2023年3月5日主日礼拝説教 使徒言行録2:14~21 「終わりの日の預言」

2023年3月5日主日礼拝説教 使徒言行録2:14~21 「終わりの日の預言」

 

 終わりの時の裁きはすでに十字架から始まっている。

 今は終わりの時です。その一点ではないかもしれないけれども。そのプロセスの只中にあるのだということが、本日の引用箇所からわかってきます。

 

 だから、私たちがおしなべて皆、向き合わなければならないのは。

 「終わりの時ならば、終わりの時らしく、どう備えるのか」ということです。

 

 これは聖書を読んで信じ、受け入れていないと見えて来ない視点かもしれません。

 イエス様のお誕生の時から、終わりの時はすでにはじまっている。そこから私たちは2000年もの月日を見てきてしまっているので、その日がいつなのか考えなくなってしまっているという現状があります。

 しかし、思い起こしてください。聖書にはこのように記されています。

 エスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。私の名を名乗る者が大勢現れ、『私がメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争のことや戦争の噂を聞くだろうが、慌てないように注意しなさい。それは必ず起こるが、まだ世の終わりではない。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。その時、人々は、あなたがたを苦しみに遭わせ、殺すだろう。また、私の名のために、あなたがたはすべての民に憎まれる。その時、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。また、偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイによる福音書24:4~14、新約46)

 このイエス様の言葉というのは、紀元後から、現代に至るまで、決定的に重要な言葉です。

 

 今、現状が終わりの時の様相を呈しているのは、だれもがこの言葉を読んでう感じることができる内容でありましょう。しかし、全世界的なクリスチャンへの迫害という文脈はどうでしょうか。それが極まった状態というものはまだ到来していないように見えます。

 全世界へ福音が届けられていく、隅々にまで。

 こういう視点を持っている人たちが現れているということは確かです。

 そして、そのように世界中に向かう、ジャングルの奥地の未開のそのところまでという技術や能力は私たちにはありますね。

 だけれども、その心が本当に立ち上がってくることが未だ必要です。それは技術が進むことによって喚起されるのか、そうではないのかはよくわかりません。ただ、まだまだですよね。

 だから、終わりの終わりの時の瞬間はまだまだなのかもしれないとも思えてきますが。それは何も見えていないからであって、実はもう次の瞬間一瞬で終わるのかもしれません。

 ドローンに人間が乗れるようになったらすぐなんじゃないかと私は思ってしまっていますが。。。

 

 いずれにせよ、ペトロが引用したヨエルの預言の言葉を読んでいくと、終わりの時には、大変な裁きの出来事として、天変地異が起こるのだと記しています。

 それはこれまでの時代のことをすでに言っていたのだと読むこともできます。

 すなわち北王国がアッシリアによって滅ぼされたBC722年のことを言っているのではないかという説や、BC586年の南ユダにおけるバビロン捕囚のことを言っているのではないかと考える説などあります。

 預言の言葉というのは非常に奥が深い、それは多層的にというか、重層的というか、いろいろな時代のことをも言い当てているとも言えます。それぞれの時代において起こることが織り込まれていて、その出来事を見ながら再び語るということが起こるのです。それが教会のリーダーペトロによって起こされました。

 

 お分かりでしょうか。聖書の言葉というのは、恐ろしく力強いものです。

 それは各時代のことを指し示しているようでいて、今ここで、今この私たちにという文脈も多分に含まれているということなのです。だから、ペトロがヨエル書で語られている言葉は、今この場所で成就したのだと語っていること。それを、いまここで私が、このヨエル書の言葉があなたがたの中で実現していくのだとも語ることもできることばなのだということです。多層的。重層的なのです。

 

 そして、確かに聖霊降臨(ペンテコステ)というのは、各時代ごとに起こる出来事です。その時一時で終わりというものではない。聖霊が注がれて、人々が目を覚まし、神様の心に本気で生き始めるときがくるのです。

 ヨエル書にこのように記されている通りに、今ここで、です。

 『神は言われる。終わりの日に私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し若者は幻を見、老人は夢を見る。使徒言行録2:17、新約211)

 

 ここに記されている「夢と預言」というのは、「啓示のシンボル」です。主は族長時代などには夢によってお語りくださっていました。アブラハムに対する語りやヤコブに対する語りがそうですね。預言者があらわれていくのは、民が堕落し、その堕落した民に対して警告を発するためでありました。そのような警告を与える時代というものが続きますが、啓示が与えられ続けます。

 だから、夢が失われて、信仰が失われていくような時代には預言者が活躍し、信仰が高まり、神を自分で求めていくようになると、夢によって啓示が起こる。それがイエス様のお父様のヨセフや、お母さまのマリアにおいても起こっていましたね。

