2023年7月30日 主日礼拝説教 使徒言行録9:1~9 「なぜ私を迫害するのか」 石井和典

 キリストに出会うと自分の世界が破壊され、再生、再創造されます。

 自分が思い込んできた「自分の世界観」は崩壊します。特に自分の正しさを主張する、自分の義の主張の世界は完膚なきまでに破壊されます。

 

 イエス様と出会うということは偉大です。「殺す」人から「命」の人になります。不思議なほどの変化です。多くの人が自分がまさか「殺す」人だとは思っていないでしょう。心の中で人を殺してしまっていたのだとイエス様の言葉を見ていけば気付きます。心の中のことが、イエス様にとっては超リアルな現実そのものの世界だとわかります。

 だから、世界観が全部崩されてしまうのです。

 極端な言い方をします。

 

 自分が心の中で「人を殺してしまっていた人」だと気付いた人こそ、イエス様の御前に新しい歩みが始められることでしょう。

 

 そのためには、イエス様に触れていただいて、光によって照射されないといけません。

 一言で言えば、イエス様にどれだけ大事にされているのかということに気付かされて、それで癒され、私が同じ愛によって人を見ていなかったことに気付くということです。

 この力の中に生き始める人たちが増えたら。社会全体を圧倒的な力で改革していくことになると思います。主が私に接してくださったように人にも接しますということが基本になっていくのであれば、それによって物事が変化するでしょう。

 自分の世界が180度転換されていく世界をみれて、改革を見れるのであれば、自分が圧倒的な成長を遂げる人となるのであれば、多くの人を優しい目で人を見ることができます。

 

 そのためには!!パウロから学ぶことが大事です。

 愚かな愚かなパウロの姿が暴露されていきます。

 一つ一つ暴露されます。それこそ、パウロにとってみれば、この恥ずかしい暴露されていく出来事の一つ一つが癒しの現場でありました。

 

 神は石ころ一つでゴリアテを撃破できると知っていれば、人を脅迫する必要などないことに気付きます。しかし、聖書にはパウロはかつて「脅迫する人」だったのだとはっきりと記されてしまっています。かつてのパウロは神の力というものを知らなかったのです。

 神の力を悟っていない時分のパウロがしていたことはこのように記されています。

 さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺害しようと意気込んで、大祭司のところへ行き、使徒言行録9:1、新約225)

 信仰者と言われる人たちの中に、なんでこんなことをするんだというような行動をとる人が現れますが、それは「成長していないから」だと言うほかない。気付いていないのです。悟っていないのです。だから、悟っていたらできないことができてしまう。脅すなどということは神を知ればできませんが、神の力がわからないとしてしまいます。

 

 神の力を悟っていくパウロにとってはこの記述は、自分自身で許すことができないほどに愚かなことになります。

 でも、彼は恥ずかしい自分の愚かさを暴露する記述が残ることを願いました。だから聖書に残されています。

 というのも、このパウロの病に触れてくださるのが主イエスであられるからです。

 病んだ状態というのは、命を生み出すものではなくて、殺すものとして、力を放射するものではなくて、腐って、よどんでダメになっていく影響力を、汚れを外にぶちまけるものとなっています。しかし、そこから驚くべきキリストの力によって癒されたということこそが証なのです。その証によって隣人がまたよみがえります。

 

 非常にわかりやすい幻というのがあります。それが預言書の中に記されている「神殿の幻」なのですが。エゼキエル書41章1~12節の幻です。旧約聖書を読んだことが無い方もおられると思いますので、預言の型について説明しますが。

 旧約聖書の預言には単純な一つのパターンがあります。

 それは、イスラエル民が神に対して信仰を失ったので、その結果として国が崩壊していったのだという内容です。だから、そこから立ち帰っていきなさい。この問題設定が常にあります。預言書ってみんなそんなパターンだとおおざっぱにとらえていただいて良いとおもいます。聖書って非常に恵み深いですが。見た目に比べて信じられないほどに単純です。

 だから、イスラエルの民は信仰を失い、その結果、神殿を失い破壊させられ、神様がおられるという神の臨在を失って、力を失って死んでいきます。

 神がおられるということを失って崩壊するのです。これはイスラエルという国においては主がわかりやすく示してくださっています。

 でも、すべての人においてもよくよく考えて、受け止めていくと、共通だと思わされます。

 

 神がおられるということを失い、命を失って、力を失って崩壊していく。

 どんどん死に向かって行く。

 

