2023年8月20日 主日礼拝説教 使徒言行録9:21~31 「サウロの回心」 石井和典

 クリスチャンを迫害していたサウロ。後の使徒パウロです。彼はユダヤ教徒であり、非常に熱心なファリサイ派という派に属していました。ファリサイ派というのは旧約聖書に書かれている戒律を文字通りすべて守っていこうとする人たちでした。聖書に忠実に生きようということです。しかし、彼らはメシアであるキリストを受け入れることができませんでした。

 というのも、「イエス・キリストは神であり人である」ということがクリスチャンたちの主張であったからです。人間を神格化してしまうようなこのクリスチャンたちの主張を受け入れるわけにはいきませんでした。

 イエス様が十字架で亡くなられる前に徹底的にファリサイ派サドカイ派、律法学者を糾弾したということもありましたが、彼らにとってクリスチャンの働きを妨害しなければならない正当な理由がありました。

 

 それは旧約聖書的にはクリスチャンの教えは「間違っている」ようにうつっていたからです。

 でも本当は間違っているのはサウロさん自身でした。

 

 相手が間違っていると主張しながら誰かを批判し、行ったことが実は神の御心のかなわないということ。こういうことは人間のコミュニケーションの中で頻繁に起こっています。

 サウロさんのお姿を見ていればわかりますが、わたしたちにとって必要なのは、まず自分の目の中の丸太が取り去られるということです。イエスさまがこうおっしゃっている通りです。

 「人を裁くな。裁かれないためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量られる。きょうだいの目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目にある梁に気付かないのか。きょうだいに向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に梁があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。(マタイによる福音書7:1~5、新約11)

 イエス様の言葉です。

 「偽善者よ」という言葉が強烈に響きます。

 「偽善者」というのは「ヒュポクリテース」という言葉です。「役者よ」「演者よ」という意味です。役者、演者という言葉自体が悪いことばではありませんが。悪い意味で主は使っておられます。本質は違うのに、偽って外見だけ繕っている愚か者よという意味です。

 同じような言葉をまた、主は「白く塗った墓」と表現して、ファリサイ派に語っておられます。

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(マタイ福音書23:27、新約45)

 

 イエス様に偽善者よとか、白く塗った壁よということを言われて、これは「私の普段の生活を指し示しているのじゃないかな」と思う人。

 

 そういう人たちがイエス様の周りに残っていく人です。

 回心して新しいスタートを切るために選ばれた人です。

 人は悲しいかな、何度同じことを言われても、何回学んで同じ指摘を受けても、自分のものとして何十年も聞かないということが起こってしまって、成長が阻害されてしまうということが起こります。

 

 弟子としての成長というのは、まさにイエス様がお話になられたことを自分への語りとして聞いたときに、起こっていくこことであり、その時には、パウロ的な展開、回転、コペルニクス的な180度方向転換するような。天動説が地動説になってしまうような変化が起こるわけです。

 

 パウロにとってみれば、自分が迫害しようとしていたその人こそが、神の僕たちであった。

 その人を迫害するということは神を攻撃していることと同じであった。自分が神に対して正しいことをしていると思い込もうとしながら、正しいこととは真逆の「悪」を行っていたことに気付いた。それがパウロの回心であり。ものが見えるようになった瞬間でした。

 

 しかし、ものが見えるようになると恐ろしいほどに神様の守りがそこらじゅうにあるのだということに気付かされる歩みになっていきます。パウロが神の御手、インマヌエルなる主イエスの姿に気付けば気付くほどに、彼は確信をもって力強く伝道の業に乗り出していきます。

 

 パウロがクリスチャンを迫害していたように、自分自身が迫害されていくということが本日の聖書朗読された箇所で起こっていたことです。

 

 しかし、彼が確認するのは、その迫害の魔の手の恐ろしさではありません。

 驚くべき程に助け手が備えられていくのだという現実の世界です。

 自分の良心に従って本当に主が導いてくださる方向に行こうとすると、そのことに対する妨害や敵というのは必ず現れます。

 そういう人が現れたときに感じるべきことは、主が導いて正しい道を備えてくださっているので、このように攻撃せざるを得ないよこしまな人がいるのだという事実でしょう。

 だから、迫害されるということに目を向けるのではなくて、霊的な目を開いて、信仰の心で、神が道を備えてくださっているその道を見ればよいのです。

 パウロひとりでは、迫害の手を逃れることはできません。

 しかし、主が助けを次々と与えてくださる。その助けによって歩みを進めていくことができます。

 

