ペトロはどうしてカイアファの官邸にいたのでしょうか。ゲツセマネの園でイエス様を守ることができませんでした。イエス様が捕らえられるとき、ペトロ一人が抵抗しましたが、その抵抗もむなしく、、、むしろイエス様は全く兵隊たちに歯向うことをせずに、剣をしまうようにペトロにおっしゃられました。
そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。(マタイによる福音書26:52、53 新約53)
イエス様はこれは決して敗北ではないとおっしゃられ、捕らえられました。
この捕縛は、聖書の言葉が実現するありさまを指し示すのであるとおっしゃられました。
もしも、神様が本気になられたら、この兵隊の一人をも主イエスに手を出すことはできないこと。それを主は宣言されて、その通り実行なされたのでした。
だから、このような状況で主なる神の御業が継続しているのだということを主イエスは宣言なされたということです。それを信じてペトロはついてきたのでしょうか。どういう理由でカイアファの官邸までイエス様を一人で追ってきたのかははっきりとは書かれていません。
でも、私としては、やはりペトロを少しでも弁護したいというか、ペトロの信仰をそこに見たいと思ってしまいます。だって逃げたって良かったわけですし、十分逃げる余裕はあったのですから。
彼は捕らえられたイエス様の一団を追ってきたのです。
そこには、「主の御業が主イエスがおっしゃられた通り起こる」という信仰、信頼があったと推測できます。
裏切ってしまっても、それでもイエス様との関係の中に生きるものとしてここに来たはずです。
そんなペトロも。。。
目の前に自分自身に向かう危機がさらに迫ってくると、自分を守るということを最優先してしまいます。もう、そうせざるを得ない。
命を捨てて、主イエスに従うと彼ははっきりと言いました。
イエスは言われた。「よく言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」ペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と言った。弟子たちも皆、同じように言った。(マタイによる福音書26:34、35、新約52)
ペトロだけではありません。弟子たち皆が命を捨てるって言ったのです。しかし、人間の弱さは自分でどうすることもできないのです。。。
自分で言ったことを自分で守ることができない。
それが私たちの姿です。
洗礼を受けた私たちもそうです。主の御前で誓約をしますね。しかし、何度その誓約に裏切りを重ねてしまうことでしょうか。
あなたは、キリストの忠実な弟子となって、その御言葉にしたがい、生涯キリストの愛の証人となることをこころざしますか。
と聞かれ、それに「はい」と応えた。
にもかかわらず、目の前にいる神の似姿であるおひとりを迫害したことでしょうか。
しかし、それでも主は見捨てない。
「主の御言葉と向き合うということが続いている限り、私たちは決して見捨てられていないのだ」ということを受け止めることが大切です。
主は私たちを見限ることをなさらない。しかし、常に私たちが主を裏切り続けている。
一つ自分を見る視点を抜けていくことが大事です。
「自分が」ではないのです。
はじめから自分たちにはできないことを私たちは主の御前にしようとしている。主の為に命を捨てるなどということは、弟子の筆頭であるペトロでさえ全く守ることができないのです。
しかし、彼は最後には、自分の命を捨てて主に仕えます。使徒たちの95パーセントが殉教します。主のために死にます。
しかし、何度もいいますが、ほぼ100パーセントが一度は裏切ります。
裏切らなかった使徒はいません。
この矛盾こそが私たちの現実でしょう。裏切者であり、信じるものである。
そのような成長の過程を通されているものとして、私たち自身を見、また隣人を見ることが大切です。まだまだ、全然、天の基準からすると恐ろしいほどに低いところにいる。
しかし、主が飛翔させてくださる。主が時を与えられ、主が働かれ、自分がその身を主にゆだね続けていけば、主の働きが起き、主のお働きの中で成長させられるものは「飛ぶ」のです。
『私がエジプト人にしたことと、あなたがたを鷲の翼の上に乗せ、私のもとに連れて来たことをあなたがたは見た。それゆえ、今もし私の声に聞き従い、私の契約を守るならば、あなたがたはあらゆる民にまさって私の宝となる。全地は私のものだからである。(出エジプト記19:4、5、旧約115)
主のものであり、主がお働きくださり、主が翼に乗せて飛翔させてくださるのです。
それは3000年も4000年も前から変わっていません。
その実際の姿がペトロの姿です。これほどまでに、主を裏切るものであったのです。
裏切り方もひどいと言えば、ひどいです。今日の朗読された箇所にどのように裏切ったのかという詳細が、記されています。ペトロ自身が自分自身がどのように裏切ったのかを自分で証言したのです。
ペトロは皆の前で打ち消して、「何を言っているのか、分からない」と言った。(マタイによる福音書26:70、新約54)
打ち消してというのは、「関係性を全否定して」という意味です。イエス様と「全く関係ないと言い切った」ということです。
そんなこと言えるのかと、思いますよね。しかし、追い詰められてしまうと。。。
追い詰められて自分が生き残ることができるかということを考えるところに行くと、何をするかわからない。それが人間の歴史ですよね。
主がご支配くださるのでなければ、一体何をするのかわからないという部分が多々ある。
それは、非常に熱心な信仰深い、弟子の中の弟子であるペトロであってもそうだったということです。
三度裏切ってしまうわけですが、裏切りが重ねられるほどに、ペトロがどのように裏切ったのかが明らかになっていっています。初めは「打ち消した」。次は。
そこで、ペトロは再び、「そんな人は知らない」と誓って打ち消した。(マタイによる福音書26:74、新約54)
「そんな人は知らない」です。
そして、三度目は。
