信仰を抱くと見るものが違ってきます。
なぜなら、ご自分の人生の中にイエス様の御業を見るようになるからです。
これが今日のお話のキモです。イエス様の弟子たちの歩みの核となるところです。
これまで教会に導かれた道のりも「実はイエス様が導いてくださっていたのだな」と見るようになると、全然重みが変わってきます。私に御言葉(聖書)を伝えてくれた現勝田教会の牧師鈴木光。私にとっては彼は同年代の男ですが「信仰の父」のような存在です。
彼を通して神様が私に「聖書を読みなさい」と教えてくださったことを思います。
イエス様の御業を見ようとすれば、一杯見えてくる。
それが信仰によって物事を見るということ。目を開くということです。神様を知るということです。
宗教改革者カルヴァンのジュネーブ教会信仰問答の第一問には、「人生の主な目的は何ですか」と記されています。答えはシンプル。
「神を知ることであります」と記されています。
何が起こっても、何があってもそれが例え牢獄に収監されることであっても(使徒パウロの場合)、神を知るときとなる。
まことにこの問いと答えは、聖書そのものと言えるでしょう。神を知るために我々がいる。神がどのようなお方なのか。私の人生にどのようにかかわってくださるのか。それが見えるようになるということ。
信じるとものの見え方が変わるのです。
そうすると、神様が私たちをどのように扱ってくださっているのかということが見えるようになる。例えば、今教会の早天礼拝で読んでいるエフェソの信徒への手紙(2:10)の中には信じるものたちは「神の作品」であると記されています。だから、善い行いを行って生きていくようにできていると。
この「神の作品」であるという自己理解こそが、信じることによって見えてくるアイデンティティです。聖書を神の言葉と受け止めたときに、はじめて「あぁ、そうだったのか」と受け止めて行ける内容です。信仰による視野(ビジョン)というものを問うことは、自分たちが神様にとってどういうものであるのかというアイデンティティを問うということと密接につながっています。
また、神の作品だから「良い行い」を義務として行うのが当然だというような視点も、これはミッション(使命)を意識させる内容となります。
なので、神様の心である聖霊が注がれて、神様のこころがわかるようになったパウロの手紙を読んでいくと、彼には信仰を持たない人たちには理解することも受け入れることもできないであろう視野(ビジョン)を持っているということが見えてくるのです。それゆえに、神のもとでの自分のアイデンティティも自分のミッションも意識しているということがわかります。
神様が見せてくださるビジョンというものは、尊いものです。信じることがどれだけ力強いものか見ることができるようになるようにパウロは教会のために祈っています。
心の目が照らされ、神の招きによる希望がどのようなものか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか、また、私たち信じる者に力強く働く神の力が、どれほど大きなものかを悟ることができますように。・・・教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。(エフェソの信徒への手紙1:18、19、23、新約346)
エフェソの信徒への手紙を読んでいると、神は天地創造の時から信じるものたちを選び出して満たそうとされていたんだという視野まででてきます(それはエフェソ1章に書いてありますので興味のあるかたはどうぞ)。
神様があなたを選ばれたということがいかに偉大であり、かけがえのないことであり、それは主の御業に基づいたもので、主イエス・キリストにおいて満ち満ちたものとして証をたてていくためにあなた方が選ばれたということだというのです。神様が祝福してくださるということはリミットレスです。無限です。限界がないし、申命記28章の祝福の約束言葉を読むと、あらゆる領域から祝福がやってくることがわかります。
だから、神が徹底的にあなたを全領域で満たそうとしてくださる神がおられるのだから、良い業を行わなければならないと記されている。
満ち満ちて満たされつくしているだから、良い行いをするのは当然だと思えるようになる。
神の作品だから。あなたは徹底的に満たされているのだから、人を満たす働きをしなければならないということなのです。
ビジョンという言葉は現代的な言葉で、聖書にはなじまないものではないかというご指摘を下さった方がいます。確かに聖書にはカタカナでビジョンとは書かれていません。
しかし、聖書の中には信仰による視野の話は驚くほどたくさんでてきます。
一番わかりやすいのが、使徒たちの歩みを描いた使徒言行録です。使徒たちが見ているものというは、聖霊降臨以降変わりました。彼らが聖霊降臨の前まで味わっていたのは、自分自身の罪深さとか、至らなさとか、愚かさとかそういったものでしかありませんでした。どれだけキリストの前に失敗し続けたことでしょうか。だから、その時にはさもしい思いしかないので、自分の失敗や人の失敗や、人を罪人だと責めることや、誰が一番偉いとか、そういった豊かさとは程遠い感覚しかもっていませんでした。
しかし、神の霊が内側に住むというアイデンティティをいただいてから、すなわち聖霊降臨以降は違います。彼らの言葉は変わりました。特にわかりやすいのが、使徒言行録3章のペトロたちの言葉です。足の不自由な男を前にして発した言葉です。
ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」(使徒言行録3:4、5、6、新約213)
彼らが中心的に見ているのは、自分自身の罪深さではありません。自分自身の罪深さばかりに注目しているのならば、「わたしを見ないでください」と言うことでしょう。
そうではなくて、彼らは「私たちを見なさい」と言ったのです!