 回心した瞬間からパウロさんは伝道をしはじめている。

 というのも、彼の人生を全く方向転換させた主イエスの現れについて、彼は黙っていることができなかった。

 イエスこそが、主であるというこの知らせを次々とつたえて、人々が信仰に入り、信仰にはいった人々が癒されていったのです。

 パウロが回心したその瞬間から命の芽生えと連鎖、神の業がそこらじゅうに、命がふきだしてきて、人々が復活しつづけるということが起こっていきます。

 

 その姿をバルナバさんはしっかりと見ていました。

 バルナバというのは「慰めの子」とか「励ましの子」という意味ですが。イスラエルの中心であるエルサレムパウロが向かったときに、誰もパウロのことを援護してくれる人はいませんでした。あたりまえです。彼はクリスチャンを殺しまわっていたわけですから、エルサレムの人々は皆彼を信用しないのです。しかし、バルナバだけはパウロの回心の姿を見ていて、証言してくれるのです。このバルナバがいなければエルサレム教会にパウロが迎え入れられれて行くことは難しかったでしょう。

 しかし、そういう要になる人が与えられるのです。

 

 皆さん。課題とか、試練とか、敵とか。。。それはこれからもずっと皆さんに付きまとう大変な試練となっていくでしょう。

 断言します。試練試練試練。敵敵敵。四面楚歌な状況がやってくるでしょう。

 

 こういうことを経験しない人は、まともに聖書の言葉を受け止めているのであれば、いません。必ず経験します。経験していないのであれば、聖書をパウロさんみたいに受け止めていないのです。なぁなぁにしているから特に迫害もないということです。自分の目の中に丸太があるのに、人の目のゴミを取ろうとして本質に近づけない状態になっているということです。

 

 しかし、大丈夫いつでもどこでも何があっても信仰の目を見開けば「バルナバ」がやがて現れる。バルナバ「慰めの子」ともいうべき仲間が与えらえれる。元気を再び注入してくれる人が出てくる。それは別にパウロが準備した人でもないし、エルサレムの教会の人が準備した人でもない。神が整えておられる方々がこの世界には非常にたくさんいるということです。主はある箇所でこのようにおっしゃられています。

 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私はあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ。」使徒言行録18:9、10、新約245)

 

 ある町では、イエス様のことを伝えても、全然伝わらないという状態になる。

 それは主がご準備くださる民がそこにいなかったから。しかし、ある町では、神の民が大勢いることが示される。神によって準備される。

 

 ご自分の信仰経歴を見て下さい。誰か一人に導かれたっていう人もいるでしょうが、いろんな文脈が恐ろしいほどに重なってそれでやっと教会に導かれて聖書に触れて人生が変わっていく。

 ものが見えるようになって、使徒的な歩みに乗り出そうとしている。

 

 どこまでも、主の教会は主の御業が先行していく。そのありさまを見るのが教会です。

 主の御業を確認する歩みです。

 だから、主を畏れる場所となる。このように記されている通りになる。主の御手を見ていればです。

 こうして、教会はユダヤガリラヤ、サマリアの全地方で平和のうちに築き上げられ、主を畏れて歩み、聖霊に励まされて、信者の数が増えていった。使徒言行録9:31、新約227)

 主を畏れて、主が先導されていることを見ていますか。

 自分の思いに溺れて、自分の洞察力、先入観、偏見、バイアスに毒され、主のお姿が全部どこかへ吹き飛んでしまっていませんか。

 主がご一緒してくださっているというシャローム(平和)はありますか。

 その平和があれば、主から受けた恵みは黙っていても隣人に伝わってしまいます。

 聖霊を受け取って、内側からダイナマイトのような力の爆発を感じていますか。

 パウロが全世界へ出ていかざるを得ないような内側から湧き上がってくる感動の爆発がありますか。

 

 あぁ、なるほど主に従う教会、クリスチャンっていうのはこういう人たちなんだという姿が使徒言行録で見えてきます。まことの教会を形作っていきたいと願います。

 

 非常に簡単です。自分の力を手放し、霊の目を開き、インマヌエルなる主を見ればよいのですから。先導してくださる神の姿をみれば良いだけだとパウロの姿を見ていれば気付きます。パウロの力などははじめから最後まで特に強調されてはいません。証されるのは、徹頭徹尾神の力です。

 

 そこにすでに神によって準備されているバルナバを発見すれば良いのですから。

 主がこの地域全域にご自分の御業を始めてくださるということを見ればよいのですから。

 私になにかが整ってから始める必要はないのですから。

 ひたすらにパウロが目を開いたように、目から鱗。視点を変えればよいわけですから。簡単です。

 しかし、それができないのが人間。その私たちを憐れんでくださいと祈りましょう。

 神の業はすでに準備されています。それを見ましょう。

 神の助けが恐ろしいほどたくさん、あなたに。アーメン。