2023年5月28日   ペンテコステ礼拝説教 使徒言行録6:8~15 「聖霊が注がれるとどうなるのか」 石井和典

 ペンテコステの日に与えられたのは、「聖霊」です。聖霊は見えない神。聖書で語られている神様が、今現在私のところで働かれる。その神を聖霊というのです。

 だから、今ここに働いておられるということに我々が目を開くということが重要です。

 皆様が聖書を開いて、理解力が深められ、新しい洞察が与えられる。それは見えざる神の御手。聖霊のお働きであるということです。

 

 聖霊が働かれると、聖書が信じられないくらい大きなパワーを皆様に与えるということに気づいていく。毎日の生きる糧となって、その糧を受けないとはじまらないという状態に至ります。しかし、逆に言うと、聖霊を受けているのだけれども、全然燃えていないというかパワーとなっていない食事となっていないということもありえます。

 

 何より、聖書の記述を見ていると、ステファノの顔を見れば、聖霊に満たされていることがわかります。彼は「天使の顔」のようであったと。その顔に光を宿しているのか闇を宿しているのか、それはおもてに出てきて、わかるようになります。

 

 ペンテコステの日というのは教会の誕生日と言われます。この日がなければ、教会は伝道できなかったでしょう。内側に力が与えれて、内側から噴き出してくるような圧力が高まるということは、人間の熱心さによっては不可能でした。

 神の力によって満たされて、それではじめて、主のミッション(使命)に従うことができるのです。

 というのも、イエス様が弟子たちにお命じになられたことは、人間の力ではどうにも実現不可能な内容だったからです。

 今一度教会に与えられた、使命を読み上げます。

 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスの指示された山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:16~20、新約59)

 

 大宣教命令と言われる箇所です。伝道命令です。弟子とし、洗礼を授け、聖書を教えよと。全世界に出て行って。これはすべてのクリスチャンに与えられた、教会に与えられたものです。その具体化として私は牧師として歩んでいます。自分への語りとしてここを聞いたので、召命を受けたことを確信し、教団で試され、試験を受けて、教師とさせていただいたわけです。この言葉が召命の言葉です。

 しかし、これをその言葉のとおりに実現していくためには、内側にパワーがなけれ無理です。何しろ、「全世界に出ていかなければならない」のですから。

 

 外側に爆発的な力を放って、飛び出していくためには、聖霊の満たしがどうしても必要です。すべての教会が、また教職者が、ペンテコステを必要としています。

 

 この箇所が先日の中部教区総会で田口前議長が引用され、説教がなされていましたが。田口先生はこの順番の通りにいくと信じていた。洗礼が授けられ、教えが受け止められて、弟子化が起こるだろうと。しかし、その流れさえも、こちら側に主導権がなく、不思議な主の御業として、導きが起こるとおっしゃっていました。

 こうなったらこうなると、私たちはその筋道を決めたがるのですが、決してその通りにはならないわけです。すべての主導権が主にあるからです。

 そして、この箇所には非常に重大な示唆が込められていますが、それを受け止めるのも、本当に後の時代になってからという場合も多々あったことでしょう。

 例えば、「疑うものがいた」けれども、その疑う人々に対する処方箋として、主は伝道命令をお出しになったのだと理解する読み方です。これは青山学院大学の教授であられる森島豊先生が、先日の中高生修養会で中高生に教えてくださった内容です。

 しかし、それは実は現代の今ここにある私たち。この教会が聞かなければならない内容だと強烈に認識することができます。

 伝道に向き合わないことによって、不信仰に陥る。

 ということが起こります。

 

 恵みを受け止め始めると、その変化の波が津波のように押し寄せてきます。

 聖書の言葉が光を放ち始め、新しい洞察力を次々と与え、生活そのものを変えていく力として迫ってくるからです。

 すると、当然ですが、顔つきが変わるのです。

 

 極端な言い方ですが。

 聖霊が注がれることで顔つきが変わったステファノがいる。

 そのステファノの顔を「天使の顔」のように見えたと、聖書記者は表現しました。

 天使のようとは一体どういう意味でしょうか。天使の代表格としてあげることができるのがケルビムです。ケルビムの存在って天使を説明するには一番わかりやすいと思います。シンプルです。

 神のご臨在を守るものです。

 なぜなら、ケルビムは契約の箱の蓋の上に、安置される像として作られました。神殿の奥の奥、至聖所の中に安置された契約の箱、その蓋の上に二体ケルビムの像が安置されます。

 その上に主のご臨在がと信じられてきました。

 ケルビムとは神のご臨在、神の栄光に集中し、礼拝するものです。神を指し示すものです。

 

