2023年8月6日 主日礼拝説教 使徒言行録9:10~22 「元気を取り戻す」 石井和典

 イエス様との関係の中に、心の底から欲していたものがあります。

 力があります。回復があります。癒しがあります。

 

 サウロさんは、後の使徒パウロさんですが。彼は、自分の人生が根底から破壊される出来事に遭遇しました。それは私こそが、「神を迫害していた」「神を殺していた」「クリスチャンを殺し、キリストを殺していた」「神に攻撃をしかけていた」ものであったということを悟ったのです。

 率先して彼が、悪魔的な行動をとってしまっていました。

 しかし、ダマスコへの道の途上で、キリストご自身がパウロに出会ってくださいました。

 光に打たれました。自分の本当の姿が見えるようになりましたが、肉体の目は見えなくなりました。

 

 自分の本当の姿が見えるようになるということ。すなわち、光に出会うということが決定的に重要なことです。光とはキリスト。イエス様に出会うと自分の姿が見えるようになります。自分の姿が見えていないということは、まだイエス様に、光に出会って本当のものが見えるようになってはいないということです。イエス様に本当の意味で人格的に出会うと、謙遜で、柔和に、力を放射する人になっていきます。そうなっていないということは、まだまだちゃんと出会っていないのだなということです。

 

 光に出会うと徹底的に打ちのめされて、倒れ込んで低く謙遜にさせられ、柔らかくさせられます。

 だからクリスチャンのレベルの高さって実はこの謙遜さであると言えます。

 謙遜でありつつ、真理、真実を追究していく人になるので、力強い。

 だから、私はやっぱりクリスチャンがこの世で最高にパワフルな人になると思います。

 謙遜であれば、主の力がみるみると入り込んでくるわけです。すると、人間が変わったようになります。

 

 光に出会うと、不思議と目が見えない状態にさせられる。というのも、今まで見てきた見方がいかに愚かであったのかということが示されて、目は開いていても見ていなかった自分に気付いてしまうからです。

 

 自分の正義を主張してきたパウロですが、徹底的に人に助けてもらわないとどうにもならない弱さを身におびます。光に打たれて目が見えなくなります。しかし、そこでこそ真の出会いが待っているのです。

 助けてくれる人が現れ、その人を主がご準備くださっているということです。

 決定的に重要な助け主が現れるのです。聖霊は助け主と言われます。人との出会いも超重要ですが。聖霊との出会いはもっと重要です。聖霊は「もう一人の弁護者」とも記されます。イエス様が私たちの第一の弁護者。十字架におかかりになって私たちの身代わりの犠牲をささげられたので、私たちが神の国の喜びを味わうことを許されている。

 もう一人の助け主が、イエス様が天にあげられた後現れる。それが聖霊。もう一人の助け主。

 見えない形で、見える形で、神の助けがすぐ近くにあるということを味わい続けるのがクリスチャンです。

 もしも、具体的に助けてくれる人が現れなくても、といってもパウロの姿を見てみればわかりますが、具体的に現れるのですが。しかし、現れなくても、聖霊なる見えない神のご臨在は確実にある。

 それが、クリスチャンの人生の全体につらぬかれていくということがわかります。イエスさまがこのようにおっしゃられています。

 

 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。ヨハネによる福音書14:15~17、新約193)

 もう一人の弁護者というのは、「アロスパラクレートス」というギリシャ語が使われていますが。このパラクレートスという言葉がポイントで、「慰め主」という言葉にも翻訳できますが、もとの意味は「傍らに呼ばれたもの」という意味です。パラが傍らに、クレートスが呼ばれたものです。

 ですから、あなたに味方し、あなたとともにあり、あなたを神のもとへと結びつける方がつねにいるということです。神様が常にそのような方を呼んでくださる。すぐそこにお立ちくださるお方がおられるということです。

