2023年6月11日 主日礼拝説教 子どもの日・花の日礼拝 使徒言行録7:17~36   「80歳からの使命」石井和典牧師

 80歳から使命が与えられる。それが聖書が語る内容ですね。世の中の発想とは少し違うでしょう。世は80歳になったら引退と考えるのでしょうか。

 しかし、そのような引退は聖書の中にはありません。神様が召されたら、80歳であろうが用いられるのです。どうしたって私たちは統計的な思考方法というか、多くの人がこうだからというか。そういう枠組みからなかなか逃れることができないでいると思います。

 モーセの存在というのは大きすぎるほどに大きいです。モーセは、イエス様をさししめす型、モデルであると考えることもできるので、このモーセを私たちは無視することはできません。ユダヤの文化に生きる人など、このモーセこそすべてと考えている傾向さえ強く感じます。律法をモーセ五書とも呼びます。

 モーセの姿を見ていれば、主の召しに関して、年齢で考えることは決してできません。

 彼がリーダーとして立ったのは80歳の時だからです。120歳までその働きは続けられるのです。イスラエルの歩みは。荒れ野の40年といわれます。約束の地に入るまでの40年間の厳しい生活を80歳の男性が、リーダーとして最低最悪の厳しい試練を乗り越えていくのです。

 

 私の妻の父である田名尚史牧師も、先日天に召されましたが、高砂熱学工業で定年まで勤め上げ、その後、東京神学大学に入り、ヘブライ語ギリシャ語を学びはじめました。

 それが遅いとか、早いとかはありません。ちょうどその時。良い時。神の時があるのです。

 コヘレトの言葉を思い出してください。

 天の下では、すべてに時機がありすべての出来事に時がある。(コヘレトの言葉3:1、旧約1022)

 我々の常識というのはどんどん覆されていきますよね。

 例えば、脳みそに関しての知識も、私が10代のころは、小さなころに発達した脳はそのあと変化しない。細胞が死んでいく一方であって、老化によって悪化していくしかないというような考え方でしたよ。今は、全くそんなことはなくて、ドンドン発達し、変化すると考えることができるし私もそう信じています。細胞が増えているか否かということよりも、新しい神経ネットワークは常に新しく創り出されていて、人間は常に変化し、成長するということがわかってきています。

 だから、先日の祈祷会でも、皆さまで確認しましたが、神様が120歳という齢を定められたのだから、その齢が達成されるその瞬間まで学ぶこと、習い事をすること、成長することを絶対にやめるなと申し上げました。

 80歳から新しい使命が与えられるなどということは、人間の常識では考えられないと言いたくなるかもしれませんが、聖書の常識では。

 そんなの当たり前。

 モーセがそうでしたという世界なのです。

 

 というか当たり前の話ですが、年を取れば取るほどに、判断のスピードと正しさというのは精度を増していきます。というのも、それまでの人生でいやなほどに人間は失敗を重ねてくるからですね。

 失敗を重ねると、瞬時に的確な判断をすることができるようになりますよね。

 

 モーセも40歳の時には、同胞が苦しめられてている姿を見て、イスラエルの民を助けるためにエジプト人を打ち殺してしまいます。最低最悪の失敗です。それで彼は人生を失うわけです。エジプトの王室で育て上げられたにもかかわらず、突然追われる身となってミディアンの荒れ野での生活がはじまる。しかし、彼にとってはこれが訓練の時。

 荒れ野をリーダーシップをもって導くリーダーとなるために通過儀礼であったとも言えるでしょう。

 若さと、義憤から来るどうしようもない衝動にもとづいた、短絡的な行動による失敗。

 どうも回復不能な問題。そういったものを抱えつつ、しかし、使命に生き始める。

 

 そういうモーセが、荒野において同胞が罪を犯したときに、すぐに裁きの鉄槌をくだすのではなく、神様の前にいって共に懺悔するような性格へとかえられていくわけです。

 正しい判断力というのは、経験を重ね、失敗を重ねたから、40年も荒野で修行の生活を重ねたから出てくる内容だと思います。

 そのような判断の精度と、スピードと正しさというのは、年を重ねたからこそです。

 

 だから、80年という主からの召しまでの期間というのは。

 浪費でも、空虚な時間でもない、準備の中の準備。訓練の中の訓練でありました。

 

 主によって導かれることによって、その空虚に見えたものが、最強に生きてくる。

 失敗は、全部生きる。

 

 それは、しかし、「主の使命に立った時に」ということになるでしょう。

 

 ミッション。ミッション。ミッションです。ミッションの皆さまと礼拝をささげる幸いを日々感謝しています。

 

 ということは、人は、主から与えられたミッション(使命)にまことに立った時に、今までマイナスだと思ってきたような事柄さえも、秩序が与えられ、主によって用いられる人となるのだということです。使徒パウロさんはキリストを知ることのあまりのすばらしさに、自分が学んできたことが、また家柄とかそこらへんのものが全部ゴミのように見えるという風に言いましたが、それはキリストの福音を知って、その恵みとの比較においてゴミのように小さなことであると言い切ることが大事なのでえあて。

 しかし、彼が経験してきたことというのは、全部生かされて用いられるという結末をたどっています。彼がゴミのように小さなことだと言ったことも、使命のために生かされてしまうということです。

 私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのない者でした。(フィリピの信徒への手紙3:5、6、新約356)

