2023年7月23日  主日礼拝説教 使徒言行録8:26~40 「一人を導かれる主」 石井和典

 エチオピアの宦官への伝道の箇所ですが。エチオピアというのは当時の世界観においては「地の果て」を意味します。だから、エチオピアの宦官に対して伝道が進むというのは、地の果てへの伝道が進んだということになります。

 ですから、イエス様が復活され弟子たちに現れて宣言なされた、かつて語られた言葉が実現していっているということが本日の箇所が意味する内容となるのです。イエス様はこうおっしゃっておられました。

 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:8、新約209)

 地の果てという言葉はもちろん、私たち日本にまで引き延ばされる言葉です。無限です。どこまでも、地の果てまで。だから、日本だけじゃないですよ。全世界の隅々までです。

 さらに全世界に福音が伝わって終わりが来ます。

 イエス様がこのようにおっしゃられている箇所があります。

 そして、この御国の福音はすべての民族への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」(マタイによる福音書24:14、新約46)

 この世界は「終わりが来る世界」です。地の果てに福音が伝えられて終わりが来る。というリミットを主イエスは私たちに教えてくださっています。しかし、私たちは自分たちの時間軸で自分の生活を送っていますし、私たち自身の願いがあって、「この世界が永遠に続いたら良いのに」と思っていたりするので、この世界観にはついて行けないかもしれません。

 しかし、心を空っぽにして聖書に聞くと。終わりの時のことはすでに告げられていますし。非常にシンプルに、イエス・キリストの福音(戦勝報告)が世界中の隅々に告げられることによって終わりがくると預言されています。

 

 終わりに向かう出来事として奇跡が次々と起こって行く。

 それが聖書から見えてくる現実の世界です

 

 エチオピアに向かって伝道など進むのかと当時の人々は考えたでしょう。何しろ、ユダヤの民の中でさえ信仰が曖昧になり、なかなか純粋な信仰が伝わっていかないのですから。その結果神から裁きを受けて、国が解体していくということを何度も経験してきたのが、ユダヤの社会でした。

 しかし、イエス様がおっしゃられたことは実現していきます。イエス様は確かに地の果てまでとおっしゃられたので、それが主の御心で、実現します。

 

 その結果、エチオピアの高官が心を聖書に向けるようにすでになっています。

 エチオピアの宦官というのは、「高官」とも言い換えることができます。当時の世界では国の重要な役職に着く人たちは、去勢されて王に仕えるということが行われていました。その去勢された財務長官である、宦官という意味です。

 その人が、イザヤ書をだれに何も言われずに、読んでいた。というより、このひとはエチオピアからはるばるやってきて、エルサレムで礼拝をささげるということを、使徒たちに言われたからやっているということではなくて、自主的にそのような生活を始めていたのです。

 

 そのことを、フィリポは天使によって示されていく。主の天使によって示されるというのは、天使というのは目に見えない霊的な存在ですが。誰になにも言われなくても、フィリポには示されて、どこに伝道にいけば良いのか神の力によって示されたということです。

 

 伝道ってなんなのか見えてきます。前回の箇所でも核にしましたが、まず聖霊が降ってこないといけません。それはイエス様の心であり、イエス様の霊に満たされていくと、神の賜物に満ちてきます。

 満たされた人たちが、神のご存在をつぎつぎに証しをしていく。聖霊の満たされた人たちによって奇跡も起こるということを教会は経験していました。

 それは当然です。神の霊がやどれば、神がそこにおられるのですから、神の業である奇跡が起こります。

 聖書を読んでいるとわかりますが、神は常に奇跡を行ってくださるお方です。聖書の洞察力が深くなると、自分の人生のすべては奇跡であるということもよくわかっては来ますが、それ以上に、主の霊のご臨在があるところ、驚くべき癒しの出来事が起こっていきます。

 存在のすべてが癒され、癒しのできごとがそこらじゅうにあるというのが信仰生活です。それは奇跡です。私自身が癒され変化していくことを経験していく奇跡です。

 

 ディアコノス(執事)のフィリポに示された内容というのも本当に不思議な内容です。エチオピアの宦官が、聖書を読んでいる。しかも、その聖書の内容は、イザヤ書。メシアについて救い主について、イエス様について記されている場所をすでに読んでいる。

 イエス様について知ることができるというこのポイントこそ、恵みの恵みの出来事。これは不思議と天から示されて与えられるべき人に授けられている。

 そこから驚くべき人生の変化が与えられていく。そういうポイントがすでに与えられているということが「イエス様のことについて知ろうとしている人」には起こっている。

 目が開かれると、人生全体が変化してしまう。

 

 使徒パウロさんの生涯を見ると、彼が小さなころから求めてきたすべてのものがイエス様のもとにあるということを彼はその歩みの中で体験するのですが。彼は旧約聖書を読み続けてきたのです、その旧約聖書が証しする真の王、王の王、主の主はイエス様であり、そのお方が私にかかわってくださるということをもって(インマヌエル)、驚くべきほどの圧倒的な光に満たされて彼の人生が変化してしまいます。彼がダマスコに向かってクリスチャンを殺すためにその足を進めているときに、イエス様が現れて「なぜ私を迫害するのか」と問われて。そこで彼は悟ったのです。

