2023年8月27日 主日礼拝説教 使徒言行録9:32~43 「キリストの力を表す通路」石井和典

 教会の働きは「復活の力の証」です。確かに復活の力がここにある。それを実際に体験していただく。そのイエス・キリストの力を伝えること。

  復活が要です。

 「復活の力がわたしたちがいる、ここにあり」が要です。

 本日の聖書箇所というのはその復活の力の証です。中風の人アイネアと、本当に死んでしまった人タビタ。その2人が復活する様が描かれています。一人は死んでいたわけではありませんが、社会的に抹殺されてしまうような状況であったがゆえに復活と言ってよいでしょう。

 聖書協会共同訳には「体が麻痺して8年前から床に着いていた」と記されていますが、この体が麻痺してというところは、以前の新共同訳聖書では「中風」と記されていました。中風というものがどういうものなのかというと、いわゆる脳障害による後遺症に苦しんでいる人と言って良いと思います。現代では、脳障害に対する医学的な対応というものができるようになって、脳の血管障害が致命的な病となる場合もありますが、対応できるようになってきました。

 しかし、イエス様の時代の医学では、脳の内部で起こったことはすべて未知の領域で起こったものであり、癒やせない病であり、時に悪魔の所業であるというふうに理解されてきたわけです。しかももう8年も寝たきりだったのです。

 

 だから、アイネアという男性が被った病というのは、絶対に癒されない病であったといえますが、そこに福音の力が影響を与えるわけです。

 これが復活の力。

 

 人間ではどうにもできない壁を乗り越える。不可能を可能とする力。絶望に希望を。失望に光を。これが復活の業。

 

 世界中のすべての人がこの復活の力を求めていると言えると思います。

 

 この世界のいろいろな物語をみて、とくにすごく皆さんが好んで見ておられる映画や小説、物語をみますと、「超しんどい」ところから何とか希望を見出して、抜け出していく、というストーリーになっています。

 それはすなわち皆が、この復活の力が与えられること。回復が与えられること。希望のないところに希望を。奇跡を求めているからです。

 小説って皆奇跡を小さなところに大きなところに見ようとしているものであるとも言えると思います。「鬼滅の・」「僕のヒー・・・・・・」などが最近読んだコミックで、私の心をがっつりつかんで、感動を与えてくれました。

 超しんどい課題が目の前にある、超強烈な敵が目の前にいるというストーリーです。そこで本質的に重要なことを登場人物たちが発見していくのです。

 超しんどくないとダメなんです。そうしないとストーリーのもりあがりにかけます。本質に至っていくためには、試練がひどければひどければ、光が鮮明になっていくということがわかります。なるほど、人生ってそういうものなんだなということがわかります。

 

 本当に大切な力へと闇の中で出会っていく。それこそ私たちにとっては復活の力となるわけですが。その力の出所がキリストであると信じる。すべてがキリストから、というところに立つのが教会、使徒的伝承に立つものたちが向き合っていることということになります。

 ですから、ここ(教会)で証されるのは「復活の力」です。

 常にです。

 それは回復の力として、聖霊の賜物としてみられるものとなります。

 だから、教会に来たら人々の人生が回復されるし、新しい力が与えられる。そういう人たちが私たちを見てくださいと証をたてるのが教会です。私が回復しているので、私が復活の力にあずかっているので、どうぞ来て、ご一緒にこの力にあずかって、回復して新しい人生をはじめてくださいということです。 

 回復の力が満ち、実りが与えられると、聖霊の実(神のこころの実り)としてわかりやすく外に出てくるわけです。

 それがガラテヤ書5:22に記されていますが。この実りに預かったのがこの私です。私の友人ではじめにわたしを導いてくれた子は、この聖霊の賜物に満ちていました。

 未だに超強烈な影響力をもって私のこころを打ち続ける。そんな力。実りとなります。

 大学の時に私を導いてくれた同級生は特に私に対する「寛容さ」と、「柔和さ」に満ちていました。今思い出しても、その人の前には天国が展開されていたことを思います。何十年も、継続して力を発揮します。それがペトロ達の力でもあり、教会が引き継いでいる力。

 

 私たちの人生を変えます。変え続けます。光を放ち続けます。私の前で天の国が展開されます。

 

 ペトロさんのイエス様に対する態度って、すごい波がありますよね。アップダウン上下がすごかった。教会の礎となると言われてみたり、サタンと言われてしまったり。その差がすごい。

 

 しかし、聖霊に満たされてから、イエス様の心に満たされるということを知ってからのペトロさんは全然ちがいます。本日の箇所にもアイネアとタビタのところに行ったという風に書いてありますが、こんなふうにサラっと書かれていますがすごいことが書かれています。神の心に満ちているかどうか。それは面にでてきます。