 新約聖書の大部分の手紙がパウロによる書簡であり、彼の神学的な洞察力が非常に優れたものであることがうかがえる内容です。一貫性があり、後の私たちが理解し、神学としてまとめることができる内容です。そういった書物を生み出すために彼のヘブライ人としての知的素養が最大限に生かされたということは間違いありません。

 

 使命に立つと、その人が経験して来たことが、非常に強烈に良く生かされて、神様のご計画の中で不思議と用いられてしまうということが起こるのです。本人がいかにゴミだと感じていようともです。

 

 しかも、そのすべては、「民の主に対する叫び」、すなわち「祈り」にもとずいてものごとが起こっているのだということがすごく大事な内容としてしめされます。

 それがモーセがどのように神様からの召しを受けたのかということに関して記されていることからわかります。

 モーセに、神様が「これがお前のミッションだ」と語られる時に、そこには「民の叫び声」があり、その祈りに私が応えるということ。その実現があなたが召されるということの内容なのだと語られます。

 『私は、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神である。』モーセは恐れおののいて、それ以上見ようとはしませんでした。その時、主はこう言われました。『履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地である。私は、エジプトにいる私の民の苦難を見届け、その呻きを聞いたので、彼らを救うために降って来た。さあ、今あなたをエジプトに遣わそう。』使徒言行録7:32~34、新約221)

 

 神様というお方は恐ろしいお方です。そして、本当に心の底から愛するお方。このお方が世界の中心なので、私の命は尽きない。幸せは尽きない。

 

 神は、「嘆き叫ぶ弱いものの声に応えて、歴史を変えられるお方」です!!

 

 そのために、モーセを召されたのです。そのために、イエス様が送られたのです。

 私たちが自分で自分の罪の問題をどうにもできないから、主イエスが十字架におかかりになられたのです。愛を求めても愛を発見できず、まことの主に至る道に帰っていくことができない真実を求めるものたちのその叫びに応えてキリストが来られてるわけですよね。

 

 世の中には、祈りならぬ祈りとして、叫び続けている人が沢山いますよね。歌も、文化も、小説も、物語も、その叫びが聞こえてくる。その叫びに応えて、主はイエス様を私たちにお見せくださるわけですよね。

 そのお方に帰ると、あぁ、ここがホームだったんだなと、もうそこから動きたくなくなる。

 

 主は嘆き叫び、主にだけ望みを置くものの祈りに、やがて応えられるのです。

 早天礼拝で哀歌を読んでいますが、エレミヤの叫びがそこから聞こえてきます。エルサレムが力を失ってどうしようもなくなってしまっている現実。

 信仰者たちが信仰の内実をうしなって、瓦解し破壊されていく、そういう共同体について嘆いている祈り。

 しかし、その嘆きの祈りは聞かれ続ける。

 だから、イスラエルは回復し、エルサレムは回復される。

 それが今現代の私たちにも見える形で迫ってきている。それがエレミヤの祈りであるということ。それは聞かれる。歴史は変えられるのです。

 

 聖なる主の思いに従って、変えられる。

 

 モーセが召しを受けたときに、「履物を脱げ」と言われました。

 

 自分がこれまで背負ってきたそのすべての重荷を降ろせ、罪も汚れも、自分の癖も、性格も、人生も、すべて脱ぎ捨てて、主の心のまえに行けと言われたわけです。

 

 聖なるお方の御心を悟るためには、イエス様がおっしゃられたように自分を捨て自分の十字架を背負って従わないと、主が何にご自分の心を向けられているのかは見えません。

 それから、弟子たちに言われた。「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。(マタイによる福音書16:24、新約31)

 

 履物というのは、当時の人たちにとってみたら、一日の汚れのすべてがしみ込んだ汚れの中の汚れという感覚です。だから、足を洗うという行為は、奴隷が行うことになっていた。イエス様のあの洗足木曜日というのは、汚れの中の汚れに主であり師である方が触れてくださったということなのです。だから、癒されるわけですよね。主がすべてのすべてに触れてくださっているということです。

 

 モーセに対して、不思議な話ですが、炎の中から語ってくださって。燃える柴の中から、燃え尽きない神の情熱を味わって、彼は使命を受け止めるのです。モーセ自身の心の中に、燃える炎があったのかないのかわかりません。しかし、主はモーセが民の苦しみに寄り添おうとしていたその心を選び取って、ご自分が民に触れるための器としてくださったのです。そして、確かにモーセによって救いが。人々に与えられるべきすべてが、そして私たちキリスト者にとっては、キリストの救いを指し示すものとしてモーセの救いが見えてくる。

 

 葦の海、紅海をわって、その水の中を通ったのは、洗礼を予表するものであったのだと、洗礼式の時に読み上げますよ。我々は救いに至る道をどう歩むのか、全然わからなかったのですが、しかし、この洗礼という道を通して、主の導きの中へと救いの中へと招き入れられています。不思議とすでに道が整えられていて、私たちは心を開いて、それを聞きなおせばよいようになっています。

 

 ステファノが語る、この信仰の筋道を示す説教が、私たちと確かにつながる。私たちは聖書に記されたすべての恵み、資産を自分のものとして受け継ぐことができる。ステファノが石打にあって殺されてしまうその瞬間でありますが、このステファノの命が私たちとつながる。私たちの内には力が与えられる。聖霊によって。アーメン。