2022年10月2日 主日礼拝説教 マタイによる福音書24:29~35 「再臨」

 イエス様は再び来られると新約聖書には記されています。

 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。使徒言行録1:9~11、新約209)

 オリーブ山と是非ネットで検索してみてください。マップで見てください。ここはエルサレムに観光に行くとかならず行く場所だと思います。ここに主イエスが再び来られて立たれるのだということがわかります。天に上げられたのと同じようにまたおいでになられると記されているからです。

 しかし、それがいつなのかは誰にもわかりません。隠されています。

 さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:6~8、新約209)

 

 準備をしていなかった民は、悲しむことになります。あぁ、聖書に書かれていたことは本当に、歴史的に起こるのだと思うのだと。だから、準備しておきなさいと主はおっしゃられたのだと今知ることができる皆様は幸いだと思います。

 キリストという花婿が来られるときが、必ずくるのですから。その花嫁として、愛される存在として、キリストの愛を心に宿す存在として召されている皆さま。花嫁である教会は、その日を待ち望みつつ過ごすことがふさわしい在り方です。

 

 いいなずけになっているそのご主人と出会うことができずに長年待ちわびている状態。恋人と遭えなくなって、その出会いを待ちわびている人。

 思って思って思って、待ちわびて待ちわびて、待ちわびて。

 そのお方の情報を何度も見直しては心暖かくなる。

 

 イエス様のお姿を思い起こす時に、一番まとまっていて良い場所というか、わかりやすい場所を皆様に提示しますので、何度も反芻していただければと思います。 

 エスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まり、人々がイエスのところへ、いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺した者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々を癒やされた。こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレムユダヤ、さらにヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに付いて行った。(マタイによる福音書4:23~25、新約6)

 それから、もう一か所。こちらはイエス様のご性質をあらわす言葉として、非常にわかりやすい言葉が記されていますのでこちらの方をぜひとも何度も反芻していただければと思います。

 エスは町や村を残らず回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒やされた。また、群衆が羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイによる福音書9:35~37、新約16)

 羊飼いのいない羊。主人がいるのに、いないとどうにもならないのに、そんなこと百も承知なのに、羊でしかないのに、自分が山羊のように自我をはって強くなろうとして、でもそうなることができずにいる羊。弱り果てて、牧草を食べることができなくなって、命の泉に到達することができなくなって、野獣に食い殺されるしかないどうにもならない状態に自ら至ってしまっている羊。羊のことを憐れに思って走り寄ってくださる。それがイエス様のお姿です。

 

 憐れんでくださると。

 その憐れみはスプランクニゾー(はらわたを痛める)と記されている。一体化してくださって、その痛みをご自分のものとしてくださるというのです。それが、神様であるのです。

 痛みを自分のものとしてくださる。一体化してくれた存在を思い出すと、本当に癒される思いがいたします。

 私は第一に母を思い起こします。父もそうですが。なんで先に母なんでしょう。

 まぁ、それはおそらく私のことを体を張って育ててくれたというか、それが母だって直感的にわかっているからなんですよね。私が吐いたものを詰まらせて死にそうになっていた赤ん坊の時、救ってくれたのも母ですし。盗みをしたのがばれて、その私の首根っこを捕まえて引きづりながらあやまりに行かせたのも母ですし。高校の時に、兄に殴りかかろうとして「殺してやる」って勢いで殴りかかるのを止めたのも母ですし。

 その母が私と痛みを一体化し、自分こととして痛んでくれた、そういう記憶が私を癒すんだと思います。

 

 何度も、何千回も反芻しつつ、キリストが憐れみのお方であり、私が本当に食べるべきものを食べてないと、食べなさいと言ってくださるお方であり、何より、神を失ってしまっている精神状態になっているときに、私のことを憐れんでくださっていることを思います。羊が羊飼いを見失ってしまっているということ、これこそがイエス様にとっては憐れまれるべき状態。かわいそうな状態であるということです。ここらへんの価値観というのは、聖書と向き合わないと得ることができないのではないかと思います。

 

 羊は、羊飼いがいればオールオーケーです。

 別に他に何が必要って、何もないですよ。まぁ、動物ですからね。何にも持っていませんよ。でも、全然大丈夫でしょ。喜んで生きていけますよ。飼い主がいれば。

 

 聖書を読んでいると、結局、「父のもとに帰ってくればオールオーケーなんでしょ」って思っちゃうんですよね。

 何度読み返しても、また信仰生活を重ねても、本当にその通りだという確信が強くなるばかりです。それ以上でも以下でもないんですよ。

 私もいま自分が整えられて成長を与えられて、変化が驚くべきところにたくさん与えられているのを感じますが。それは、「ただ神のもとに私が帰るから与えられるものなだけであって」という感じですよ。だから、本当に「帰ってくればなんでも、どんなものでもいい」のですよ。そもそも、先週秋の特別集会で確認したように、私たちには神の「良い」「トーブ」「感動」「面白い」が詰まっている存在なのですから。

