が受け止められるところにおいては、聖霊がやどり、神のご臨在が味わう出来事が起こりに起こって増えて広まっていく。

 しかし、それが今度は異邦人からユダヤの民に帰ってきて、そのあとに終わりの終わりの時がやってくる。そういうおおざっぱな言い方ではありますが、歴史の大局が見えている。

 

 それを理解する民が聖書の民であります。

 

 やがて主イエスがやってこられるので、目を覚まして待っていなさいよ(再臨)という記述が本日の記述のあとのマタイ24:36~となるわけです。

 さらに10人のおとめの話から、主人がいつ帰ってきてもよいように油を準備している必要性がのべられて、ペンテコステを経験した教会は、油は、聖霊の満たしであるということを理解することができるようになっています。聖書の言葉を心に満たし、神の心をうけとって、神のこころに揺らがずにあゆみ、準備をしていなさいよということです。主人は真夜中に帰ってこられるのだから、誰もが眠ってしまっているときに。

 

 だから、私たちは「やがて来られる方を待ち望む」時代を歩んでいると言えます。

 

 このようなアイデンティティが教会であり、信じるものたちの群れということです。

 それはヨハネ黙示録にこのように記されている言葉が聖書全巻を通して、私たち人類の歴史を通して、通底してあらわされるためです。

 今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者である神、主がこう言われる。「私はアルファであり、オメガである。ヨハネの黙示録1:8、新約440)

 

 今おられる方は、かつて語られ、その語られたことが実現しているのが現代でありつつ、未来にむかって未だ実現していないことが残され、その預言の実現を待っているということなのですね。

 私たちのリアリティというのはそのようなリアリティであるということです。

 だから、聖書が預言書であり、この書をめぐって世界が動いているということが今私たちが体験していることであり、その重要性に気づきつつある民が、主によって集められた皆さまだということです。

 

 そして、私たちは本当は、終わりの終わりの時が近いのではないかと気づかなければいけない民であることも、このイエス様のお言葉全体を通して見えてくる内容だと思います。

 「いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が出て来ると、夏の近いことが分かる。それと同じように、これらすべてのことを見たなら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。よく言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、私の言葉は決して滅びない。」(マタイによる福音書24:32~35、新約47)

 

 収穫の時である秋、それが終わりの時のイメージなのです。その寸前の夏。それをいちじくの成長の度合いをみて悟れとおっしゃられています。

 

 そして、本日の個所に記されている内容というのは、ヨハネ黙示録で示されている終わりの終わりの時に何が起こるのかということの要約であります。

 簡単に言えば、最後の時代に、具体的には最後の7年間に起こるであろう出来事が主イエスによって要約された言葉がここに記されているのです。

 ダニエル書の預言、またヨハネの黙示録を総合して考えれば、こまごまとした説明はさけますが、終盤あたりに、大患難時代がやってくるであろうということがわかりますし、そのことをイエス様はおっしゃられているのです。

 

 聖書の言葉って本当に不思議です、今おられ、かつておられ、やがて来られる方。そのお方の言葉。だから、年代を飛び越えるようにして整合性や、不思議な一致や、これは確かに神が預言されていたことだったなということも見えてくるのです。

 

 そこで私たちが気づかなければいけないのは、終わりの時はすぐくるのではなくて、このように主がお話になられた危機が何度も訪れて、その足音が聞こえるようになって、そのうえで、気づく人は気づくことができるような、リフレインというかくりかえしが起こって、その上で理解することができるようになっているということです。

 確かに、そうですね。本日朗読された危機的な状況は歴史の中で何度も繰り返されていますよね。

 秋に向かって今、夏が終わろうとしていますが。その秋が近いのだとなんとなく見えてはいますよね。その時に至る前兆というものが見え始めるというのです。

 

 わたしはメシアだというものが現れる。あぁ、確かにそういうキリスト教に対して異端的な宗教はたびたび現れたなと言えます。戦争の騒ぎを聞きます。飢饉や地震が起こっています。クリスチャンの迫害をも聞きます。憎みあい、偽預言が現れ、人々の愛が冷え込む。こういったことは、幾度となく繰り返し起こり続けているということがわかります。

 しかし、ヨハネ黙示録を研究していると、終わりの終わりの時に至る道のりは、まだ来ていないと言えます。

 なぜなら、イスラエルに神殿が再建されるということが大きなしるしだとヨハネ黙示録から理解できますが、そういうことがまだ起こってはいないように見えるからです。

 

 しかし、イエス様がここでおっしゃられたことがたびたび起こってきているとは言える。ならば、私たちが悟らなければいけないのは、出来事が起こるその日は近いのではないのかという臨場感を持つことが大事といことです。

 

 少なくとも、終わりの終わりの時に近づくその時の流れの中にあるという強烈な自覚が必要です。細かいことはよくわからなくても、目を覚ましつつある民がいるということが重要です。

 

 2016年にイスラエルに旅行をして、この時の衝撃が拭い去れません。ユダヤ教の超正統派の人々は、喪服を着て、神殿が70年に崩されたことを悲しみ、嘆き、嘆きの壁において、神殿が再建されるまで喪服を着て祈り続けるということをしています。彼らの祈りを主はお聞きになる日がくるのではないかと。その姿に恐ろしささえ覚えました。

 と、同時に感動と、臨場感を感じました。いまここで、歴史の中でユダヤ民族を主が導き続けておられるのだなと。

 なぜあえてイスラエルにあれほどのクリスチャンが行くのか、単なる観光旅行だろうとかつては私は思っていました。しかし、何度も行く方々の中には、明確にユダヤ民族に対する敬愛と、神様が終わりの時のその基軸に明確にユダヤ民族を置き続けておられるという強烈な自覚のあるクリスチャンたちが何度もイスラエルを訪れるのだということがよくわかってきたからです。

 

 ユダヤ民族、それから異邦人である我々。もちろん神様のご計画の中では、この両者が重要であって除外されていくわけではないことがわかりますが、とりわけ具体的にイスラエルの民が、帰還することと神殿が再建されるとこ。そのことがおぼろげながら、最後の艱難時代にいたるための鍵であるということがわかってきます。

 

 もしもですよそんなことが起こったら。イスラム教のモスクがあのエルサレムの神殿のあった場所に今あるのですが、その場所が覆されて、ユダヤになどといことが起こったら、大変な世界を巻き込んだ恐ろしい争いが起こってしまうのではないかということは、誰でも予測できることだと思います。

 

 本当にそんなことが、起こるのか。私たちは時代がどうなっていくのか、全くアンコントロールであることを痛いほどに今味わっています。ならば、備えをしなければならないのではないでしょうか。油をともして、心を神様の心で燃やすのです。いつ主人が帰って来られても、よくやった忠実な僕と言っていただけるように。アーメン。