2023年11月12日 主日礼拝説教 使徒言行録13:1~12 「宣教の使命と力」 石井和典

 アンティオキア教会から素晴らしい働きがはじまります。パウロバルナバという弟子たちが、非常に重要な働きをします。

 パウロのことを支えて教会に迎え入れることができるようにしてくれたのがバルナバでした。というのも、パウロはもとはクリスチャンを迫害するもの。クリスチャンを何人も殺すことに賛同していた人でありました。その殺されてしまった一人がステファノでありました。そのことに賛同していたと聖書には記されています。

 殺人に賛同する人を教会が迎え入れるわけにはいかないでしょう。

 しかし、彼が神の御前で回心し、変わったことをバルナバさんはよく見ていたのです。パウロさんの言葉を見ていくと、「自分が罪人の頭」であるという言葉が出てくるのですが、非常に印象的ですし、皆の信頼を最後の最後まで守り抜くお方でしたから、常にこの自分こそが一番下で仕えるものであるという意識を持ち続けたことでありましょう。

 「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまず私に限りない寛容をお示しになり、この方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。(テモテへの手紙Ⅰ 1:15、16、新約375)

 だから、すべての人が信じて信仰のみによって神の国の民となるために、私という一番最悪最低な、人を間接的に殺したことさえある罪人の中の罪人、罪人の頭の私を選ばれたのだと言っているわけです。これは明らかに、パウロのトラウマ的な出来事なのですが、しかし、これは聖なるトラウマです。彼が最も低きものとして働き続ける力、そして、やがて自分が殺そうとした人たちとも天でお会いするのだという視野になっていったのだと思います。

 パウロさんからは、手紙を読んでいて、無尽蔵の力を感じますが、その秘訣はこの低さにあったのだと思われます。低いところに彼が常にひざまづいて、それゆえに、主の命の泉はこの低きところに徹底的に流れ続けるのだということです。

 

 さらに、本日の聖書箇所を見ていると、バルナバさんとパウロさんたちは「断食して」礼拝していたと記されています。それは、肉の自分を捨てていく行動です。断食といっても全部「食」を絶ってこんりんざい一切なにも食べないというわけではないので。一つの象徴的な行動ととることができます。しかし、そこに表れる礼拝的な意味は非常に深いのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従え」とおっしゃられた主イエスの言葉に従う行動です。

 すなわち、肉の自分を超えていくこと。肉を捨てる意識を持つこと、自我を捨てる意識をもつこと、神の御前にすべてを降ろして、礼拝するということです。

 

 多くの人を見てきて、また自分もキリストの道を求めるものとして沢山の失敗を犯し躓いてきましたが、その中で見えてくるのは、究極的な問題は「自我」であるということです。

 自分に固着し、固い石地となって主の恵みを受け入れられないということです。

 多かれ少なかれ、こういうことが起こっているので、成長しないし、力を感じ取れないということが起こっています。争いも共同体の中でよく起こりますが、すべて自我の衝突です。

 だから、肉に死ぬという象徴的な行動である断食が非常に大きな意味があるわけです。断食を実際にするのも良いですが、祈りの中に身を投じていくということ、人生を投じていくということが断食的な祈りを実現していきます。

 すなわちその中身は「自分を捨てる」ということです。イエス様がこうおっしゃった言葉に従う行動です。

 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る。(マタイによる福音書16:24、25、新約31)

 自我を捨てると、それで不思議にも命を得ていくという道。主に対して自分のこだわりを捨てると、主によって満たされる道が開かれるのです。自我を捨てていない人たちは争いの原因によくなります。弟子の筆頭であったペトロは、イエスさまから弟子の筆頭として任命されますが。天国のカギを持っている男とされますが。

 同時に、「サタン」とも一度言われてしまった人でもあります。それは、彼が「自我に固着していたから」です。イエス様が死ぬなんてありえないって言ったのです。

 で、この気持ちってよくわかります。人情としては、師匠であるイエス様が死んでしまっては、メシアであるイエス様が死んでしまっては。ローマ帝国から解放してくださるのがイエス様なんでしょうってペトロは思っていたわけです。

 だから、イエス様が死ぬということはペトロは絶対に受け入れられなかった。

 イエス様に、十字架なんてあってはならないことですと言ってしまうのです。しかし、その神の計画を見ない、自我に固着したものが「サタン」なわけです。サタンは、神のご計画を台無しにしようとする。しかも多くの場合、人間の肉に、自我に、その人がこう思うというような自分の思いに固執させて、それで神が与えようとしている命から落とそうとしてくるわけです。

 これってよく起こっていることです。

 私が今まで自分の中で経験してきたことです。神様がお考えのことではなくて、自分が考えていることにこだわって、それを誰かにぶつけて、自分の正義をぶつけてそれで相手を裁き、その結果その人の内側で神の業が起こるということを見ないで、争いが起こって行く。

 そういった自分に固執するような状態はサタンの手のうちにあるということなんです。

 

 だから、自分の肉に死ぬような断食的な祈りが極めて重要なのです。 

 特に神の御心に従っていくときには、自分を捨てないといけませんので、実際に初代の教会の弟子たちは、断食したわけですね。そうすると、聖霊が告げました。聖霊というのはクリスチャンの内側に内住するキリストの霊です。イエス様のご命令として、心の内側に次のような言葉が響いたわけです。