 

 いろいろな歴史的な出来事は起こります。それはイエス様が預言された通り間違いなく起こります。また起こりました。AD70年に、イエス様がおっしゃられた通り(マタイ福音書24:1~2)神殿が破壊されて、大変なことが起こりました。神様からの裁きによってユダヤの民が離散してしまいました。

 これは象徴的に古い契約の終わりと、新しい契約の実現と成就をあらわしています。

 

 殺されてしまったメシア。イエス様が復活し、昇天し、また来られるという出来事を通して、神様の約束の言葉が実現し、神の民が完全にさせられていくということが起こるということです。

 

 大変なことが起こるとき、あたりが真っ暗になります。

 「それらの日に起こる苦難の後、たちまち太陽は暗くなり 月は光を放たず 星は天から落ち天の諸力は揺り動かされる。(マタイによる福音書24:29、新約47)

 この時に大事なことは、私たちが主人のところに帰っているか。飼い主を認めて、羊飼いがおられるので、そのお方に聞くというところに耳を澄まして立っているかということです。

 

 暗くなるということは、灯を灯さないとどうにも生きていけないような状況に追い込まれるという意味でもあります(人間はおそらく皆、「灯を灯さないとダメ」な状態に皆神によって追い込まれます)。また、実際に天変地異が起こっていくということでもあります。その時には、誰の目にもわかるようにキリストが来られて、十字架の業のようなキリストが低くさせられるというか、死ぬということではなくて、高くあげられて栄光の姿をお見せになって現れるようです。そのとき、準備をしてこなかった民は悲しみを覚えるのです。

 

 終わりから考える、死ぬということから考える。ここに人生をどのように歩むのかという明確なヒントが隠されています。本当に重要なことが何なのかが明確になっていきます。

 人間なんて多くのことができませんから、本当に重要な一つ二つのことをして、天に向かうのですから終わりから考えるということが常にふさわしいと私は思っています。

 だから、キリストの再臨から考えるがベストでしょう。最後の審判のときに主イエスの御前に立たされた時に、主にお褒めをいただけるのかどうかを思う。本当に主がお命じくださっているように、灯の油の準備をしてまっていた乙女のように、「油」を準備していたのかどうか(マタイによる福音書25:1~13、新約48)。

 

 光がキリストによって灯されたわけです。主イエスの救いを知って、主イエスがどういうお方かがしめされてそのことに感動して、心が燃えたわけですよね。

 しかし、それが持続されて継続されて、燃やされていくためには油が必要です。油は聖霊です。聖霊を求めるというのは、祈りの中で求めていくのです。使徒言行録2:1にはこのように書かれています。

 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、(使徒言行録2:1、新約210)

 この時民は、皆一つとなって集まっていました。それが習慣となっていました。その時に彼らがしていたことはなんですか。

 祈りです。「祈ることによって一つになっている」。そこに聖霊が降る。油が注がれるのです。

 

 祈りっていうのは神様との対話です。神様との対話は私たちは聖書の御言葉を通してです。だから、常に聖書に親しみ、祈りをつづけるという基本的なことを真摯に行い続けるということが重要であることがわかります。

 当然、教会はこのことを中心的に取り組むべきこととして掲げてきました。

 日本キリスト教団の生活綱要にも掲げられています。家庭礼拝をしなさいと。戦後1954年に制定されました。

 日々聖書に親しみ、常に祈り、敬虔・純潔・節制・勤労の生涯を全うすること。

 

 クリスチャンなら、こんなこと言われなくても、もう心のどこかでわかりきって、受け止めている内容だと思いますよ。しかし、本当に取り組んでいるのでしょうか。

 こういう二枚舌が、すべての場面において問題なのですよ。サタンは巧妙に入ってくる。蛇の性質を私たちに押し付け、私たちが、二枚舌であるように、「嘘も方便」を使うように、「本音と建前が全然違う」ようにそそのかすのです。

 

 しかし、我々はまっすぐに主が心に示してくださることに従ったらよい。

 私はクリスチャンにさせていただいた時から、神学校に行ったときからしめされていました。

 私は神学校の時、学内の礼拝をできるだけなら、休みまくるという愚かな愚かな神学生でした。心の中では、これが私にとって主に対する大きな背きであることに気づいていました。

 だけれども、あえて聞かないように耳に蓋、心に蓋をしました。

 でも、どうすべきなのか私にははっきりとわかっていました。

 

 生活綱領を掲げている教団の信徒はみな気づいているはずです。

 毎日主の道に歩むには私には何が必要なのかと。

 

 主はもう来てしまったのか、と嘆き悲しむのではなくて、主がお越しくださった約束通りに、神の言葉が実現する。と信じる民として、悲しむのではなくて、主の到来を喜べる民とさせていただきましょう。そのための準備の日々をご一緒に歩みましょう。アーメン。