2023年10月8日 主日礼拝説教 使徒言行録12:1~12 「迫害に打ち勝つ祈り」石井和典

 今も、昔も永遠に変わらないことがあります。

 「主イエスのもとにかえってきさえすれば、癒しがある。」ということです。

 主イエスのもとに集まった人々に与えられたのは、悔い改めでした。「これまでの人生のどこが神に背いていたのか」が、はっきりと示されます。

 しかし、そこから回復の道筋が備えられ、弟子たちの人生は大いに変化しました。

 

 悔い改めからの癒し、回復、変化の歩みです。

 

 彼らの目は開かれました。

 「すぐそばに主がおられる」ことが見えるようになりました。それまでは、すぐ近くにイエス様がおられても、イエス様の教えに反することばかりをしてしまっていた。イエス様がすぐ近くにおられても眠っているという状態でした。

 マタイ26:36の弟子たちの姿は、イエス様がすぐ近くで十字架への祈りをささげているのに眠る姿でした。

 しかし、弟子はイエス様が天に挙げられた後、聖霊が注がれると、驚くべきことに「祈りの人」に変化させられました。神との対話の人になりました。

 

 祈りの人になれば、必然的に、自分たちの歩みの中に神の御業を発見できるようになります。

 

 祈りによって目が開かれるからです。

 

 祈りの中で経験する聖霊の満たしというのは、驚くべき力があります。壁を壊していくような出来事が起こります。ローマの兵隊コルネリウス使徒ペトロの出会いをこの1か月私たちは見てきました。

 二人はお互い全然知らない赤の他人でしたが、祈っていました。

 二人に主が幻を与えられました。これも聖霊なる神。見えない神が満ちてくださったことによる不思議な業です。信仰によって、祈りに報いてくださるお方であるということが彼らにはよくわかりました。信仰の父アブラハムにも、神はご自分が報いを与えてくださる方。信じることに対する報いですが、報われる方であると教えてくださいました。それが先週水曜日の祈祷会でご一緒に見た箇所でした。

 これらのことの後、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」(創世記15:1、旧約18)

 目の前で出来事が起きていきます。

 祈りをささげていくと、目が開かれていくので、主の御業が見えるようになります。

 

 祈っていないと、目の前で出来事が起きても素通りです。

 奇跡が起こっても、それが心に残りません。弟子たち以外の人の心には、祈りによって見えてくる世界ではないものが見えます。自分たちのそれまでの文化とか、先入観とか、思い込みとか、こうあってほしいとかそういうことです。

 だから、この使徒言行録を受け継いでいく共同体。すなわち祈っていた共同体だけが、この奇跡に気づき注目できたのです。

 

 ペトロとコルネリウスの出会いは、私たちにとっては新しい時代の幕開け。奇跡の中の奇跡。現代までつながる業。異邦人伝道から、全世界への伝道への幕開けです。二千年後の私たちへのつながりが見える歴史的な大事件です。

 しかし、主の業を信じない人たちにとっては、おそらくローマの百人隊長コルネリウスが変な集団に洗脳されて、大変な状態にいたって人生捨ててしまった話にうつるかもしれません。

 しかし、実際は歴史的な大事件です。現代では世界人口の31%にクリスチャンは到達しています。23億人です。そのためには、ローマとユダヤとの出会いがなければなりません。イエス様を信じるということがユダヤ文化を抜け出さなければなりません。百人隊長コルネリウスユダヤ人ペトロとの出会いがなければなりませんでした。

 

 私は大阪ですごい人に出会いました。

 祈りの人です。その人は目が常に輝いていました。高齢者ですが、高齢者じゃない。常に前を見て成長しておられました。

 主の御業に出ていく。これから自分に与えられる使命はなんだろうっていつも探し、自分をささげたいって思っているのがその態度、行動からありありとわかる。

 その人を一言で表現するなら「祈りの力を知っている人」でした。

 というのも、その方はオルガニストなのですが、オルガンの練習に来られると、おそらく私が見ている限りでは1時間ぐらいはお祈りをしていました。その人の姿を見て、ある人は「あんな神がかった信仰は私はなれないし、嫌」ってはっきり言ったクリスチャンがいましたが。

 その人は、祈りの力がわからない人でした。

 それも無理もない。信じるものの力って「霊性」です。霊って神に向かう方向性です。その方向性があらわれるのが祈りです。祈りのスタンスがその人の信仰の力のすべてです。

 なんでそんな祈りの力を知っているのかって、祈って応えていただいたという出来事がなんども与えられたからです。お二人お子さんがおられましたが。大変な病を皆負ってしまっていたのですが、なんとかそのお子さんのために小さなときから祈りをささげつづけて、その病に対する解決の道が与えられたという経歴をお持ちでした。

 だからもう、骨身にしみついているのです。「祈りで乗り越えるんだっ」て。

 

 で、オルガニストって大変なわけです。集中をささげつくすのですから。大変だからこそ、祈りつくしておられました。

 

 世の中で起こる出来事、試練。課題。難問しかありません。私はこの世のことは全部満たされている幸せって言い張っている人だって、主イエスという本質の本質とは全然であっていないことがあります。人生の中心を知らないという、超ハードモードの試練です。

 全員、難問と向き合っているようにしか見えません。

 

