2023年4月30日 主日礼拝説教   使徒言行録5:1~11 「聖さを保つために」 石井和典

 本日の説教のタイトルは「聖さを保つために」です。

 

 聖いっていう言葉は非常に難しい言葉だと思います。

 最初教会に来て、一体なんのことを言っているのか意味がわからなかったのを覚えています。

 「ざっくりとなんとなく」はわかるんです。神々しいこととか、「聖く正しく美しく」っていう感じで。。。

 しかし、正確な捉えどころがないように思っていました。

 

 そこで、最近になってやっとわかるようになったのが、聖いという意味は原典にかえって調べた方がよいということでした。旧約聖書の原典はかなりの部分ヘブライ語で書かれていますが、ヘブライ語の聖いという言葉はカードーシュで、これは区別するとか区分するとかいう意味もあります。それは神によって選び別たれた、区別されたという意味です。

 だから、主がそこにおられて主が良いとおっしゃってくださる、主という主体があって主が「こうだ」っておっしゃってくださる。それで「聖い」ということが決まるという意味なんですね。

 だから、主がおられないとどうにも聖いのか聖くないのか判断はないということです。

 だから、インマヌエルなる主イエス・キリスト。いつもともにおられるキリストがどうしても必要なのです。

 イエス様に聞かないと、我々は何が聖いのか聖くないのかも判断できないといことなのです。いや、できたと思っても、その判断自体が誤ったものとなる。

 人類はじめの歴史の中でも、アダムとエバの次の世代のカインとアベルは、特にカインは自分の正しさと怒りとをアベルにぶつけてアベルを殺してしまいました。

 戦いから戦い、戦争から戦争を生み出すことになる。

 

 主の視点がなければダメだということです。

 

 教会は聖なる公同の教会です。

 

 だから、教会というのは、我々の目で見て良いとか悪いとか判断したり考えたりする共同体ではなくて、主がどのように見てくださるのかということを意識できる共同体ということになります。

 ここが世の組織とは全く違うところです。その正しい正しくないが聞こえてくるのは聖書を通して、聖書によってアクティブにされたマインドを通して祈られる祈りを通して響いてくるということです。

 

 だから、教会は聖書の価値観を大事にします。

 具体的に言えば、「見えないところを大事」にします。

 一番見えないところってどこですか。

 人間の心根です。

 

 この部分はずっと隠しておくことができます。

 だから、多くの場合世では、心根のところはあまり問われないです。

 というのもそこは誰にも見えないからですね。誰も問題にできません。

 

 しかし、教会は聖なる共同体ですから。主が見て良いのか、悪いのかです中心は。

 また主がどのように見ておられるのかを常に考えます。

 それが教会なので、そうでなかったから実質的に教会ではありません。

 

 目に見えてない心根の部分を自分で問いかける場でもあります。

 だから、黙想や祈りが究極的に重要であり、これこそが私たちクリスチャンの活動の初めであり終わりであるものです。

 これがなかったら何もはじまりません。主の御前に立つということを失ったらクリスチャンじゃありません。

 

 私は本当に最高の共同体のために召されたと、最近つくづくと思い毎日感動しているものです。

 聖書をちゃんと読めば、「このために生きてきた」と本気で思います。

 

 見えないものに本気でこだわっていいのですから。主イエスがおっしゃられているように。

 見えないものを見る者たちはどうなるのかというと、山上の垂訓で主イエスが最初におっしゃられたようになります。

 

  心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。(マタイによる福音書5:3、新約3)

 「心の貧しい」というのは原文では「霊の貧しい」と書かれています。

 自分自身の神の御前における貧しさを徹底的に自覚し、すべてを主に委ねて、自分の弱さを主の御前にさらけ出し、涙をもって悔い改めてかえっていくものということです。

 主イエスはそのような人々に対する祝福を八回も重ねられて約束してくださいました。主イエスの8回の約束ですから、絶対の中の絶対と言える。だから、クリスチャンってこのように「霊の貧しい」ということを自覚する人たち。それはあるところ弱さが強調された状態。自分の強さを誇りおれがおれががもう言えなくなってしまった人たち。羊。しかし、最強、ということですね。

