2023年9月10日 主日礼拝説教  使徒言行録10:17~33 「ローマの兵隊に信仰が」 石井和典

 出会いというのは、本当に不思議です。神が与えてくださる特別な出会いというものがあります。ローマの百人隊長と、ユダヤ人ペトロとの出会いは特別なものです。

 祈りの中で見た幻によってお互いにつながっていくのです。

 祈りってすごいものです。

 神に向かい合うということの喜びというのは、計り知れません。

 何が起こるかわかりません。

 未知数の奇跡が、しかも神がその善意によって、神様のご愛にもとづいた奇跡を経験することができます。そこで出会った出会いというのは、人生全体を導いていく出会いとなります。

 

 ローマの百人隊長の謙遜さに出会えたペトロって幸せだと思います。

 そのギャップに感動したと思います。当時の世界ではローマというのは、絶対権力者です。彼らが生殺与奪の権を持っていた。その権威を帯びた人です。

 その人が属国ユダヤの漁師であるペトロに跪くなどありえないことです。

 しかし、ここにこそパワーがあることがわかります。この出会いには力がある。

 ここから、全世界に福音の力が花咲いていきます。

 

 ペトロも実はガリラヤに行くと、その地域の有力者だったんだということがわかります。だから、彼はイエス様の十字架の出来事の後敗北感にさいなまされながらも故郷に帰ろうと思ったのです。彼の実家は立派な実家だったからです。非常に大きなユダヤ教シナゴーグ(会堂)のすぐ横にペトロの親族の家があります。ガリラヤ湖の漁師であったわけですが、漁師といってもその地域の豪族的な力をもった末裔であるペトロだったのです。

 しかし、彼も、土地を離れて、エルサレムに来てしまえば、またヤッファ、そしてローマの本拠地になっていたカエサリアに行ったら、ペトロっていったい誰という感じだった。そのペトロって一体誰っていう世界で、ローマの強大な権力を担った百人隊長が、「ペトロに跪く」のです。しかも、そのペトロは偉そうにするんじゃなくて、「いや、いや、いや、やめてください。私に力があるのではありません」と言う。

 遠くからペトロのことを認めて、その前にひれ伏す百人隊長に。

 お互いが謙遜の限りを注ぎつくしていく関係。

 主の御業の御前に屈服して。。。驚いて、喜んで。。。幸いがここにあります。

 

 祈りの中で出会う出会い。この出会いを経験できる。

 それが私たちキリスト者の歩みです。祈っていなければ全然わからないけれども、祈っているとこれが神様が与えてくださった出会いであると確信できる。そういう出会いがあります。

 黙想を重ねてみてください。神様がどれだけ皆様とご一緒に歩んでくださっていたことか、今もそうですし、今も教会の中に、また外にももちろん神様が出会わせてくださる出会いが沢山あるのです。

 

 そこでは、私も身を低くして、相手も身を低くしというような麗しい出会いがある。

 「徹底的に仕えあう」ところに、力がある。

 謙遜な人より強い人はおらず、そのような人は自分自身を離れて神とともにいる人。

 

 このペトロとコルネリウスの関わり合いこそ最強です。破壊力抜群、まさにダイナマイト、デュナミス。聖霊の力。

 ここから全世界に対する働きがなされて、現代の私たちに福音の驚くべき調べが届けられました。

 「神は、高ぶる者を退けへりくだる者に恵みをお与えになる。」ヤコブの手紙4:6、新約415)

 本物の力というものがここにあります。

 神の御業。レーザービームのように時代を超え、場所を超え、この私に届く。信じる者たちの謙遜な姿、神の御前における礼拝の姿。その礼拝の姿が、フェイクではなくて、本当に重ね合わされるときに、そこに力が重ねられる。

 何千年後にも届くようなものとなって私のところに。

 