 今日ご一緒に読んだ箇所なんて、使徒たちにとっては最低最悪の出来事が起こる最中の話です。ユダヤ人たちが、キリスト者たちが捕らえられることを喜んでいる。ヤコブが剣で殺されてしまう。すべて迫害。ヘロデ王は、民衆が喜ぶと思って、つぎつぎとクリスチャンたちを血祭にあげていく。それをしているのがユダヤの信仰者たちです。神様を信じていると言っている人たちですよ。

 その被害にあってしまったペトロ。もはや絶体絶命。牢屋にとらえられてしまっていまいした。誰がこの状況からペトロを救い出せるのでしょうか。誰もいません。

 この人が死んでしまったら教会の礎が崩されてしまうということです。イエス様はこのペトロを礎にして教会を建てるとおっしゃってくださっていました。

 私も言っておく。あなたはペトロ。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で結ぶことは、天でも結ばれ、地上で解くことは、天でも解かれる。」(マタイによる福音書16:18、19、新約31)

 ここで教会は終わりか。そんな出来事です。

 しかし、主が願われていることは確実に実現します。ペトロは救い出されます。主の御業が起こるのです。

 

 そこでクリスチャンたちがしていていたことは「祈り」です。

 こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神に献げられていた。使徒言行録12:5、新約232)

 この祈りに応え、主のもとから不思議にも天使が遣わされます。

 すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロの脇をつついて起こし、「急いで起き上がりなさい」と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。使徒言行録12:7、新約232)

 ペトロ自身はこの出来事をどのように思っていたかというと。

 それで、ペトロは外に出て付いて行ったが、天使のしていることが現実のことだとは分からず、幻を見ているように思えた。使徒言行録12:9、新約232)

 

 で、「ハッ」と気づくのです。

 その時、ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、私を救い出してくださったのだ。」使徒言行録12:12、新約232)

 主が近くにおられる、それを聖霊が注がれて良く見えるようになっていたペトロ。しかし、それでも、新しいことを発見するかのように、主が救ってくださったことを悟るのです。驚きです。

 主の御業とともにあるということは常にこういうことです。

 驚き、驚き、驚き。見ていなかったことに気づかされて、自分の殻を抜け出す。

 

 誰が牢に入れられた人の鎖が手から勝手に落ちるように落ちて、牢屋の牢が開くと思いますか。ペトロが救われるようにって祈っていた、祈りの人たちだって、こんなの予測不能です。もっと現実的に、ヘロデのところへキリスト教シンパの有力者が話をつけて解放してくれたんだとか、そういうことなら人間が予測可能かもしれません。

 しかし、鎖が天使によってほどかれるなんて。。。

 驚天動地。激震。。。

 ペトロのために祈っていた人たちには神の歴史的な御業が見えてくるわけです。神がご自分の業を完遂されるためには、ここまでの出来事を起こしてくださる。ウルトラCです。ラクダが針の穴を通る救いの出来事が起こってしまうのです。

 

 信じる人たちには、それを見えるようにしてくださる。

 

 皆様の前にある課題って、八方塞がりのような難問ではないですか。

 はじめの教会にとっても、使徒たちが処刑されていくなどということは、そのような出来事でしかないです。しかし、主の御業は継続されるのです。

 しかも、主の御業を信じる人たちの心はそれによって意気消沈してしまうのではない。

 出来事が起こるたびに彼らの信仰の確信は強められていく。確かに私たちをお守りくださるのだと。

 

 ローマ皇帝ネロの時代に、円形競技場でライオンにキリスト者が食われるという大迫害が起こりました。ローマで起こった火事の責任をキリスト者に押し付けたわけですが。棄教すれば命は助けられました。

 しかし、キリスト者たちはキリストを捨てるのではなくて、ライオンに食われる方を選びました。

 主の御業は、イエス・キリストの思いは、何があっても貫徹されると信じたのです。

 主は時宜にかなった助けを与えてくださる。私たちが世を去るときには、そのときに必要な助けを与えてくださる。世を去るときではまだないときには、牢をさえあけてくださる。

 いずれ世を去るのですから、その時に、本当に大切なものを大切だって抱きながら死ねる人は幸いです。

 

 主の僕たちのために、主は必ず逃れる道をご準備くださっている。

 あなたがたを襲った試練で、世の常でないものはありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。(Ⅰコリント10:13、新約306)

 

 この世で命を失わざるを得なかったその僕たちに、必ず道をご準備くださっていると信じることができます。

 

 命が絶たれるその瞬間に、主がご一緒してくださるという、信じるものにしか見えない奇跡を主は皆様にお見せくださるでしょう。十字架の血によって清められ聖霊が注がれて、聖霊の宿る宮とさせられ、主の神殿とさせられているものたちにとっては、あらゆる出来事が主がご一緒してくださる出来事。

 世の人たちから見たら、迫害され殺されていくその人を見て、まさに地獄と表現するしかないような現実が展開するかもしれませんが、本人たちにしてみれば、主がそこにおられる、主の守りの中で、主に抱き留められていく。その主の御手が見える出来事となる。

 

 主の御手はずっとはじめからあったのですねと驚くのです。

 

 祈る人たちというのは、主の御手をやがて見る人たちです。祈っている人どうしでは、お互いの言葉と態度の中に、主イエスの姿が見えます。アーメン。