2023年5月21日 春の特別礼拝説教   使徒言行録5:27~42 「辱めを受ける喜び」 石井和典

 春の特別礼拝にお越しいただき、感謝いたします。

 私たちが礼拝生活で最も大事にしていることは「感謝」です。常に祈りの中で、感謝をささげつづけます。神がすべてを与えてくださっていることを聖書を通して知ったからです。

 神の力を知って、信じて、神のご好意に対して目が開かれて、今まで見ていなかったものを見る。それが私たちの生活です。見えなかったものが見えるようになります。

 聖書の中にこのような言葉があります。

 信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するものです。ヘブライ人への手紙11:1、新約405)

 信じるということは見えないものを見るということですよ、ということです。

 さらに言い換えると、「聖書の中に神の約束がある」ので、約束通り自分の人生か変えられていきます。神の思いが私の人生に実現していく様を見ていきましょうね、というのが私たちの歩みということなのです。

 

 だから、超エキサイティングです。楽しい。期待感しかありません。

 

 もしも、最低最悪な現実が目の前に展開されても、それでも「神の業がここにあり」ということを見てきたのが、最初の教会の姿でありました。

 私は心から初代教会の心を慕い求めて、そこに立つことを追求したいと思っています。

 

 世の中は、俺に従えと言わんばかりの力が、押し寄せてきます。金に従え、社会に従え、企業に従え、その他もろもろ。小さな個人の間でも、「私に従え」とばかりに何かを押しつぶして無理矢理に従わせようとするような力があります。

 常に、心を蹂躙するものが現れるのです。

 

 2000年前の社会は宗教社会です。宗教がそのように個人の心を蹂躙するものとして迫ってきました。イエス様の直属の弟子たちを使徒と呼びます。最初の最初の弟子です。その弟子たちは、常に試練の只中にありました。イエス様という圧倒的な力に従おうとすると、その逆というか、イエス様に従わない力による攻撃をことごとく受けることになりました。しかも、迫害してくるのは本来分かり合えるはずの宗教者でした。彼らから強く迫害を受けました。

 とりわけ、熱心だ、聖書に忠実だと言われているファリサイ派の人々や律法学者から。

 

 今も昔も、本当に重要な真芯をつくような歩みをしようとすると、どうしても、逆反応の反発や攻撃が襲ってきます。

 一人の人の小さな命を守ろうとすることは当たり前のことだと思うのに、グローバル化した社会の中で主が見ておられる視点を意識し、その通り生きようとしている人たちは、強大な国家権力との戦いの中に巻き込まれるということが、今現在世界中を見ていればわかることです。

 

 どうしても、強い力が一人の個人を飲み込んでいくことが起こります。

 

 しかし、その一人の人に強烈に力を与えるのが信仰の歩みです。

 

 特に使徒の筆頭のペトロさんの姿を見ているとそれがわかってきます。

 

 カファルナウムにあるペトロの姑の家の近くにある銅像は非常に力強くて惚れてしまう。そんな銅像が建っています。

 だけれども、エルサレムにある鶏鳴教会にある銅像は真逆な感じがします。イエス様を三度知らないと裏切ったあとに、鶏が鳴いたということを記念した教会です。

 

 ペトロの裏切りが記憶されている場所です。その場所にある銅像というのは、非常に弱々しいものです。こちら側がその物語の顛末を知っているからそのように見えるのかわかりませんが、力無く言い訳をしているような状態。罪を犯している状態。

 そこにはパワーが全然感じられないのです。

 その落差たるや、同じ人物なのかと思わせられます。

 

 しかし、その落差があるのが人間なのです。

 超弱いときがある、しかし逆に、超強くもなる。

 

 本日の箇所に記されているペトロの姿は、超強い姿です。

 ユダヤ教の最高機関である、最高法院の真ん中に立たせられ。目の前に有力な最高法院の議員から脅しを受け。完全に包囲されて、パワーバランスから言ったら負けの状態。

 そこで全くひるみません。

 