 

 このエチオピアの宦官もフィリポと出会って、救い主とは一体誰なのかに気付いてすぐに洗礼を受けます。洗礼を受けるということが決定的に重要です。なぜなら、洗礼によって新しい人生が始められるからです。洗礼式というのは、結婚式とある意味同じです。

 全くこれまでとは違う人生の一歩を踏み出していく儀式だからです。

 

 ですから、いうなれば、古い自分に死んで新しい人生を始めるその時なのですが。フィリポによってエチオピアの宦官はスイッチが入れられて、新しい人生へのスタートラインに立つことになります。

 

 神の業って恐ろしいほどにジャストインタイム。ちょうどそのとき、その時じゃないとダメだっていうとき、イエス様のご存在がしめされて、それによって変化が与えられる。

 

 私にとっては、毎日早天礼拝で、いま使徒言行録が開かれて、また礼拝においても使徒言行録が示されて、毎日私が抱えている課題に対する主からのメッセージをいただけるようになっている。ジャストインタイムで、私に対して主がお語りくださっているのがよくわかります。

 

 恐ろしいですね。神様は、あらゆることを用いられて、状況を用いられてわかるようにしてくださるのです。「この時じゃないと響かないぞ」というタイミングで、イエス様がすぐそばにおられて、かかわってくださって、癒やしてくださる、聖書に記されている通りの救い主であるということが示されていく。

 

 聖霊の御業というのはそのような業であることがわかってきます。

 この時、この場所じゃなきゃ、ちょうどイザヤ書エチオピアの宦官が読んでいるとき。イザヤ書の中でもイエス様のことを指し示す、メシアを指し示す箇所を読んでいるタイミングでということになります。

 彼が朗読していた聖書の箇所はこれです。

「彼は、屠り場に引かれて行く羊のように毛を刈る者の前で黙っている小羊のように口を開かない。卑しめられて、その裁きも行われなかった。誰が、その子孫について語れるだろう。彼の命は地上から取り去られるからだ。」使徒言行録8:32、33、新約224)

 十字架のイエス様のお姿です。この旧約聖書に記されているメシア預言が、イエス・キリストを指し示しているものであり、私はそのイエスと出会い、そのイエスが確かに神の独り子メシアであることを体験しましたとフィリポは証しをしたのです。このイエス様を知り、信じるというポイントから力が、命があふれ出してきます。だから、イエスの名によって洗礼を受けて、新しい人生をはじめなさいとさ最後まで言いたかったに違いない。

 しかし、宦官の方から言葉を紡ぎます。洗礼を受けて、新しい人生をはじめたいと。奇跡に次ぐ奇跡です。

 

 この宦官は高官ですから、「フィリポよ、お前の身分の差をわきまえよ、お前が何者だというのだ、身分の低いお前が私に何を言えるだろうか」などということを言い始めていたら。もしも、そこで主の御業の前に跪くというような意識がなかったら、この二人の間にはなんの関係性も生まれることはなかったのです。

 しかし、彼らは、神の御業の前に自分を捨てて、跪く覚悟ができていました。

 フィリポにしてみれば、驚くべき信じられないほどに大きな恵みが目の前で、奇跡が目の前で起こっているということを目の当たりにすることになったのです。

 異邦人が、異邦人が!イザヤ書を真剣に読んでいる!と。

 そこに主の御業が共に味わう空間ができあがっていたのでした。

 

 昨日もある方と話していて、その方は早天礼拝にこころを寄せてくださっている方なのですが、自分がこれほどに変化するなどとは思わなかったとおっしゃられていました。そういうことは、もう当たり前のように、この御言葉を中心とした交わりの中では起こり続けます。主の御許に膝づこうとしている人たちは、その心を通わせ合って、互いに互いの導き手となって、主の業をお互いに証するのです。

 

 フィリポにはエチオピアの宦官が必要でしたし、エチオピアの宦官にもフィリポが必要でした。この出会いを通して、主がそこにおられる、まさに聖霊の御業が行われて、そこに主の御業の前に驚いて圧倒されるということが起こって行くのです。

 

 イエスにおける福音というのは、聖書においてすでに語られて来た不思議なことが、この私という次元において、私の人生の中で、力をもって実現していくという驚くべき知らせです。だから福音、戦勝報告、エバンゲリオンなのです。私のところで主のご支配が、勝ちが実現するのです。

 そして、私の存在そのものも、この聖書と一体となっていく。だから、聖書に記されている奇跡が私の人生の只中にという実感をいただくことになって、成長し、命が溢れてきて、内側から実りが与えられていくのです。聖霊の実りというのはこのようなものです。

 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22、23、新約343)

 

 私たちの存在そのものが神の業を証し、私たちが聖霊に満たされることによって、命が内側から噴き出してきて、実り(フルーツ)が与えられ、それをこの地域の方々が味わうことができる。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。その言葉を目にしたとき、あ、教会のことですねって皆が言うことができる成長が、神によって備えられている。それを見るのか見ないのか。受け取るのか受け取らないのか。頑なななままで成長しないのか、心を開いて主の業を見るのかです。アーメン。