神の言葉は時代が滅んでもなくならない。
だから、我々は主を信じる限り、となりの人に「兄弟姉妹」と呼びかけることが「永遠に」できる。
主を信じる人々は皆「兄弟姉妹」です。
自分を迫害してくる人々に対しても言うことができること。
それを証明したのがステファノという、教会の初めの殉教者でした。
彼ら現在のイスラエルのライオン門の近くで処刑されたと言われています。
ステファノにとって大事なのは、自分が迫害されているかどうかということではなく、「神の言葉が、神の歴史が先行して実現していく」という、「神の力」でありました。
神のお力と神のご経綸、ご計画がすべてに先立っているということを受け止めて。
歴史もすべて主が導いてくださったこと。これを信仰によって受け入れる人たちとは必ず相互理解のポイントに建つことができるはずだと信じること。
それが、迫害してくるものに対して「兄弟姉妹」と呼びかける意思表明です。
聖書の信仰に生きることができるということ。
これ以上に幸せなことはありません。
歴史との連続性を見出すことができるからです。
あらゆる民と相互理解に至ることができます。
有史以来のはじめの人とも言えるアブラハム。
有史といって確かめられる現在の時間感覚の歴史のラインにあると確定できるのはアブラハムから。
しかし、聖書はあのアブラハムと私とのつながりを見出すことができるものです。
私もあのアブラハムの契約の中に生きていると言える。
私から全世界への祝福の泉が流れ始めるであろうことを信じ抜くことができます。
神の約束の言葉は、創世記の12章にはっきりと記されています。この約束を確認する毎日です。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民とし、祝福しあなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福の基となる。あなたを祝福する人を私は祝福しあなたを呪う人を私は呪う。地上のすべての氏族はあなたによって祝福される。」(創世記12:1~3、旧約14)
この言葉は、イエス様を信じることによって、アブラハムの信仰に接ぎ木されて、私たちクリスチャンも受け継ぐ言葉となっています。
広がりをもって全世界の方々と、あらゆる時代の民とつながることができます。
このステファノの説教は極めて重要な説教です。教会が教会として歩むということがどういうことなのかを指し示しています。
それはすべて「聖書の御言葉にもとづいて」であります。
彼の言葉一つ一つを見ていただければわかりますが、アブラハムにおいて起こったことの背景にはすでに主の約束の言葉があったのだということを指し示しています。
『あなたの土地と親族を離れ、私が示す土地に行きなさい』と言われました。(使徒言行録7:3、新約220)
ステファノは自分のことを弁明するためにこの説教を語っているのですが、それは、聖書の歴史を語るところからはじめられるのです。だから、自分とこの聖書とが一体となっているということです。ここに力がある。古代からの力が流れ込む秘訣があります。
言い換えると、主の語りに対応して、アブラハムが自分の歩みをすすめたのだという信仰者のあり方を、ステファノはふりかえっているのです。主の語りに対して応答する民として全世界、全時代の民はつながるのです。
ステファノを追いつめようとしている人たちの動機というのはそもそもどういうものだったのでしょうか。それは先週見ていた箇所に記されていました。
また、民衆、長老たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院に引いて行った。そして、偽証者を立てて、次のように訴えさせた。「この男は、この聖なる場所と律法をけなして、一向にやめようとしません。私たちは、彼がこう言っているのを聞きました。『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。』」最高法院の席に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔のように見えた。(使徒言行録6:12~15、新約219)
律法への冒涜と神殿に対する冒涜。言い換えると、2000年前の当時のユダヤ教のあり方に対する冒涜なんだということです。
この問題で死刑に値するというこということを皆で通していく。
その背景にあるのは、自分たちが作り上げた体制に対する保身というものがあった。また、自分たちの正しさが崩されることを受け入れない人々の頑なさがありました。
このようななかにあって、ステファノは考えていることもすべて主に向かって、主から受けた恵みを語りつくす方向に向かっていきます。それが先週ご一緒に確認した「天使のような顔」としてそこにいたステファノの姿でありました。
周りの人が、組織がどういうか、そういうことよりも、主の約束がどうであるかです。そこにひたすらに立ち続けつつ、主に向かう姿はすべての兄弟姉妹に理解されると信じて、迫害者に向かって「兄弟」と呼びかけることができたステファノがここにいます。
大丈夫。兄弟姉妹は必ず理解してくれます。何があってもです。その兄弟姉妹が全世界にいます。目の前の人に迫害を受けてもです。
神の言葉、神の約束、神のご計画。そこに立って、それが中心になっていくとここまで力強くなれるのです。
たった一人で敵が大量にそこら中にという中に立つことができるんです。
全世界、全時代、天に見方がいるからですよね。
ステファノのことを殺そうとしているその人たちが騒ぎ立てているそこに一人。
2000年後の私たちに響く言葉を発する。
力強い。
これこそがクリスチャンの姿。
聖霊に満たされていく。ステファノの姿にあこがれを覚えます。
天とつながり、天から力を受け、すべてのクリスチャンたちとつながる。
今この私とつながる。
この時、肉の目に見える現状は全く闇に覆われて、「多勢に無勢」。
