2023年4月2日 主日礼拝「癒しがなぜ起こるのか」石井和典牧師 使徒言行録3章11~26節

 癒しは起こります。主イエスの御名の力によって。

 癒されているかどうかわからないとおっしゃられる方もいらっしゃると思います。

 

 しかし、この礼拝に主イエスの御名の力によって集められている皆様は、癒しのプロセスの只中にあると言えます。奇跡が起こって病気が治るということも起こりますが、それだけが癒しではありません。日々の歩みの中で、心が変えられ、心の方向性を転換して神に立ち帰るということこそが奇跡であり、癒しです。

 私は身体が全体的にリフォーメーションされるということは起こってはいませんが、私の人生そのものが私の見る見方が変化しているので、リフォーメーションされていると言える状態になっています。その意味で奇跡的な癒しが起こっています。

 

 私たちが神の子どもとしてただひたすらに父を求めて帰るということのために癒しがある。

 父を求めて立ち帰って、心を変えて主に信頼をささげはじめると、物事が起こりはじめます。なにしろ自分を通して主の業が起こり始めるのですから。ペトロが経験したように。

 

 イエスの御名の力が現れます。信頼、信仰が引き金になります。次々と出来事が起こります。

 

 今までは光があったにもかかわらず見えなかったのです。主がそこにおられるにもかかわらず、目の前の生活に忙殺され、光があるのに光を無視し歩んできたのです。それをただ、目を開いて見ればよいということなのです。しかし、それが難しい。そんなに簡単に立ち帰ることはできません。

 

 しかし、信じている人たちによって風穴があけられる。

 

 それが使徒ペトロとヨハネでありました。

 

 皆さまお一人お一人にすでに光が当てられています。しかし、それを見出すことが自分ではなかなかできない。それは神との関係が崩れてしまって疎遠になってしまっているので、あたりがつかないというか、信仰の洞察力が死んでいる状態にあるので気づけないです。

 

 肉体は生きていても、霊が死んでいる。

 

 しかし、光は注がれ続けている。だから、その光に対して目を開き応答すれば良いのです。

 応答です、応答。

 

 その光に気づかせる存在がペトロとヨハネです。

 ペトロとヨハネにはその光が見えました。気づいている人たちによって人々が気づくのです。

 40年間も人生が閉ざされてしまったような状態にあった人を立ち上がらせました。癒しが起こりました。

 それはイエスの御名の力によります。その力が発揮されるためには、彼らがこの40年間歩くことができなかった人の中に光を見なければなりませんでした。

 

 神の業というのは、このように「信じるものたちの信頼が引き金となって」起こされていくものです。神様は私たちをパートナーとして扱って大変重要視してくださっているので、私たちをあえて使われ、さらに信頼が深まるようにしてくださっています。

 

 だから、ものごとは私たちの信頼の度合いに応じて起きるようになっている。

 主が常にご準備くださっていて、ものごとは起こるべくして起こっています。成長に必要な過程が準備されています。

 信頼の度合いに応じて与えるようにしていかないと、それが逆にあだとなってその力を自分に帰するというようなことにつながってしまうからです。豚に真珠にならないように。私たちの心がまず耕されるということが起こります。

 

 我々に対する成長と教育の視点というものを発見すると、人生のかなりの部分が氷解して意味がわかるようになっていきます。神様ご自身ではないので、すべてがわかるということはありませんが、しかし、主の教育的視座を見つけると、そこら中に慰めが満ちていることを発見できます。

 私はクリスチャンにさせていただいてからの20年、どちらかというと足踏みしてしまっていたというような感覚なのですが、しかし、それも成長のプロセスです。無駄は一切ない。

 

 その成長に応じて、成長に必要な恵みと教育資材で満たしてくださるということもわかってきます。だから、私たちはないものねだりをして、自分以上の何かになるためにあくせくするということに溺れる必要はないのです。

 

 いま与えられている恵みにしたがってはかり与えられるので、安心して主の語りかけを今ここから受け取ったらよいのです。

 

 ペトロとヨハネたちを通してこのような驚くべき奇跡が行われるということは、彼らがこの出来事を通してさらに前進することができたからです。

 だから、人間の目にはあまりにも大きな奇跡でありますが、その奇跡が彼らに起こった。

 彼らが、それを主に栄光を帰すことができる信仰の力量が養われていたからこんな大きなことが与えられたのです。

 本日の彼らの言葉を見てみてもわかりますが、「すべての栄光を主に帰する」という地点に立って奇跡が次々と起こるのです。

 

 もしも彼らがこの出来事によって奇跡が自分たちの信心から出ているかのような態度をとってしまう状態であれば、彼ら自身が言っているように。民はこの人たちの信心、信仰によってなんとかなったと言っているわけですよね。そんな心では、このような奇跡は起こらなかったであろうと予測できます。もしもそうだったら彼らにとってはその出来事が信仰において害になってしまうからです。

 

 それから、ペトロが語っている内容について先日見た2章と今日見ている3章で比較して見ていただきたいのですが。

 その話の筋は同じです。

 ユダヤの民、あなたこそがキリストを十字架に架けてしまったのだ。「悔い改めて、立ち帰りなさい」と言うこと。

 先週も悔い改めを強調させていただきました。マルティン・ルターの言葉を決して忘れないでほしいと。

 「われわれの主であり、師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われたとき、主は信じる者の全生涯が悔い改めの生涯であることを望みたもうたのである。」