 ペトロはすべての教会を巡回し、リダに住んでいる聖なる者たちのところへも下って行った。使徒言行録9:32、新約227)

 「すべての教会を!」巡回です。当時の教会の数はそんなに多くなかったとはいえ、彼はキリストの名による教会をひとつのこらずめぐって行きました。信仰によって主の御業に預かる者たちを見逃すわけには行かなかったからです。

 彼を通して主の御業が起こっていました。そのすべてを確認するようにして、ペトロはその恵みをすべて見て回っていたのです。

 

 ペトロが伝えていたことは非常にシンプルです。イエスの御業です。イエス様がすべて主語になって、主体になって、イエス様の力によって癒されるということでした。ぺトロの言葉からそれが見えると思います。

 ペトロが、「アイネア、イエス・キリストが癒やしてくださる。起きなさい。自分で床を整えなさい」と言うと、アイネアはすぐ起き上がった。使徒言行録9:34、新約227)

 「イエス・キリストが」癒やしてくださる、です。「わたしが」癒やそうでは全くありません。

 ペトロの力によるのではなくて、神の力です。

 

 私たちの視点ってすごくずれているということが見えてくると思います。人間が本当に心の底で考えていることって、たった一文とか一言で見えてくるものです。特にわかりやすいのが、文章っていうのは、主語が一体なにになるのかで決まってきてしまう。その主語がすべてイエスとなっていく。そのような歩みをペトロはしていたのだということがわかります。

 聖書の中で人間が堕落していくときって、「私が」これができる、とか、「私たちの力を集結して」とか。「私たちのやりたいように」とか。神を排除していって、神への感謝や喜びや、神をあがめるということが「主が」という主語がどこかにいくことによって、「私たちの力で」となって神を消失していくのがわかります。それが私たちのでない場合は偶像であったり、金であったり、国家権力であったり、他の何かの力でとなります。

 

 そんなことを考えている時には、私たちが考える、私たちが見ている範疇で、私たちの実力によってとか、私たちが正しいと思うとか、私たちがこう考えるとか、そういったことが優先されて「イエス・キリストが」という主語がどこかに吹き飛んでしまうのです。そこでは奇跡は起こらない。

 しかし、キリストがそこにおられるとき、人間が絶対に自分の力では乗り越えることができなかった、死とか病とか、差別とか、社会的に死においやられるとか、そういったことを飛び越える力が満ちてくるのです。

 

 「タビタ、起きなさい。アイネア、起きなさい。」

 みんなが諦めていた人、そういう人が立ち上がるということが起こるのです。

 だから、ぜひともここにご自分の名前を入れて、味わってみていただきたいのです。

 「石井和典、起きなさい。イエスが癒やしてくださるのだ」と。

 

 ドルカスっていう人は「かもしか」「ガゼル」というあだ名がつけられた、非常に人々から信頼されて、親しみをもって愛称で呼ばれていた人です。彼女は洋服を作るのが得意だったのですね。皆で彼女のことをいとおしく思い、そこに主の僕がお越しくださるのだと信じていると、そこにペトロが遣わされてくるわけです。何があっても、主の僕が、イエス様が、ここにお越しくださって、「起きなさい」とおっしゃってくださる。

 この世で命が絶たれてもまだまだ全然終わりじゃありません。私たちが愛するものたち、私たちの家族のもとに、ペトロが、イエス様が、主の僕が、聖霊の賜物に、神の心に満ちた神の子供たちが来てくれて、「起き上がれ」って何があっても言ってくださる。

 

 聖書を信じるものたちにとって、結論は「主が」です。「主が」起き上がれって言ってくださるということです。その主の主体的な行動に、自分自身に向かっていた視点をいちどクリアーにして、主がというところに立つと、結論は「復活」「回復」「命」「よみがえり」でしかありません。

 

 私たち教会の先人たちは、本当に大変な目に、どうにもならない壁によってその歩みが阻まれてきましたね。しかし、そこに復活の力が望む。その復活の力が望むための試練であったのです。イエス様がヨハネ福音書でこういう決定的に私たちの人生観を変える言葉を下さいました。

 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ヨハネによる福音書9:2、3、新約180)

 

 どの道、誰にとっても、試練がやってくる。皆実は試練しかない。しかし、そこで見えるものが違う。神の業が現れるために、私のストーリーがあった。主はあえてこのような暗闇に私を落とされるけれども、ここで主を味わい、主のご愛に涙する。主が癒やしてくださることを体験し、主が立ち上がれとおっしゃってくださったとおり、主の言葉が実現するので立ち上がる。そのような主のお力の成就というものを皆様は皆様の歩みの中で体験するのです。大変な道であることは間違いありません。つらいでしょう。しかし、回復、復活。これが主イエスを信じる皆様の結論です。アーメン。