 そこに信仰があると夢、幻を通して、すなわち本人たちに対して、預言者を通さずに、啓示が起こってくるということなのですね。

 だから、夢と預言は、神からの啓示の象徴なわけです。

 しかし、終わりの時には、そのようなことが一人一人に霊が注がれることによって、すべての人々に啓示が起こっていくということなのです。

 一人一人に示される啓示というのは、聖書の預言の言葉から外れることはありませんし、このヨエル書のように、時代が重ねられるようにして、今ここでかつて語られたことが実現するのだという形をもって、その人に望んでいくということが起こって行く。

 

 息子も娘も、老若男女、心を開いて聖霊を迎え入れるものに対しては、その啓示の出来事が起こっていく、それは「あの聖書の言葉は私に対して言われていることなのだな」という自覚のもと、その御言葉が非常に深く自分自身の出来事として響き始めるということをもって、語りが強化されて、その人の内側で深く神の御業が味われ力となっていくことがわかります。

 御言葉が光を放ち始める、力をはなちはじめる。それはすなわち、その御言葉に生きる人の人生のすべてを変えていく力として到来するということです。

 

 ヨエルの預言の中には、イナゴの大群が押し寄せてくるということが起こるんだと記されています。それがやがて軍馬のようなイメージとなって、軍隊に破壊されてしまうというイメージと重なります。イナゴの大群は、いろんなものが重ね合わされると思います。

 自然災害や、軍事力の衝突、重機や戦車。核兵器も私たちが主からいただいた恵みをすべて食いつくしてしまうという意味においてはイナゴそのものと言えるでしょう。

 そういったものが押し寄せてくるときに。私たちは悟らなければならない。

 

 私たち一人一人の心こそが大事であるということです。

 この心の内側に主の心が注がれること。私たちが主のご意思とご愛を受け止めて、その中に目いっっぱい生きて。その中において目が開かれて、その主に対する目が開かれていることを通して、恵みがこの殺伐とした世界の中に、無尽蔵にながれはじめるのだということ。この聖霊が命の川となって、この地全体を満たしつくすのだというイメージ。

 それを、私のところでがっちりと受け止めなければならない。

 私のところで、この時代の、この文脈で。

 ロケットが打ち上げられて、人々が威嚇しあっているこの中において、イナゴの脅威がちらつかされているこの中において。私たちの内側から、主の霊の注ぎが起こっているのだということを全世界の小さな小さな一人一人に。

  

 「わたしの僕やはしため」と記されている、その小さな一人のところから、主の命が注ぎだされるのだということが起こっているということを証しなければなりません。

 

 上では、天に不思議な業を下では、地にしるしを示す。血と火と立ち上る煙が、それだ。使徒言行録2:19、新約211)

 血と火と立ち込める煙というのは、「戦争」のイメージです。

 そんな恐ろしいことが起こっているときに、一人の人に聖霊が注がれること。このことこそ、主がご計画されている要の要なのです。一人が大事なのです。一人が主の心を理解するというその地平が大事なのです。

 

 私たちの内がわで預言が、夢が、聖書の言葉が力をはなって響き渡っている。私たちの歩みの力となっている。そうなっているのか。それがこの時代において問われること。

 

 

 それは、かつての時代だって、第一次世界大戦(1914年~1918年)においても、第二次世界大戦(1939年~1945年)においても。この時こそ終わりのときだといって同じように語った人がいたでしょう。いまもそうです。その時代時代が重層的に重ねられている。

 しかし、最後の瞬間、リミットのときは、いつか必ず来ます。さらにその時が、近づいている足音が聞こえます。

 そこで私たちが見なければならないこと。

 

 それは永遠に変わらない。イエス・キリストです。

 

 イエス・キリストにこそ、夢、幻、預言、啓示がしめされている。

 このお方を見れば、今日このときに、私たちが何を大事にしなければならないのかわかる。

 このお方を見れば、このお方こそが、私と共におられて、私の一挙手一投足を見ていてくださって、すべての場面を癒しの現場としてくださろうとしているということがわかる。

 このお方だけは、私のために命をささげて守ってくださる。

 このお方の愛だけが、すべてを貫いて、力となっていく。

 このお方の思いがすべての時代を貫く要の要。

 

 このお方が、このお方の姿を心に描くことが許された。

 本当に重要な得るべきものはもうもらっている。

 

 もうもらっている。主のお姿、イエス様のお姿がこころのすべてとなるように。

 目いっぱいにご愛を味わい。

 このお方が私のことを愛して愛してたまらないので、隣人にも同じようにせざるを得ない。いつのまにか同じことをしている。そこまで至るために、味わい、味わいつくすのです。

 

 祈って祈りつくすものは、なにがあっても救われる。

 主の名を呼び求める者は皆、救われる。

 

 祈りの中でこの内側に訪れてくださる聖霊の力に触れましょう。

 誰かを励ましにいきましょう。アーメン。