 ステファノは、妬みの渦まく、人間のどす黒い殺意の中で、ひたすらにケルビムのように、神を指し示す存在としてここにあったということです。それが「天使のような顔」なのです。かつてのステファノだったら、この妬みの感情に押されてしまって、自分もその反発というか、同じように暗ーい顔をして下を向いたことでしょう。

 

 ここには、ステファノをはめるため、買収され、口裏を合わせ、裏でひそひそ話がなされて、殺そうと決められていたという恐ろしい闇が渦巻いていました。

 そのことに、賛同していたのが、使徒パウロ、かつてのサウロでありました。。。この時には、パウロは目が開かれておらず、何が主がお喜びで何が主がお嫌いになられるのか。主がすぐそばにおられるような、あのケルビムのようなステファノのような状態じゃなくて。自分の心とか、人々がどういうかとか、私がついている団体がどういうかとか、私の周りの人たちが何を言うか。私の仲間は誰か、こっちに味方したら、自分が有利になるんじゃないか。あの人をはめるためにはどうしたらよいかとか。そういうゴミのような話が心の中心にあったのでしょう。彼は後にふりかえって、それらがゴミだったと断言しています。

 

 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。(フィリピの信徒への手紙3:5~8、新約356)

 なるほど、彼は心をまっすぐにひたすらに神を指し示すということ、自分が得ているものではなくて、キリストを得ることによって、そのキリストがすべての宝であり、そのすべての源であるキリストを指し示すために、生き方から何からすべてをささげてしまった人となった。だから、それ以外のことはみんなゴミのように見えると言っている。

 

 こんな極端についていけないとおっしゃられるかもしれません。しかし、これこそが「天使のような顔」ということの指し示す内容です。聖霊が満ちるということの具体的な結実の姿です。

 

 神殿の内側にどうして、ケルビムが描かれる必要があったのか。それは、主が教えてくださる究極の在り方、導いてくださる究極の姿、それを指し示しているのが、天使の姿であったからです。だから、主の導きに従った者たちというのは、最終的には天使のような、「神を指し示す」だけに特化していくようになるのです。

 

 死とか試練に直面して、私たちはあらゆるものを捨て去って、本質に集中しなければいけなくなります。

 

 ステファノがどうしてここで死ななければならないのか。ステファノが死ぬということも主の導きです。これは主のご意思、主によって与えられた試練です。

 しかし、このステファノの姿によって、後のクリスチャンのこころの内側に、強烈に信じるものの歩むべき道が、天使のようにさせていただけるその道が、強烈に指し示されるのです。

 

 天使のように天を見上げつつ、石打にあっていくステファノの姿というのは、多くの人の心の中に強烈な爪痕を残すものだと思います。

 私も、聖書を読み始めて、使徒言行録に到達して、強烈に強烈に心に刻まれていった内容であったことを覚えています。

 そして、多くの人が、ステファノの姿にキリストを重ね合わせながら、涙しつつこの箇所を受け止めたのだと思います。

 

 同時に、神を信じていると言っていながら、実のところ、神を指し示すよりも、自分たちが守ってきたものを守るために奔走し、また自分たちを守るために、ステファノを敵に仕立てあげ、偽証人をつくり恐ろしいことに、神が造られた神の主権の内にある、ステファノの命を握りつぶしていくという、聖書の律法に完全に反しながらも、自分は神に仕えていると思うものたちの攻撃にあっていったのです。

 

 不平不満とか、自我とか。そっちのほうが心の中心になってしまうこと。

 良く起こります。しかも、それに自分が気づかないという。

 しかし、それらは実は周りの人たちには目に見える形でオープンにさせれられています。

 顔つきを見ればわかるのです。天使のようか否かです。神を一心に指し示しているケルビムのようであるか。心を乱して、乱れた心で混乱を持ち込んでいくのか。

 

 ペンテコステ聖霊降臨。そこから教会の爆発力が。全世界への伝道が。

 

 不思議ですよ。人間の心って本当に自由です。

 ステファノのように、まっすぐに主に向かうか。

 そうではない別の何かに心を向けるか。

 それは完全に皆様の自由です。

 その自由の方向性を踏みしめていくと、顔がつくられる。まっすぐ主を見上げたい。

 

 私たちの後輩にも、私たちの家族にも、私たちの次の時代の人たちにも、全部見られてますよ。

 

 聖霊の満たしを。心の底から。私がケルビムのように、私たち教会が天使のようでありますように。

 

 未来の目指し、純真に本質を見極めようとして厳しい目で見ている若者たちがここに希望を見出し、ここから社会変革が起こりますように。

 

 一人の人の命が主のこころによって守られる社会が形成されますように。アーメン。