 俺が俺がってやっている連中は、、、超弱いってこうことを悟っている人たちですね

 幸いであるという翻訳に新共同訳も聖書共同訳もなっていましたが、私は「祝福されている」という翻訳にしたほうがベターだったんじゃないかっていつも思っています。というのも、この祝福という言葉は、聖書全巻をつないでいく要の言葉でもあるからです。主の約束の言葉、アブラハムの祝福(創世記12章)ともつながるし、モーセにおいて約束された祝福の言葉(申命記28章)ともつながるし、全体的につながっていく言葉です。

 

 だから、その祝福の言葉を弟子たちに対して、徹底的に宣言されたということがいかに重大なことであるのかということを何度も受け止めなおさなければならない。そこにいた弟子たちは別に超人的な信仰者というわけではなかった。裏切る弟子であったし、自分が語る言葉を自分で守ることもできないものたちでありました。命をかけて主イエスについていくといいながらそれを自分で破ってしまうものです。

 しかし、彼らは群衆ではなく、弟子でありました。ここが非常に重要です。山上の垂訓でイエス様の近くに近寄って行ったのは「弟子」であり、「群衆」じゃない、その弟子に対して、主は祝福を確約されたということなのです。

 

 私が弟子であるのか、弟子でないのか。それは皆様ご自身が自分でお分かりになります。弟子というのは、師匠の言葉すべてを守ろうとします。守ることは最初できませんし、意味もわかっていなかったり、その言葉の機微についての理解力に架けていて、その深みを極めることはできません。

 しかし、後になっていろいろ気づくわけです。

 イエス様も弟子たちも「後になって気づく」って言われましたよね。最後の晩餐の御言葉の中にも、あそこにも「後になって気づく」って記されていましたよ。

 エスは答えて、「私のしていることは、今あなたには分からないが、後で、分かるようになる」と言われた。ヨハネによる福音書13:7、新約190)

 イエス様のおっしゃられる通り、弟子たちには、聖書の御言葉が後になって、何年も経って、聖霊がくだされてやっとわかるという瞬間がやってくるのです。

 しかし、そうでなかったら、理解のポイントを逃していくことになります。

 聖書の言葉の爆発力というのは半端じゃありません。

 すさまじい勢いで人を変えます。

 しかし、その力に預かっていないと何十年も眠ったままです。

 ポテンシャルがあるのに、放置されて、ずっと眠った燃料って感じになりますね。化石化してしまうようなこともあったり、そのまま死んでしまう人も一杯います。

 

 しかし、弟子たちは違うのです。「後で気づく」人たちです。だから、聖書に残したのです命をかけて。そこから、驚くべき力を発揮できるようになります。

 

 信頼によって生きる、見えない主のお守りを知って信じて、見て、それを見ようとして歩むとなると、すごいことにその人は、次から次へと、実際に主がお守りくださる事実を発見します。主が守ってくださっている事実を見えるようになると、さらに信仰が深められ、祝福が倍加してくということを経験なさいます。

 だから、信仰って「実際に翼が与えられること」なんだと私は最近やっと気づきました。

 

 使徒たちの姿を見ていると、「翼」が見えます。

 彼らは飛んでます。飛翔しています。

 というか、私たちの心にズバッと言葉をくれますよね。彼らが自由に神の前にあることを喜び楽しみ、彼らの言葉が2000年後の私たちをも動かしています。

 広がりと、命と、慰めと力。

 私の内側に爆発的な力を呼び覚まします。

 

 彼らは真実に見えない主を見ていましたし、自らの霊的な渇き、霊の貧しきもの、ルターは山上の垂訓のあの心貧しきものという言葉を「霊の乞食」と記しましたが。

 そのとおり、主の御前にひたすらに、乞食のように主の恵みにしがみついているものを主が徹底的に祝福で満たしつくしてくださるのです。

 それが八福の福音。迫害のさなか、首を切られてしまうその瞬間。その瞬間をも、その使徒たちの表情をも私たちに想像させ、しかし、そこに神の国があることを証し続けるのです。パウロは斬首されました。しかし、私にはその瞬間が不思議と見えます。いや、見たことないんですよ。でも、主の霊の力によって彼の主に対する信仰の最後を見ることができます。

 霊の乞食の幸いを。主が必ずお守りくださる!