 永遠にそのようにしてくださるというのが、主イエスが信じるものたちに約束してくださっていることです。だから、信仰によってこの御言葉を受け止める人々は、実際に主イエスがすぐそばにおられるということを心の内に見るようになります。

 主が約束してくださっていることを思い起こして、その言葉に生き、実際に自分の人生にそれが実現する様を見るということが私たちがなすべきことです。だから、信仰によって受け止めとて確かに私の人生においてということを経験しなければならないのです。

 これは、イエス様ご自身がおっしゃられているように、知ろうとしないとわからない、見ようとしないと見えないというものです。だから、信じて受け取るしかない。信じているものしか受け取ることはできない。

 信じていない人は「聖霊」と言われて「はい?なんですかそれ?私とは関係ないですね。知りません。」で終わりです。

 

 しかし、選ばれたものたち、信仰によって受け止めたものたちにとって、聖霊は非常に身近であり、まさに「アロスパラクレートス」もう一人の傍らにおられるお方。イエス様がそこにおられる。イエス様の使いがそこにいる。天使が、天使のような人が。

 そういったことがつぎつぎに見えるようになるということです。

 アナニアさんという人が決定的に重要なパウロの友として現れました。それは神様が選び出した主の器でありました。パウロが願った人というわけではありません。まさに、聖霊によって導かれた人。呼ばれた人です。

 パウロに対してネガティブな情報を良く知っていて彼のことをはじめは信じない人でした。

 

 しかし、主との交わりにある人々は、自分に語られる神様からのコマンドメント(命令)を聞くことになります。

 パウロさんに近づきたくないとアナニアが思っていたとしても、神様が使命を与えてくださって、その使命に基づいて動いていくことになる。すると、素晴らしい出会いが待っているのです。

 

 この神様のミッションに従っていくということは、そのミッションにかかわる人々は皆、目からうろこ的な出来事を経験していきます。目からうろこが落ちるということが起こって、ものが見えるようになるということが起こるのですが、「パウロが目からうろこ」の光景をみていたアナニアさんにも同じように目からうろこの出来事が起こったわけです。

 そして、さらに主が私に対してお働きくださるのだという確信の中に入って行くということを共に経験していくのです。

 

 牧師って本当に幸せです。聖書を囲んで語りの場をつくるということを常に許されている。特に私は重要だと思うのは、やはり1対1で語りの場を作るときです。真実を語り合うと、そのことを通して慰められる。はじめはケアする側というかスーパーバイザーというか聞く側としてやっぱり自分が召されているという自覚のもと、ケアしようと思いつつ話を聞き始めるのですが。

 やがて訪れるのが、その方を通して私自身が慰めを受けるということです。確かに神様がお働きくださっているのだということを確認して、私が力をいただくのです。

 それぞれ皆様が真実に主と向き合っていく時に、間違いなく主の御業が起こり、主のご介入が起こり、その様を目の当たりにしている牧師がはげましをうけるということになるのです。

 だから、目からうろこというような出来事というのは、神の御業が起こって行くときに、相互的にというか、ケアするがわとか、ケアされるがわとか見境なく、主が目覚めさせてくださるのです。

 

 それが見えたら、喜びから喜びです。

 聖霊が満たされていくと、人の心の中に平安が与えられてきますし、不思議な喜びが与えられて、あらゆる困難を乗り越えていくことができるようにさせられます。

 だけれどもパウロに与えられていた言葉というのは、「これから聖霊が与えられて楽することができますよ」ということではありません。

 アナニアに対して与えられたパウロの預言はこのようなものでありました。 

 すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らの前に私の名を運ぶために、私が選んだ器である。私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼に知らせよう。」使徒言行録9:15、16 新約226)

 主によって選ばれた器でありますが、その器は苦しまなくてはならい。聖霊をおさめる器。神の霊が宿る宮、神殿そのものになるということですが。

 そのことが意味するのは、聖書の物語を見ればわかることですが、「つぎつぎと試練がやってくるということ」でもあります。

 しかし、その試練の中に味わわれるのは、聖霊の実りです。不思議なのですが、最低最悪のような苦労が目の前に迫ってくる。しかし、そこに力が与えられて、それを乗り越える力が与えられ、乗り越える精神性も与えられる。それが私がたびたび引用する、聖霊の実りです。

 これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。(ガラテヤの信徒への手紙5:22,23、新約343)

 

 パウロの人生は、彼の手紙から見るに、つねにこの賜物が満ちていって、何が起ころうとも彼が信じたとおり、主の助けがあり、主の御業を確認していく日々になっていきました。

 彼は最後斬首されて殺されたと伝えられていますが、その時も一切恐れることもなく、キリストのもとに向かう平安の中でその瞬間を迎えたことだろうと思います。すべて主によって預言されていましたので。彼がいかに苦しまなければならないのかということ。その上で、主の恵みを目いっぱい、信じるものに主が満たしてくださるとを徹底的に受け取って向こう側に行ったのだと思います。

 アナニアが言います。私はパウロ聖霊に満たされるために遣わされたのだと。

 

 聖霊が与えられるという約束はなにもパウロだけに与えられた約束ではありません。

 それはすべての民に対して、信じるものたちに与えられているものです。使徒言行録にまとめられているとおりです。

 神は言われる。終わりの日に私は、すべての肉なる者にわが霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し若者は幻を見、老人は夢を見る。使徒言行録2:17、新約211)

 終わりの時というのは、イエス様からはじめられている救いの時代のこと、教会がこの世界にあるという教会の時代のことです。だから、今です。今ここで聖霊が注がれて、その人たちは心の内側にパウロたちと同じような平安が訪れる。つねに、主がそばにおられて主がご自分の御業を行ってくださるという驚くべき確信と平安と喜びと感謝です。元気をとりもどして、爆発的な力が内側から湧き出してくるという不思議な世界です。

 

 パウロさんは、自分自身が悪魔のようであったという悲しみと同時に、自分こそ聖霊が注がれるのだという驚くべき事実に触れて、食事をして元気を取り戻します。

 

 まことに聖書の言葉に実存的に出会うと、不思議な落ち着きと、我に帰るという、驚くべき静謐な空間へと導かれます。「我に帰る」と言ったらよいでしょうか。そこから、驚くべき力が湧き出してきます。それは使徒言行録の初めにしるされている主イエスの言葉の実現です。

 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。 (使徒言行録1:8、新約209)

 この力という言葉はデュナミスという言葉。ダイナマイトの語源。だから、これは爆発的な力。爆発力です。ますます力を得て、膨れ上がっていく力です。圧が高まって、そとにはじけだしていく力です。しかも、それは時間も空間も超えていく恐ろしいほどの力。

 

 何しろ2000年後の私を巻き込む力。私は毎日早天礼拝で使徒言行録を読んでいますが、毎日この使徒パウロに恋焦がれるような思いが、あこがれが内側に湧き上がってくるのを感じます。まさに私の父、兄として、心から慕い、愛していきたい。そう思う。このパウロがたどった道を私も行きたい。見るべきものをしっかり見るという歩み、これまで目くらましをうけてしまっていた、目にうろこがめりこんでいるような。目に丸太があるような、はりがあるような。見なきゃいけないものが全然見えていないような歩み。

 しかしそこから救い出されて、キリストによって光が照射されて見るべきものが見えるようになる歩み。

 主の御業が見え、主の後に従ってついていく。主がそばにおられ、主がパラクレートス、慰め主であり、弁護者であり、常に味方してくださるお方。

 目に見えない主が、つぎつぎと仲間を送ってくださる。助け人を送ってくださる。

 

 私たちが心をささげて、信頼をささげて主の栄光をたたえながらついていくときに、必ず何があっても守り抜いてくださるその主のお姿を拝見し、自分もすでに主の御業の中に入れられているということを確認する日々となります。パウロのように。アーメン。