 500年前のルターも2000年前のペトロとヨハネも同じことを言っているにすぎませんよね。基本だけです。ペトロとヨハネも場面は変われどもいつも同じことを言っている。だから、私たち現代のクリスチャンも何かを生み出すために自分で新しいことを考え出す必要なんか少しもない。もう必要なもののすべては皆様に与えられています。このペトロの説教をちゃんと聞いて受け取ったら良いのです。

 

 目に見えるものって、闇のように見えます。足が不自由である人の人生というのは2000年前の世界においては、社会的に差別されてしまう状態にありましたから、闇のようにうつっていたに違いありません。

 しかし、その闇から光が輝きだしてくるのです。闇から光へです。光から闇というよりも、神が闇のような現実に対して光を常にもたらしてくださる。その視点にいたるためには、目に見えるものに縛られない信仰が必要です。ヘブライ人への手紙の中にこのように記されています。

 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。ヘブライ人への手紙11:1、新約405)

 

 目に見えないことは、神がすでに約束してくださっていることです。それは良くアブラハム契約と言われます。

 簡単に言えば、「アブラハムの末裔が神の民となり、その神の民が全人類を祝福するようになる」ということです。

 それはダビデ契約を通してダビデの末裔から生まれるメシア、イエス・キリストによって実現していきます。

 

 ですから、平たく言えば、神の約束の言葉がことごとくイエス様において実現していくということ。そのことは私たち人間の目には見えないようになっていますが、見ようとして、信じて、見えないことが実現していく様を目の当たりにすると見えてくる。私たちに与えられているものが見えてくる。教会の恵みと祝福が見えてくる。それが信仰の民であるということです。

 だから、聖書の中では特に新約聖書においては強烈に意識されていきますが、肉と霊との対立とが起こると言われるわけです。それは肉眼の私たちの目に見える内容は、また私たちの小さな脳みそからでてくる洞察力をもってしては、神の約束がまるで無いかのような現実が迫ってくるからです。本当にメシアを通して、教会を通して、祝福が全世界に広がるのかと言いたくなる現実かもしれない。

 

 そこで、他のものに頼るのか、それとも主の約束の言葉への信頼に生きて、主が私たちを通して力を発揮してくださると信じるのか否か。

 

 すでに聖書を通して約束されていることは、何一つ反故になることはない。確実に実現していく。それをこのメシア・キリストの十字架と復活の出来事を通してさらに深く体験できるのだと、ペトロは宣言しているわけです。

 

 聖霊降臨というのはこうです。「すでに聖書を通して約束されていることがある!」、それが再び現代の文脈で理解され、まさに、この私のところで出来事が起こりつつあるのだということを私のこととして受け止める民が起きてくるということです。

 

 ヘブライ語で祝福はベラカーという言葉ですが。これは「ひざまずく、祝福する、賛美する、敬意を表する」というような意味があります。この言葉は神様から人間に、人間が神様につかう言葉です。

 ダビデなどは、詩編の中で「主をベラカー(祝福)する」という表現を良くつかいます。これは「主を讃美します」と変換されます。互いに祝福しあい、仕えあっている姿というのがこの祝福のイメージです。

 

 私たちはイエス様のお姿をみさせていただくとこのことをさらに深く理解できるのです。いま復活祭に向かって歩んでいますが、その前に洗足木曜日を経ますよね。私はもう、この日こそこの日こそ私たちのアイデンティティそのものであると思っています。教会歴すべてがアイデンティティですけれども、もちろん。

 しかし、明確に主が私の足を洗って仕えてくださること。わたしに奴隷の姿をとって仕えてくださること、その姿を見るがゆえに、私自身が僕となるということを、主の御許に、涙しながらひざまづいて低く低くなるということ。

 「あなたのために奴隷にさえなる」とお互いに言える。

 するとさらに、わたしよりももっともっと低く仕えてくださっていることを発見する。洗足の木曜日の主のお姿が私の人生のそこかしこに満ちているということ。

 主が私たちに仕えて仕えつくしてくださっていることを発見するわけです。

 これが祝福。

 もちろん、何か物質的な祝福として臨むことも多々あり。なんでも起こる。そういったものでもあります。

 しかし、その核は、主の御手が私に圧倒的に注がれているということに気づいた民が、そのまま隣人に同じように祝福を伝播させるということです。どれだけ自分が祝福されているかを痛いほどに受け取っているがゆえに、そのとおり隣人に同じようつかえること。

 主の炎が我がうちにあり、私がキリストのように低く、仕えるがゆえに、その炎が伝播してしまう。

 

 受けて受けて受けてという、主に祝福されて祝福されて祝福されて、という感覚が基礎にないといけません。

 

 ペトロは本日の説教の箇所で最後に民をアブラハムの祝福に預からせるため、そして「悪から離れさせるため」にこのようなキリストの十字架から復活の出来事があったとユダヤの民に宣言します。

 

 悪から離れるためには、アブラハムの祝福、祝福されているということはどういうことなのかという意識が必要です。私においてその祝福が実現しているという強い確信、それゆえに、この私が受けているものが人々に伝播していくのだというビジョンです。

 

 でないと、人は人に対して悪を行いますね。

 

 自分が神にでもなったかのようにすぐ人の上に立って人を支配しようとする。しかし、私たちの実態は「イスラエル」です。主がおさめるのです。

 

 主が主(あるじ)なのです。そのためには、主自身が、どれだけ深く奴隷のように私に仕えてくださったのか。その姿を追いかけている民でないといけません。

 この民はどんな時代でも、どう世界が変化しようが、その内に幸いを得ている民です。

 皆様を祝福いたします。アーメン。