 聖書と信仰ということを通して、今私にとどきます。

 神の力というのは驚くべきものです。私たちにとって身近な聖書、この聖書を黙想し、その中で祈ることを続けることで、この私たちの器に主の心が満ちてくる。その力によって物事が起こります。その力は、見ようとする人にか見えません。しかし、不思議にも小さな一点のその力が、私に届いて、ここからさらに外にむかって力となっていく。この力は次の世代にも継続されていく。

 

 神の御前に、祈りの中で御言葉が開かれて、御言葉の力が現実であるということを味わい続けるものたち。祈りの中に走って行って、自分を低くするもののところで起こり続けるのです。ペトロとコルネリウスの間で起こったように。

 

 神の御前に行って、神との交わりを喜び楽しみ、そこで示されていく人たちとの出会い。

 その出会いは、神がおられて私たちが低くされていくという、低められたものと低められたものの出会いとなります。こんな素晴らしい出会いはありません。

 

 私は神様が特別な恵みをくださって、クリスチャンとさせていただいたはじめのはじめにこのような低ーいクリスチャンとの出会いがありました。それからいろんな出会いがありましたが、その出会いの中でつまづいたりっていうことが本当に多いのですが。

 失望感が支配的になることはない。それは、その低ーいクリスチャンとの出会いがあるからです。その人は一生懸命に自分と神様との関係を真摯に問い、向き合っていました。それゆえに、隣人を裁くことができずに、人のを裁いている暇などなく、ご自分と神様との間の対話を楽しみ、その楽しみに入ってくる仲間を心の底から喜んでいる人でした。

 だから、私も何もわかっていない状態であったにもかかわらず、聖書に向き合おうとするその姿勢を心の底から喜んでくれていました。

 今も、幸いなことに、多くの人と面談させていただきお話する中で、その方がなんとか一生懸命に神様と向き合おうとされているそんな姿に触れて、その人はもちろん低ーく低ーくなっておられるのですが、そんな方に対して私も敬意をささげることができる。

 

 そんな空間を味わうと、幸せをかみしめる瞬間となります。

 そういう出会いは、目を開けばいついかなるときにも与えられ続けていきます。

 

 私たちが本気で、嘘偽りなく、神様を前にしたときに、すべての出会いがそうなるのは間違いありません。

 だって、神を前にしたら、ただひたすらに自分を低く跪くしかないんですから。

 

 ペトロさんも、神様が語りかけてくださってから、自分が思い込んでいたことがいかに愚かなことであったのか悟ります。こう言います。

 彼らに言った。「ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されていません。けれども、神は私に、どんな人をも清くないとか、汚れているとか言ってはならないと、お示しになりました。使徒言行録10:28、新約229)

 このコルネリウスさんの態度に打ちのめされます。ローマの兵隊を悔い改めさせ、キリストの弟子としようとしている神の御業に感動しつつ。百人隊長の姿をもって彼は大きな励ましを受け取り、感動したに違いありません。

 もう、彼は誰が清いとか清くないとか、この人が悪だと悪じゃないとか自分の思いでは言えなくなったのです。

 

 百人隊長の姿を見ると、祈るということがどういうことなのか理解が与えられると思います。コルネリウスがしていることはすべて、祈りとつながっています。祈祷的な歩みを彼はしている。

 彼のなにげない言葉一つが祈りとなっています。その言葉を味わっていただきたい。

 それで、早速あなたのところに人を送ったのです。よくお出でくださいました。今私たちは皆、主があなたにお命じになったことを残らず聞こうとして、神の前に出ているのです。使徒言行録10:33、新約229)

 

 これまで皇帝にひざまづいてきたローマの百人隊長が、兵士の恰好で、皇帝に跪く。その姿は変わってないでしょう。しかし、彼は、全能の神の前にペトロを通して跪こうとしていました。どういう形で跪いたのでしょうか。調べてみますと、右ひざをたて左ひざを地面につけながら、盾を左手で地面につけ、剣を前にたて、戦う意思がないことを示し、跪く、そんなスタイルだったようです。