ステファノの命は握りつぶされ、言葉は地に落ちていくように見えた。石が投げられ、ステファノの身体がつぶされ。
しかし、永遠に響き渡る言葉がステファノの口から、それを受け取る2000年後の私たちがいる。それを喜んでくださる主イエスの姿を私たちはみることができる。
イエス様のお姿。神様のお姿は肉の目をもってしては見えません。心ある人にしか見えないようになっているのです。しかし、聖書を通して、信仰を働かせると、見えるようになります。今申し上げましたように、ステファノの姿を見て憧れをもって、信仰に生きようとするそのクリスチャンの姿をみて、主イエスが喜んでくださる。
聖書を通して認識が清められていくと見えるようになるのです。それが、聖書の力強さです。
暗かった目が、清められ、ものが見えるようになる。
ものが見えるようになった人を通して光が発せられ、その人自身が灯となる。イエス様がおっしゃられた通りです。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。もはや、塩としての力を失い、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、灯をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家にあるすべてのものを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かせなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、天におられるあなたがたの父を崇めるようになるためである。」(マタイによる福音書5:13~16、新約6)
ステファノは光によって人々を照らしています。灯を消そうとする。ステファノを殺そうとすることが、いかに愚かであるのか、歴史を一つ一つ語りつくして、示そうとしています。
神様の御業が聖書に啓示されて、聖書に啓示された神様の御業というのは、この私の上で実現しつつあるのだということを。
聖書の歴史をまっすぐ語り、その歴史の中で、イエスによって導かれて、その歴史の一部に私がいる。
イエスの名によって、イエスを語るものとして、この私の肩にもその歴史がのっている。
この私に対抗するということは、神の業に対抗するということになるのだとステファノは語っていきます。
聖霊が注がれることの力。ステファノを通してわかってきます。
聖霊というのは、今ここで働かれる神様です。
だから、今ここに古代の昔から語られているその言葉のすべてが私のところで結実し、私のところで神様が御言葉を守ってくださっているということを、私自身の歴史として語りだすのです。
聖書の歴史の連続性の中にこの私がいるという確信と自覚と命です。
ステファノの説教の最後の部分を先に読んでしまうと、ステファノが何を目指して、歴史をふりかえっているのかということがわかります。
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。一体、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって告げた人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となったのです。あなたがたは、天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。」(使徒言行録7:51~53、新約222)
聖書の歴史を本当に受け止めて、そこに力を見出して、実際に今働かれる神の力としてその主の御腕の内側を生きているのならば、恐ろしくて、ステファノを殺すという決断は何があってもできません。
神の名のもとに神の働きの中で、一人の人を復活させるという働きをしているそのステファノを見て、その命の主のお働きに恐れを覚えていくはずです。
しかし、彼らは、自分たちの団体が皆で考えることのほうが、聖書の啓示や、聖書が指し示す歴史よりも大事になってしまっていました。
神のご計画、神の力、神の知恵、全能の主のご存在が、今ここでという感覚からどこか違うところに至ってしまっていたのです。
現在ここで、ステファノとともにおられる聖霊なる神の姿は見えないのです。
4週ほど前に、イスラエル旅行に行かせていただいて、今回一番心に残ったのが「クムランの遺跡」でした。イスラエル再建国の1948年の前年1947年に、遊牧民の少年が洞窟に眠っているイザヤ書を見つけました。それは現在の私たちが持っているイザヤ書とほぼ変わらないものでありました。それを書写しつつ持っていたのが、クムラン教団という教団で、エッセネ派だったと言われています。このエッセネ派の一人として洗礼者ヨハネが出現します。洗礼者ヨハネですから、洗礼がその特徴なわけですが。エッセネ派の人々が生活していた場所を訪れると、洗礼槽のようなミクベと呼ばれる沐浴する風呂のようなものが一杯ありました。その土地は、渇いた土地なのですが、雨季になると川ができていくようなワディと呼ばれる水無川の途中にあり、ある時期には水が流れ込み、そこで沐浴できるような場所となります。
洗礼者ヨハネの存在というのは、イエス様の道備えをするものとして、非常に重要なわけですが、その洗礼者ヨハネに関連するクムラン教団の遺跡がイスラエル再建国の前年に発見されるなんて。
偶然なのか。。。偶然とは思えない。
いや、むしろ歴史というのは必然であって、このステファノが確信しているように、神がこの私をご自分の一部としてくださるという、私たちと神様とは一つであるということを証明してくれるもの。
だから、本当に安心していい。私たちは神の御業の一部。
そのように受け止めたとき、ステファノと私ともまたつながっていることが見えてくる。
ステファノの天を一心に見上げる姿。神のご計画を信じ、その心によってまた力づけられる。
私たちの信仰の歩みの力を、「主の力」をすべての民と味わっていきたいと思います。アーメン。