 神がおられるということを失うと、神以外の何か別の支配の中に服するという形でその崩壊がおもてに現わされます。力が失われ、腐ってダメになります。金に頼ったり、軍事力にたよったり、外交力に頼ったり、神以外の何かに頼るという決断をするようになるということで、実質的な崩壊が面に出てきます。

 しかし、主は神殿を回復しくださってかつての栄光を復活させてくださるのだという幻を民に何度もお見せになられます。

 神殿が回復されるということは、神がそこにおられるという、神の臨在が回復されるということを意味します。神がおられることが回復されて、すべてがよみがえっていくということです。

 とりわけ、エゼキエル書に記されている神殿回復の預言は非常に特徴的です。神のご臨在が回復されるとどうなるかというと、「水が神殿から流れ出て」、これは幻なのですが。本来の信仰共同体の在り方が示されている内容です。

 神殿が回復されると、神殿から水が流れ出します。「命が流れ出す」ということの比喩です。

 出所が一つなのに、神殿から遠くなればなるほどに、水かさが増していって、やがて大海を作り出す。その流れのほとりに植えられた木はみな実りを実らせることができると。命って広がり始めるとねずみ講のように倍々、指数関数的に広がっていきます。

 

 イエス様の時代のこと、そこからはじめられる教会の時代。その教会の交わりから与えられる命の水の川。聖霊の満たし、聖霊バプテスマによって人々が復活し、新しい働きを始めるという視座が、エゼキエル書の時代から見えていたのです。

 イエス様の時代の、教会ができていく時代の約593年もの前のエゼキエルの時代から、新しい神殿の回復が見えていました。

 そのポイントは命の水の川。それはすなわち、聖霊の働きです。不思議な神の働きは、イエスの霊のご臨在は、あらゆるものを変化させ、命をお与えになる。教会において、一人一人が神がご臨在される神殿となり、一人一人を通して命があふれだしてくる。それが新約聖書のビジョンです。

 

 サウロが一度光に打たれて、そこから起き上がって、命を伝える伝道者として歩み始めるようなことを起こすのです。しかも、それは連鎖的な広がりを見せる。

 

 迫害者ですよ。殺していた人ですよ。その人が伝道者となって、しかも人々を次々と罪の縄目から解放して、力を与え、同じように世界中に出ていくことができるほどまでに人々を復活させることになります。死んでいた人がよみがえりました。よみがえった人によって命が伝えられていきました。命の水の川の広がりが、パウロからみえはじめようとしていました。

 

 しかし、そのスタートは、非常に恥ずかしい、自分自身の汚れがオープンにさせれてしまうという出来事からでした。これは、イエス様が宣教の一番はじめに宣言されたこととつながります。イエス様が宣教のはじめに宣言されたことってなんですか。それはマタイ福音書4:17に記されています。 

 その時から、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。(マタイによる福音書4:17、新約5)

 それはすなわち悔い改めの出来事からすべてがはじめられるということを意味します。宣教のはじめにおっしゃられたことは、クリスチャンの全生涯に貫いて同じことが起こって行くということを意味します。悔い改めを重ねるところで、そこで天の国がそこにあることを知るということであります。自分自身の罪が暴露されてしまうその中で、自分が思い込んで来た世界が崩壊するそのなかで経験することになるのです。

 それは、破壊と創造。一度自分の世界が壊れる出来事が起こるということでもあります。

 使徒ペトロもそうでした。自分が一番信仰深いということを人に見せつけたかった人だったわけですが、彼が人に見せつけることになるのは、信仰深いではなくて、「裏切りもの」であるということです。自分こそが不信仰の親玉のようなものであることを思い知ってしまう出来事が起こる。

 しかし、それを認めるところから彼の底知れないパワーが生み出されていくのです。

 

 イエス様が宣教のはじめに経験されたことというのも象徴的です。悪魔の誘惑をお受けになられました。どうしてはじめの40日がそういうことになるのだろうと疑問に思っていたところでもありますが。

 私たち人間が真理に至っていく時、いつもそうです。

 いろんな誘惑があって、それにはまってしまってどうにも命を体験できない袋小路で頓挫して、しかし、そこから神の光が差し込まれるということを経験し、回心するのです。

 

 イエス様が荒野で40日誘惑されながら、そこから、神の言葉を宣言していくことと重なります。

 大変な試練の只中で、本当に重要な情報が開示されるということです。

 試練のなかで一番つらい試練ってなにかというと、パウロが経験していたものではないでしょうか。

 自分が正しいことをしているんだと自分に言い聞かせていた。しかし、実は自分こそが悪魔的な働きをしていたということ。神を迫害するものであったことを悟ってしまったことです。