その時、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「そんな人は知らない」と誓い始めた。するとすぐ、鶏が鳴いた。(マタイによる福音書26:74、新約54)
呪ったのです。
どのように呪ったのでしょうか。申命記28章を見ていただければわかりますが。呪うということは、ある一つのことで何か悪いことが降りかかるということではない。
あらゆる領域。全領域で、呪いが降りかかってくるということです。
その呪いが自分に降りかかっても構わない。もし、イエスと関係があるなどという事実があるのであれば、私の上に主が命じられたすべての呪いが降りかかりますようにということをペトロは言ったということです。
神様との関係に生きるものの祝福がペトロの真実なる姿を通して良く見えてくると思います。
良いところも悪いところもある。光も闇もある。
主が本当にペトロにあたえられた力を見てください。
彼は、教会を生み出し、彼を通して、驚くべきことにたくさんの信徒が生み出され、命をささげて主の為に生きるというものたちがあとを絶たず、何千年も与えられ続けるのです。
その実りが私たちです。ペトロの子どもであるともいえますよね、白銀教会は。
すべて主が覆いつくしてくださって、命が生み出されるその道を備えてくださる。
呪いがすべて子どもたちにくだされるということはない。
ペトロの姿をみてください。主イエスを呪ったのです。でも泣きながら帰るものを主は呪わない。
主との交わりの中に生きようとするもの。そのものたちを覆いつくして、圧倒的な祝福で見たし、命を与えてくださり、教会を生み出してくださる。永遠につながる力をこの私からこの地に生み出してくださるのです。
主がどんな風に私を覆いつくしてくださったのでしょうか。そのことを強く強く意識しているのが、ペトロですよね。
だから、彼は誰も知らない、誰も見ていなかった、弟子たちの誰も知らないその三度の裏切りを自分で表現して教会の言葉として伝えていったのでした。
ペトロの上に覆いかぶさってかばってくださっている主イエスのお姿を鮮明に証するためにです。
愛があまりにも深すぎて、その愛を証するために、自分の愚かさをいくら語っても、主イエスのお姿が見える。
「すべての呪いが自分に降りかかっても良い」と言った。
その呪いの言葉をペトロのために握りつぶして捨てさってくださった主イエスのそのお姿を彼は強く強く心に刻んでいたからです。
まことの教会。
その教会は、世界一素晴らしい場所になります。
というのも、自分自身の愚かさに心の底から涙している教会がまことの教会だからです。
ペトロが礎となった。ペトロのこの姿。一つも自分の不従順さを隠し立てしない姿。
はなはなだしく主イエスのこころを踏みにじった自分。
そのうえに十字架の主のお姿がある。
自分の上に主の命が注がれていることを見るその共同体において、命が受け継がれていきます。
「わたしこそが主イエスを十字架にかけたのです。」
という祈りを、私の妻がしていて、私はそこまで言わんでもと思い続けてきました。
しかし、牧師となって、ことごとく主が命じられた基準から落ち続ける自分を自分でみるしかなくて。イエス様が命じられた山上の垂訓のはじめのはじめの方で、もうすでに主イエスがおっしゃられた言葉に従う気がない自分がいる。
自分の目には不信仰、不従順のように見える牧師や信徒を敵に回し、心の内側で攻撃する自分がいること。もう弟子として歩むその一歩その一歩も前に進まずに、何十年も。。。
目のまえの人を攻撃するとき、、、主イエスを痛めつけていたわけです。
主イエスを十字架にかけろと、、、目の前の敵に向かって言っているようで、イエス様に言い続けてきたわけです。
イエス様を十字架にかけつづけてきたのは、この私だったのです。
「あなたがたを受け入れる者は、私を受け入れ、私を受け入れる者は、私をお遣わしになった方を受け入れるのである。預言者を預言者だということで受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者だということで受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。よく言っておく。私の弟子だということで、この小さな者の一人に、冷たい水を一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」(マタイによる福音書10:40~42、新約19)
信じる一人一人に対してとった態度はすなわちキリストに対してとった態度。
その一つ一つに裏切りがある。そんなことに気づいてしまって。もう、その中で赦されざる自分を認めざるを得ない。しかし、主はその私を覆いつくしてくださる。
ペトロのようにくず折れて、ひたすら祈るしかない人々の共同体。
そこに命の芽生えが。
そこに永遠につながる天の梯子が。
白銀教会の講壇の背後にあるステンドグラスは梯子のモチーフですよね。
多くの教会のステンドグラスは、あのヤコブの梯子がモチーフですよ。
み使いがあらわれ、不思議なことが起こる。
不思議な主の御業が、なんでこんな恵みが。
なんでこんな愚かなものたちに、主が望んでくださって命の萌芽が。
この地域全体が。主が愛されている人類、愛するこの地域の人々が復活しはじめる。
それは、まさにペトロという岩の上に、私たちが立つとき。
ペトロのように、ペトロと同じように歩むとき。
自分の裏切りを告白し、主イエスを見るとき。
主はペトロを教会の礎としてくださると約束してくださいました。
私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。(マタイによる福音書16:18、新約31)
ヤコブは眠りから覚めて言った。「本当に、主がこの場所におられるのに、私はそれを知らなかった。」そして怖くなって言った。「この場所はなんと恐ろしい所だろう。ここはまさに神の家ではないか。ここは天の門だ。」(創世記28:16、17、旧約42)
アーメン。