 イエス様に対して犯した罪の責任がユダヤの民にありとペトロははっきりと言い切ります。

 あなたが罪人だよと言い切ります。ユダヤ教の偉い人たちに向かって、「あなたが問題だよ」と言い切ります。

 

 ペトロが伝えている福音の調べは、すべての人が主の御前に罪を犯しているというものですので、ユダヤ教組織であろうが誰であろうが変わらなかったのです。「あなたが問題だよ」なのです。

 

 最高法院に対しては、イエス・キリストを直(じか)に十字架に追いやったものとして罪の指摘を変わらず行ったわけです。

 

 まことに、神がペトロの前におられるように、ペトロは行動していった。

 ただ、それだけの話なんですよね。

 

 聖書って難しい難しいって、良く言われるのですが。

 書かれている内容で、重要なことで、これは理解できないっていうこと、はじめは一杯ありますが。

 何もこむずかしいことを理解できる人たちだけに語りかけるというか、シークレットな情報が、理解できる人たちだけに向かってというようなものでは全くありません。

 記述は難しいと感じるかもしれませんが、内容は超簡単。

 使徒ペトロにおいて展開されていったことも、旧約聖書を通して、ずっと語りつくされてきたこと以外ではありません。ペトロのように力をいただいた人たちというのは、いなかったわけではなくて、旧約聖書を読んでいくとわかりますが、ずっとペトロと同じように力をあたえられた人たちというのはいるのです。

 というのも、神様が聖書を通してお伝えくださっている信仰の道というのは、全く難しいものではないからです。

 

 極端な言い方をしますよ。最初のエデンの園から人類にとって重要なことは、「まことに神を神とする。」「自分が神のようにはならない。」ということだけだからです。

 

 ペトロがなぜ力強いのかというと、「神を神としている」からです。神を恐れ、神の力の中に生きている。だから神の力がみなぎっていくのです。他の力は全くこわくはないということです。

 

 ペトロが自分で言っている通りです。とてもシンプル。

 ペトロと使徒たちは答えた。「人に従うより、神に従うべきです。使徒言行録5:29、新約218)

 

 ただ、これが本気で、心のそこから、すべてにおいて、すみずみに渡って貫徹しているかというと、全然貫徹できないから弱々しくなるということです。

 

 その貫徹する力が与えられるということはどういうことかというと、来週皆で祝いますが、ペンテコステという聖霊降臨を経験し、神の心が自分の内側に徹底的にということを経験しないといけない。

 

 聖霊降臨を聖霊の洗礼、聖霊バプテスマと言いますが。バプテスマのもととなっている動詞バプティゾーというのはギリシャ語で、「浸す」という意味です。浸りきって満杯で充填しているというようなことです。

 

 この満杯で充填してという状態に人間はなっていないんですよね。

 人間のことを聖書は器として表現する箇所もあるのですが。それは非常に的を得ている表現だと思います。

 私たちは心の内に何をいれているか、何を盛っているか。それは自由であるし、その盛り具合というのは人によって全然違うのです。

 

 例えば信仰だって、ちょこんとちょっとだけ端っこにある人と、それが全部になっちゃってボーボーと炎が燃え立っている人というか、ガソリンがファイアーしているような状態になっている人と、全然違う感じであるわけですよ。

 

 満たしつくされていく人たちの姿を見ていると、特にペトロなんて、聖書に自分の失敗のすべてが記されてしまうぐらいに、自分自身の弱さに打ちのめされて、それがオープンにさせられちゃっている人ですよ。

 その弱さへの自覚を通して、主イエスのご愛と赦しとが徹底的にペトロの人生に行きわたっている状態ですよね。主イエスのケアを全般において確信しているのです。だから強い。

 