 そんな屈服の姿勢を取りながら、ペトロに跪き、いたるところで神がお語りくださることを知り、祈りの中で示された主がまた語ってくださることを信じて、ペトロの前に行くのです。そこで彼が聞こうとしているのは、ペトロを通して聞こえてくる神の声です。

 この瞬間、神の御前に出ているのですと。

 

 直感的に彼はクリスチャンの姿から主の御前に出るということを理解しているのです。

 いつでもどこでも、主がおられるということです。

 クリスチャンたちが祈る姿。その時の彼らの臨場感。ペトロとヨハネの麗しの門での癒しの姿を思いだしてください。彼らは自分たちを見ることによって私の後ろにおられるキリストを見てくださいと生まれつき足の不自由だった人に話かけました。すぐここにいる。すぐそばにおられる。そういう感覚です。だから、祈りもそのように近しいものになる。その感覚をコルネリウスはクリスチャンの姿からすでに学んでいたのです。

 

 主の御前に私は出る。ペトロの前に出ていくときも、ペトロは神からお言葉をいただく使徒。その使徒の前にでることは神の前に出ることに等しいことである。

 

 イエス・キリストにおいて神殿の垂れ幕がさかれ、十字架の血によって隔ての壁が完全に崩されて、私自身が神の前にでることができる。そのことをすでにこの百人隊長は悟っていますね。

 

 その姿は、まさに、謙遜の極み。皇帝の前にまるでひざまずくかのような日々が彼の毎日となりつつある。

 

 ある方とzoomで面談させていただているのですが、そのお方、このコンピューターを前にするネット社会で。そのパソコンに向かってまるで神様の前に跪いているかのようなご挨拶をいつも私にくださる。

 そんな方がおられる。私は幸せです。

 コルネリウスのような方がそこにおられるではないですか。いや、そういう方は、私が気づいていないだけで、そこらじゅうに驚くほどにたくさんいるはず。

 そういう、主の御前に今か今かと跪こうとする方が待っている。そういう方々との出会いがあるんだと考えると、ワクワクしてきます。

 

 私は神の御前に出ているのです。そのように信仰告白して、その思いに反応できる、その仲間は実はそこら中に一杯いるのです。そこには感動があります。主のお取り扱いを信じる道があります。

 徹底的に主が触れてくださる。

 

 この忠誠をささげる私に触れてくださり、癒しをくださいます。

 主が命じてくださいます。祈りの中で、「こちらに行きなさい」「あちらに行きなさい」と。

 コルネリウスに命じてくださったように。

 その御声を聞くためには、祈りの中に自分を置いている生活をしていないとダメです。

 主の導きが祈りの中にいないと見えないからです。主は私たちを無理強いして、無理矢理に動かすお方ではありません。だから、私たちが徹底的に心をささげていくというところに立たないといけない。

 そのためには、祈りの時間を定期的に持つことです。

 コルネリウスユダヤの人たちの祈りの時間に合わせて祈っていました。9時、12時、3時に祈っていました。

 コルネリウスの言葉からそれがわかります。

 すると、コルネリウスが言った。「四日前の今頃のことです。私が家で午後三時の祈りをしていますと、輝く衣を着た人が私の前に立って、使徒言行録10:30、新約229)

 

 私たちの社会はユダヤ教社会ではありません。ユダヤからすると異国の、聖書の文化からすると異なる文化。そこでどうやって祈りの生活を形作るのか、それは自由です。しかし、この姿から学ぶことができるのは、主がお語りくださるインマヌエルなるすばにおられる方だと信じて、定期的に祈りの時間を定めていると、そこに天使が舞い降りるような出来事が起こるのだということです。

 確かに、時を定めて祈っていると、自分のこころから解き放たれて、主の前に立ち、主が命じてくださる行動へと一歩一歩踏み出していく自分を感じます。

 主がすぐそばに、主の御声を聞こうとしてここに来ました。そういう時間をコルネリウス、ペトロにならってふんだんにおとりいただきたい。すると、低ーく低ーく互いに仕えあう、その間には主の御業が確かにという出会いが与えられます。喜びが皆様を待っています。アーメン。