彼らは何を見ているのかというと、「私の内側に働く神の御業」を見ていたのです。
「神の御業が私を通してある」と信じていた。
神の御業の一部と自分がされているということを見ているのです。キリストの体の一部と自分がされていると見ていたのです。
見ているものが全然違います!!
彼らが見ているビジョンというのは、「キリストが私の体を通して働く」というビジョンです。これが視野という意味でのビジョンの変化です。
さらにビジョンという言葉は広範囲に渡る意味合いを内包しています。夢とか、幻とかそういった意味もあります。使徒パウロはあるとき夢の中で幻を見ます。その幻というのは以下のようなものでした。
その夜、パウロは幻を見た。一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」とパウロに懇願するのであった。パウロがこの幻を見たとき、私たちはすぐにマケドニアに向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神が私たちを招いておられるのだと確信したからである。(使徒言行録16:9、10、新約240)
使命を確信させる幻。神様の御業がこの人たちに起こる。そのことを主が願われていると確信する幻です。それらは多くの場合が、「苦しむものたちの叫び」に主が応答される形で実現していく幻です。
主の救いの業が起こる時。つねに民の叫びがそこにあることが聖書を通して見えてきます。新約聖書のマケドニア人の叫びもそうですが、イエス様の時代から1500年前の出エジプトの時代にも主が民の叫ぶ声に応えられて救いの業が起こされました。
主は言われた。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った。(出エジプト記3:7、旧約88)
民の苦しみに神が必ず応えてくださる。
民が自ら叫ぶときに。主は泣き叫ぶ子供たちの声に必ずお応えくださる。
これが神様のお姿だと聖書を通してわかります。
私たちの白銀教会の祖とも言えるマッケンジー先生のお姿を見ても、見えてきます。日露戦争の従軍遺児の救済の視野をもって、親を亡くしてしまった子供たちを見ました。「神が必ず民の叫びに応えてくださるのだ」と信じ、信仰によってこの事業をはじめられたのです。すなわち、自分自身に神の御業があると信じて、事業をはじめるのです。
そこには「神の視野」と、「民の叫び」とそれを信じる「マッケンジー先生の信仰」があったことを思います。
そのように主がなさろうとされていることを見ようとして信じて、信じるがゆえに助けが備えられて、カナダ合同教会が支援しました。
この教会を通して主がどのようにこの地域の方々に接してくださるのか。それを見ようとしたこころみが、私が2022年に提案させていただいたビジョンです。一ページ目に本筋がまとめられています。
これは全世界のメソジスト教会の伝統をただまとめて、金沢にあてはめたものにすぎないとも言うことができます。私なりの言い換えです。
ですから、メソジストのスピリットそのものです。
ただ私が徹底的に強調しているのが、やはり「早天礼拝」です。個人の敬虔さ、パイエティです。それが整っていないと何をしていても力が底抜けしていく感覚をクリスチャンにさせていただいてからの20年感じ続けています。
つまり、自分がちゃんと信仰によって物事をみていないと、なんにも見えないんだなということ。見ていても見ないんだなと痛感しています。
しかし、信仰によって見るとものは劇的によく見えるようになる。主の御業を発見することができるようになる。
今私たちがとり組まなければならない内容は、ビジョンにまとめた通り、伝道と子どもたちの教育と高齢者の福祉、障がい者の福祉です。
それは旧来のメソジストの伝統そのものでありますし、そこには主イエスが一人一人の叫びと向き合っていかれるそのお姿が見えてくるという内容になるわけです。さらに私たちは主がどのようなお方なのかを実際に体験し、祈りを深めることによってもっともっと大きなものさえ見えるようになるのではないかと思います。
教会のメンバーの一人一人は満ち満ちた主の体の一部となるとエフェソの信徒への手紙には記されていますので、主の心が満ちてくるとその働きは限界のないものとなるでしょう。
海外に出て行って、海外で苦しむ人の苦しみにさえも触れようという心の偉大さを得ることになるのではないでしょうか。
マッケンジー先生がそうでしたね。
なんという偉大な信仰の遺産を私たちは引き継いでいることでしょうか。
主が与えたもうものが鮮明に見えてくる。そのような次元に足を踏み出すためには、本日掲げられている御言葉の通りに、内側で呻く聖霊の祈りというものに耳を傾けなければなりません。
すでに私たちの内側に住んでくださって私たちが成長するためにもがいている。
この私の中に主がおられることを信仰によって見る祈りが大切です。
そうやって祈りの中で目が開かれると、確信が強められ、主がおられる確信が与えらえると、皆様が歩むご自分の歩みのいたるところに主の御業が発見され、主がおられる確信が強められると、また一歩足どりを前に進めようとし、一歩進みだせば、つぎつぎと主の御業が発見される。
偉大な夢が、幻が主の心によって示されることでしょう。アーメン。