2022年9月18日 主日礼拝説教  マタイによる福音書24:15~28 「苦難の時」石井和典牧師

 イエス様は再び来られます。

 不思議なことに教会は、実際にこられるその日を待ち望む共同体です。

 復活された主が天にあげられ。そこから私たちにご自身の霊(心)を注いでくださいます。それが聖霊です。

 

 だけども、皆さま安心してください。いつ来られるのかはよくわからないけれども、右往左往する必要はありません。その時になれば、「誰の目にも明らかなほどに、メシア(救い主)が来られたんだな」とわかるようになると記されているからです。

 稲妻が東から西へひらめき渡るように、人の子もそのように来るからである。(マタイによる福音書24:27、新約47)

 人の子というのはイエス様のことです。稲妻は誰の目にも明らかにわかります。地域全体が意識せざるを得ません。北陸の雷は、本当に恐ろしい。そんなこと「ここにくれば誰だって」わかります。

 誰にでもわかる稲妻のように主は来られるのです。

 だから、異端がいっぱいあらわれて。こっちが本当のメシアだ、あっちが本当のメシアだとひそひそ声で言っているということは、全く無意味だということでしょう。

 

 安心しますね。そういう人たちが次々と現れては消えていく。それによって社会は惑わされます。

 偽預言者、偽メシアは現れるけれども、恐れるな。

 

 だから、私たちは待ち望むしかありません。再度私たちの前に現れてくださるその時を。「主の霊を受けながら」「主イエスのこころを味わいながら」「主イエスのこころの中で憩いながら、喜びながら」「神の心を満たして」待ち望むことができると教えられています。

 

使徒言行録にこのように記されています。

 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」使徒言行録1:9~11、新約209)

 

 何度も言いますが、現在は「またおいでになることが実現する日を待ち望む日々」です。

 

 聖霊、待ち望むということがキーポイントであり。ここが一般的な組織と我々とが全く違うところでもあります。何を準備してそなえるのかといえば、聖霊を受けることを求めて備えるのです。

 

 待ち望むというのは、つねに「すでにといまだ」の間の状態という不安定な中にあるということです。

 神は約束してくださってはいますが、それがまだ完全には実現していない。「すでにといまだ」。

 そこで見ていないのに信じるということを決断する歩みとなっていくのです。

 

 聖書は実際に実現する様をまだ見ていないことがたくさん書かれています。

 

 エルサレムの神殿の崩壊ということを前提としながらイエス様が言葉を重ねられていきます。これを書いた当時の人たちにはわかっていたかわかっていなかったか。マタイ福音書は成立年代がAD70~100年と言われていますので、AD70年の神殿崩壊のことはすでに見ていたことでありましょう。それが先週ご一緒に読んだ箇所でしたね。

 歴史的に実際にイエス様がおっしゃった出来事は起こったではないかという驚きをもってこの記事を後に書き記したのでしょう。かつて神殿の崩壊を預言してくださっていたじゃないかと。本当にそれが実現してしまった。やはりイエス様がおっしゃったことは必ず実現するのだと。

 

 福音書って本当に不思議です。

 福音はギリシャ語でユーアンゲリオン、これは「戦勝報告」。喜ばしいしらせのこと。だから、単なる過去起こったことの報告に過ぎないととらえる人もいますが、三位一体の主のお姿をみてきた教会にとっては、すべてを見通しておられる主イエス・キリストの預言的な言葉も含まれているのだと読むことができるのです。

 ですから、終わりの時に至って、預言者ダニエルの預言をイエス様が引用されているということ。このことは非常に大きな意味のある内容であるということがわかります。

 預言者ダニエルの語った荒廃をもたらす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たら――読者は悟れ――、(マタイによる福音書24:15、新約46)

 

 このダニエル書の預言は、もとはBC167年から164年に起こったセレウコス朝アンティオコス・エピファネスの時に起こったユダヤ教への大迫害のことをダニエルが神様からいただいて語ったと理解することができます。

 そして、それは確かに歴史上起こりました。

 神殿の中央にはアンティオコス・エピファネスによってゼウス神像がおかれてしまって律法が失われていくという悲劇を経験することになりました。さらに、そのような出来事が恐るべきことにイエス様が十字架にかけられて天にあげられたのち、すなわちAD70年にもローマによって神殿が破壊されるということが起こってしまいました。

 

 ダニエルの預言の言葉、BC167年の出来事、さらには、それに重ねられてAD70年の出来事も描かれているということがわかってくると思います。

 しかし、まだまだ終わりの終わりを迎えているというわけではないので、ここに記されている事柄は、やはり歴史がそうであるように、繰り返されるようにして、再び起こるのではないかということを悟っていく必要があるのがわかります。

 しかも、ここに記されている内容を読んでいくと、終わりの終わりの時には、大変な出来事が起こってしまうのだということがわかります。おおざっぱに言うと。

 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女に災いがある。(マタイによる福音書24:19、新約46)

 

 大混乱が待っている、さらに。

 その時には、世の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。(マタイによる福音書24:21、新約46)

 

 いま、本当に恐ろしい時代に突入しているのを感じますね。

 かつては「ジャパン・アズ・ナンバーワン」というエズラ・ヴォーゲルという社会学者によって書かれた本がある程度妥当すると信じることができるかもしれないという社会でした。日本がナンバーワンだ、アメリカも日本に学べとというような内容です。