 自分自身に失望して泣く経験が必要なんですよ。

 あの十字架の裁判が行われていく現場で、ペトロは裏切ります。

 カイアファの官邸で、もし私がイエス様を知っているなら、呪われても構わないって言ってしまいます。それは本心でなかったかもしれませんが、その場を逃れるために絶対に言ってはならないこと、言いたくなかったことを言ってしまったのです。

 

 そりゃ泣きますよ。。。

 

 イエス様のために命をささげます、イエス様のために死にます。

 

 教会の牧師たちってみんなそう思っていると思いますよ。

 しかし、実際にはどうでしょうかね。そういう現実が迫ってくると、、、ペトロと同じように逃げてしまうでしょうね。それが人間の弱さですよ。

 しかし、その弱さを痛いほどに痛感させられて、その弱くみじめな、罪人の中の罪人である私。私こそが、イエスを裏切るものであると知った時に、泣く。

 

 その涙の中で、隅々にいたるまで聖霊が浸透してくるのです。そこで強烈に強くさせられるのです。

 

 だから、もう、失敗も恐れなくていい。

 何が起こったとしても、神の業のために、自分を神にさしだせば。主イエスのケアを経験する場なのです。すべて。

 

 もうね、ペトロは徹底的にケアされたのです。すみずみまで。あの洗足木曜日にイエス・キリストによってその足を洗っていただいたのは、それは象徴的な意味だけじゃなくて、彼の歩み全体を通して、十字架のイエスと向き合う中で、彼はすべてのすべてを洗われていったのです。十字架の血が、主イエスのご愛が最終的に彼のすべてを清めていくわけですが、それを受け取ったのですね。

 だからですね。何があっても彼には主イエスがケアしてくださるという確信があるので、もう何も恐れるものなどないわけです。何しろ復活のイエスが、復活のお力をもってつつんでくださって、実際に復活させてくださるのですから。

 

 イエス様は、最初にペトロと出会ったその場所にまでお越しくださるのです。イエス様が死んでしまって、それでももう希望はついえたと思って、復活の約束もすべて忘れて地元に帰って、再び漁師として歩もうとしていた。そこにイエス様が現れてくださるのです。

 

 私たちは、人生をすべてやり直すことができます。

 傷は残ります、事実は消えません。

 イエス様を裏切ったということは消えません。

 しかし、その出来事は、イエスが徹底的に触れてくださった出来事へと変えられる。

 地元にガリラヤに失望して帰ったという恥ずかしい出来事も、しかし、そこでこそ主が現れてくださって、岸の向こう側で食卓を準備してくださっていたのです。そこでこそ、恥ずかしいそこでこそ待っていてくださるのです。

 

 私が最初に召されたそのポイントに、帰ってきてくださってそこで出会ってくださる。

 

 一人一人の人生と物語ってものすごく重要ですよ。

 どこで出会って、どう召されて。どうかかわってくださったのか。失敗して、失敗して、失敗つくして、挫折して、つまづいて、ダメになって。しかし、それでも、それでも、それでも復活する!

 キリストの力がいかに偉大であるのかが、私の人生のすべてをもって示されていく。

 

 イエスの名のために受けた辱めであるなら、イエスがその辱めを通して物事を起こしてくださって、命が噴き出すものとしてくださる。

 このように記されています。

 それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えずメシア・イエスについて教え、福音を告げ知らせていた。使徒言行録5:41、42、新約219)

 

 私は、復活の命に対する期待感しか今ありません。

 

 ものの見え方が変わればすべて変わる。辱めが辱めじゃなく、イエスの業があらわされる場となる。信じるものたちにとっては、そうなるしかない。ペトロの姿を見ればわかります。

 

 ペトロの人生、超恥ずかしい失敗が一杯。でも、命があふれ出している。

 ペトロ自身が命のいずみにしか私には見えません。主イエスの命があふれ出している。

 こんな風にさせていただけるのですね。幸せです。アーメン。