 最後の晩餐で使徒の足を洗ってくださったのと同じように、すぐそばで、その痛みにふれて、ご一緒してくださる。

 

 ごまかしていること、見えないところで思っていること、自尊心をたかめるために他者を犠牲にとか。自分を防衛するためにやっていること、そのために信仰などどこふくかぜでどっかに吹っ飛んでいるということ。

 そういったことはぜーんぶ。すべてのすべて見えているのです。主はもちろん見えていますが、見えないものを見ようとする人には、見えてますよ。

 

 主なる神は、その上で主は応えてくださり、報いてくださるお方なのです。だからなおさら。私たちのふさわしい自覚は「乞食」であろうと思います。

 

 もう、主の御前における霊的な状態はぼろぼろですよ。不純すぎるほどに不純。本日出てきたアナニアとサフィラ的なところで止まっていたら良いですが。

 もっと不純じゃないですか。

 主の御心を探っているという体をとりながら、実は自分を守るため。

 アナニアとサフィラは献金を、これが土地を売って得たすべての金ですって持ってきて、一部分は自分のためにとっておいて、でもこれは全財産、全身全力の献金、献身ですって偽って、自分の信仰深さを示そうとした。しかし、そんなの全部主には見えています。その通り報いてくださるのです。

 

 主が示してくださることには、猶予期間が常にあります。きずかせてその後、ある一定期間待っておられて、そこから裁きがくだるというようなことが起こります。

 だから、示されている内に、いままだ何も裁きを受け取っていないその内に。立ち帰るのが最善の道です。私も今日この箇所を読んでいて。

 もう一回ゼロから信仰生活やりなおさなきゃなと思わされました。不純な動機でいろいろやってきしたし。それをごまかして、人のせいにしたり、うやむやにしたり。見えない主をおそれていると言いながら、本当は少しも恐れてはいない自分がどこかにいる。

 

 霊の乞食、霊の乞食、霊の乞食と言いながら。この説教って大阪の岸和田教会に赴任していたときも言っていたのを記憶しています「霊の乞食」って。ルターだって。

 でも、本当に霊の乞食の実態を形作ったのか。

 

 今、そのような自分が霊の乞食になりきれていない姿を、毎日毎日示されている。そういう歩みを主がくださったのを感謝しています。

 何しろ、毎日早天礼拝で牧師室を出るたびに、自分の全能の神への信頼の不徹底さを毎日確認している日々です。

 

 信頼、信仰が「翼」だと言いながらですね。

 本当にその「翼」が「翼」じゃなくて、「金」が翼だと思っている。。。

 

 恐ろしいですねこの不信仰。

 聖書を捨てているようなものです。

 

 アナニアとサフィラどころじゃない。

 

 聖書の言葉がちゃんと力をもって自分の人生の中で流通して命が通っているような状態。

 主を畏れ敬い、信頼の翼によって歩みを始める状態。

 見えない神を見ている、その地点。

 霊の乞食として主の御前に倒れ伏している状態。

 そこからスタートさせていただきたい。

 

 死をまとうものではなく、命によって立ち上がるものとさせていただきたい。

 信仰の翼をいただきたい。

 

 主は間違いなく皆様のすぐ近くにおられるのですから。

 信仰によって見えない主を見て、新しいスタートを切ってください。

 赦しが満ちていますので、安心して主のもとに帰ってください。アーメン。