 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」使徒言行録13:2、新約233)

 

 神の力によって押し出されていった使徒たちは非常に強烈な力強い働きをすることができます。

 

 パウロたちは、聖霊に送りだされて、キプロス島に渡っていきます。そこには、すでに、信仰を受け入れようと待ってくれている人たちがいます。それも聖霊なる神の御業です。

 信仰は人間の力でコントロールできません。しかも、なんとかクリスチャンたちの発する言葉を聞こうと待っている総督がいるなどということ。そんなことパウロバルナバには準備できることではありません。しかし、そういう信仰に入って行く人が準備されて待っているのです。

 

 不思議ですね。神の御業って、向こうで待っていてくれるのです。

 

 でも、確かにそうです。教会に導かれたこと。これは神がここで待っていてくれたから実現した内容です。私は教会に自ら行こうと思っていたというよりも、状況が整えられて導かれていったということのほうが正しい。大学時代に教会に通うことになりますが、教会に私の友達となってくれる人、しかも、聖書をちゃんと読めと行ってくれる人がいたのです。だから牧師にまで導かれたんですね。あの友が、聖書なんて適当に読んでおけばいいよなどと言っていたら、私は牧師になってないんじゃないでしょうか。

 しかし、そういう人が準備されていたのです。という形で、すべての人におそらく神のお膳立てがある。

 しかし、そこには葛藤と戦いも同時にやってくることになります。総督セルギウス・パウルスという人はキリスト信仰を聞こうとしているのですが、バルイエスという魔術師が、邪魔して聞かないようにしようとするのです。

 人が信じようとすることを無にしようとして、キリストから離れさせようとする力が常に働きます。信じる行動ではなくて、信じない行動をとらせようとする。神の方に目を向けさせるのではなくて、そらせようとする。主イエスのお姿に近づいていくのではなくて、離れさせようとする。

 その人は、あろうことか「バルイエス」という名でした。ヘブライ語で「イエスの子」という意味です。これが偶然なのかメッセージなのか。

 まがい物が現れて道をはずして、恵みにあずかれないようにしようとすることが起こるのです。 

 

 しかし、聖霊に、キリストの心に満たされていたパウロは、それが悪霊にコントロールされてしまった人の行為であるということを見極めることができました。命に近づけるのではなくて、遠ざけることがどういうことなのか。聖霊に満たされているとその判断がつくのです。そして、その歩みをパウロはこのように言い放ちます。

 「ああ、あらゆる偽りと不正に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、誰か手を引いてくれる人を探した。使徒言行録13:10、11、新約233)

 正義というのは神さまだけがお持ちの正しさです。正義というのは、神に向かう人しかわからない。正義というのは正しい中の義さですから。それは人間が持ちえないものです。だから神に向かってその義しさを問うというか、聞くということ、その主から義しさが注がれてということしかありえないのです。

 しかし、このエリマという人、バルイエスという人は、イエスが間違っていて、自分が正しいなどということを言って、自分にひきつけようとしてくるわけです。自分のただしさに人を引き付けてくる人たちって皆同じような行動をとりますね。不信感を煽って、本質的に大切な情報から人を離そうとしてくるのです。人の方に人を引き付けていくようなよこしまな道というのは、どんなものでもよこしまです。

 主イエスに結びつくことがまっすぐな道です。それ以外で人をしばりつけていくもの。正義がまるであるかのようにみせてくるものは偽りです。

 そのよこしまなものにはやがて主の裁きが降るのです。時間が経つと明らかになります。何が主が喜ばれて、何が主がお嫌いになるのか。この時は、非常に即座にその場で、パウロの口を通して裁きが宣言されましたが。まさに、その通り主の裁きが降るのです。

 しかし、そこでも導かれべき人は導かれます。この総督セルギウス・パウルスという人は、どうしても導かれるべき人でありました。だから、主が真実を見せ、必要な言葉に触れることができるように主が導かれます。

 

 私たちは、本当に安心していいことがわかります。「心のそこから神を真実に求める人」に対しての主の導きというのは、どんな妨害が入ろうが、どんな障害があろうが、それを乗り越えさせる主の御業が起こるということです。

 

 だから、何より大事なのは、純真に純粋に、ご自分の心の底からの叫びで主を求め続けるということです。

 そうすれば、主が道を作ってくださり、すでに主ご自身がお膳立てしてった道が示されていく。

 

 あらゆる困難を乗り越えるために必要な助け、導き手を与え、確実に皆様を導き抜いてくださるということが明らかにされる。

 

 信じる人たちに満ちるのは、「驚き」と「喜び」です。

 こんな私にもかかわってくださり、導いてくださるのだと。何があってもその手を離されるお方ではないのだという確信です。

 悲しいことに、この妨害するものたちというのは、信じれば良いのに、信じないで妨害し自分に引きつけようとしました。

 こういう人たちは、信じるものたちの信仰を徹底的に強めるスパイスのような役割をして、消えていくものでしかないことがわかります。

 

 ただひたすらに自分の心で求めましょう。そうすると、主の導きが開かれて見えるようになります。妨害の手さえ、皆様の信仰を強める道具とされます。アーメン。