 しかし、そんなこという人は誰もいなくなりました。

 私の父は昨年天に召されましたが、まだ、日本が経済大国として強いと信じていた世代だと思います。エコノミックアニマルと世界から言われていて喜んでいた世代でしょう。

 でも、今は、、、日本が完全に叩き売られているというか、爆買いするために外国人が流入してくるという時代です。日本が安いからです。

 国際競争力は地に落ちて、誰もがやばいんじゃないかとどっかで思っている時代です。

 

 まさか、この核軍縮の時代に大規模戦争を行い始める大国があろうことか、と信じたかった心も完全に打ち砕かれました。

 

 終わりの時に起こるであろう。混乱の芽というものは、どこかで感じざるを得ない。

 

 

 こういう空気感というのは、おそらく今も感じていますが。イエス様が昇天されたすぐ後の時代、2000年前も強く感じていたと思います。

 そこから2000年たってしまっているのですが、終わりの終わりの時に直面しているのだという感覚は、実は目を開こうとすれば、いつも持つことができる内容であったのだなと今更ながらに気づかされます。

 

 だから変わらずに準備しておくことが大切です。

 どんな準備をするのかというと、ご主人である主に対する自分たちの態度を整えておくことです。主の心で私の心が満ちているのか。主の霊で私の内側が満ちているのか。私の内側は油で満ちているのか。命が満ちているのか。命が満ちているがゆえに、子供たちをつぎつぎに生み出す、信仰の資産を残しているのかということですね。

 

 今も昔も、これからもずっと変わらず、人間にとって大切なのは精神性ですね。言い換えると霊性ですね。見えないところの内側の問題。心根の問題です。その部分が一体どうであるかです。ご主人の帰りを待っている忠実な僕であるかどうかです。羊か山羊かです。

 

 今、早天礼拝で、アブラハムの僕エリエゼルの話を読んでいます。エリエゼルという人の名前の意味は「神は我が助け」という意味ですが。この僕が僕として信じるということはどういうことなのかをはっきりと指し示してくれています。

 アブラムは言った。「主なる神よ。私に何をくださるというのですか。私には子どもがいませんのに。家の跡継ぎはダマスコのエリエゼルです。」(創世記15:2、旧約18)

 このエリエゼルという人は僕です。この人は驚くほどに忠実な人でした。アブラハムに与えられた神様の約束の言葉を信じたのです。その信じた結果、目の前で月経の終わったサラから子どもが与えられ、驚くべきことにアブラハムが主によって祝福されていく様を見ていたのです。そして、イサクにはまだ結婚相手がいないのに、サラもこの世を去り、時間が過ぎていき、また不穏な空気感がながれはじめていくなかで、彼は信じたのでした。

 一心に主が約束してくださった約束を見、神様が祈りにこたえてくださることを信じ。アブラハムも約束を信じて、そこに天使が働いてエリエゼルを先導してくれるというアブラハムの言葉をまっすぐに信じ抜いたのでした。

 そして、やがて彼の信仰によって結びついたイサクとリベカから、ヤコブ、すなわちイスラエルが生まれることになります。

 

 皆さん、純な心が大切です。

 物事を起こすのは、それを受け継いでいくのは、純な人たちによって。そう主が願われて。主がご自分の業を行ってくださるんですよね。神様は全能のお方なので、決して人間の力など必要ではないんですが。私たちのまっすぐに向かう心に寄り添ってくださって。その人から、不思議なことに神の業がおこなれるようにしてくださるのですね。

 その時に大事なことは、主人のいいつけをそのまま受け止め、その通り信じて、信仰によってみ使いの働きを信じて、前にすでに主の助けがあると信じて出て行くということなんですね。

 

 安心してください。まっすぐイエス様を見ていてください。そうすれば、どのように現状に対処しなければいけないのがわかるようになります。神の導きを見れば、そこにはみ使いがいるというのが聖書の教えなのですから。

 

 山に逃げなさいと本日の個所では言われていますが。確かに、ローマ帝国に滅ぼされる寸前エルサレムが大変な状態になったときには人々は山に逃げました。

 その時に必要なことは、そのときに示されていきます。

 

 しかし!

 

 信頼して、信仰をささげて、目の前にみ使いが現れるのではないかというぐらいに、祈って歩みをつくっていかないと見えませんよ!

 当たり前ですけれどもね。もう、人生を40年も歩ませていただいてきて、痛いほどに味わってきました。私たちは「見たいものしか見ていない」と、私自身もそうですし、新聞メディアも、日本の状態をどのように見ているのかということも、私たちは見たいようにしか見ていませんよ。

 だから、なおのこと、もしも私たちの心が開かれて、信仰に歩みはじめたらどうでしょうか。

 

 み使いが見える。先に主がおられるのが見える。心の目で。

 

 アブラハムの僕のように、ただ祈ればよいのだなとわかるのです。

 

 終わりの時、一杯いろんな人が現れて、みんないろんなことを言います。

 

 その時に、祈ってください。信頼をささげてください。

 よこしまな心がきよめられてまっすぐにされて、主の目的が、主の思いが中心になるように。

 油がともされているように。聖霊が注がれているように。祈ってください。

 大変な時代ですが、一つ一つ、祈りながらご一緒にささえあって、油を満たして、灯を灯して、乗り越えてまいりましょう。主が道を示してくださいます。アーメン。