 

 イエス様がそこに現れてくださらないと決して認めることができない内容です。

 その結果として起こることは、心が柔らかくさせられるということです。

 身体的なイメージってとても大事ですね。堅くなって硬直してうっ血して、命が流れなくなって死ぬ。命が通うときって、柔らかくさせられ、血液がしっかりと循環していく。

 恐ろしいほどに大きな試練が襲ってきますが、そこで柔らかくさせられる。

 ストレッチされて、解きほぐされて、痛みが伴うけれども、命が回復されていく。

 

 実はイエス様はすべての人にこのパウロのような回心の瞬間を与えてくださっている。

 それをまことに受け取って、その時が、コンバージョン(転換)の時となるのかいなか。光を認識して、「そこにイエス様が」と信仰によって受け止めて、涙して、自分を改めて、古い自分の世界に決別を告げるか。

 

 現臨するキリストの霊。聖霊に対する視座が回復されていくと、「停滞」はありません。何があっても、常に成長へと向かい、天に向かって一歩一歩歩んで成長がはじまります。キリストのもとで信頼をささげて歩むようになると、翼が与えられたようになります。指数関数的な飛翔のイメージ、飛行機が飛んでいくような感じで、成長します。

 

 しかし、現臨するキリストの霊に対する意識を失うと、停滞がはじまる。停滞しているといつのまにか腐り、命を生み出すのではなくて、周りに腐敗を放つことになる。

 

 出会いによって人は開かれ解放され、新しい世界を切り開く人になり、力にあふれ、その力を手渡すことができるようになる。しかし、自分一人でいると、自分の世界で凝り固まり腐ってしまう。

 この出会いというものを聖書の中に求めると、毎日毎日が新しい出会いで構成されていくのを感じるようになります。「私たちと全然違う思いをもった神」が「キリスト」が私たちに出会って下さることで、光が投じられて、自分の愚かな部分がよくわかるようになります。

 

 ところが、旅の途中、ダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」と語りかける声を聞いた。使徒言行録9:3、4、新約225)

 

 神に敵対する悪の勢力に自分は攻撃をしかけている善人だと思っていた。

 しかし、自分こそが、神の敵であることに気付く。

 キリストの光によってすべてが恐ろしいほどにクリアーに照射されます。

 

 心理学の用語で「認知バイアス」という言葉がありますが。思いの偏りというような意味で。思いこみとか、偏見とかそういった、個人が思い込んでいる内容のことです。多くの人がこのような「認知バイアス」の偏よりの中にあるのに、その偏りに気付かない。

 自分が偏っていると知ることができないと、死ぬまでその偏りに縛られる。

 

 そこに光が与えられるというのが、パウロのダマスコ途上の回心の瞬間です。

 

 自分こそが、いままで絶対に許せなかった神の敵そのもの。それを認めたときに、十字架の赦しに至り、癒しが流れ込んでくるのです。

 

 サウロさんはものが見えなくなってしまいました。神様の奇跡によってそのようにさせられているということもあると思いますが。

 自分が正義の味方であると思っていたのに、サタンの手先であったと気付いたのです。。。

 それを認めてしまったら、もう何も見えませんという状態。

 この何十年の間、私は徹底的に誤っていたのに、自分が正しいと思ってきた。。。

 愕然。呆然自失。

 世界崩壊の瞬間。

 

 しかし、そこで再創造、回復です。

 

 そこまで壊されないと回復されない。

 

 みんなこの世界の人たちは、最高の自己実現、最高の成功をおさめ、人からうらやまれるような生活をしたいと望んで四苦八苦しているようにみえます。しかし、実はそんな中で失敗から失敗、挫折しかないというような人生の中で、もう人生が頓挫しているというような人。その人にこそ、神の力によって回復される道が広げられている。

 神の力、聖霊の満たし。キリストの十字架の血潮による再生。

 

 すべてをなげだし、キリストのもとにきて命の回復。私から復活。人がよみがえるということが起こることを見るのか。別のものを見るのか。

 いま、この聖書と向き合っている皆様は何を選ぶのか。

 

 神の力に信頼するのか。別の何かか。

 主があなたに光をあてて気付かせようとしておられることは何か。

 

 主の神殿とさせられ、あなたが命の源となるのか。

 死に向かう、他の何かの奴隷となり、崩壊するのか。

 命を選んでください。アーメン。