2022年12月4日 主日礼拝説教 マタイによる福音書26:36~46 「ゲッセマネの祈り」 石井和典

 イエス様の心を知るとほっとします。

 イエス様は神様と離されることが「死ぬほどに悲しい」とおっしゃられているからです。

 ひと時ではありますが、十字架という裁きによって離されてしまうこと。関係性が壊されてしまっている状態に「一時でも」生きること。それがイエス様にとっては「死ぬほど」悲しかったのです。

 

 私たちは神との関係を自ら壊すことをし続けて、その裁きを受けて呪われるのは当然でありました。それを全部主が背負ってくださるのが十字架ですから。

 神の裁きを受けて、イエス様が、ひと時神様から離されてしまうのです。。。

 それをお引き受けなさることは。。。

 受け入れることができないこと。死ぬほどに悲しいのです。

 

 私自身はろくでもない存在ですよ。

 しかし、その存在と関係性を結び続けること、そのことに喜びを見出してくれた存在。それは今までに何人もいます。もっとも身近な人が母であり、父でありました。こんなろくでなしが何度親を裏切るようなことをしようとも、帰ってくるのならば、受け入れるという覚悟が父と母からは溢れだしていました。それは愛そのものです。

 

 その愛、そのもの。最たるお方。それがイエス様であることが伝わってきます。

 関係性が途切れることが「死ぬほど悲しい」お方なのです!

 愛が失われることは、受け入れることがおできになられないのです。

 このお方が世界の中心の中心。

 そのことを、ゲッセマネの祈りにおいても発見することができるのです。このことに気づける人たちは最高に幸せだと思います。

 

 この主イエスのご存在を知って、目が開かれると癒しがおしよせてきます。

 イエス様のご性格に気づくと癒しが押し寄せてきます。

 

 「あぁ、わたしは素直に神に帰ればよかったのだな」と。「イエス様は、決して私を拒否されることはなされないんだな」と。

 

 眠っている弟子たちを前にして、血の汗を流すようにして悶え苦しみながら祈りをささげられた主イエス。その主イエスの心に浸っていれば良かった。

 

 でも、みんな眠ってしまっているのです!主イエスの心は聖書を通してすでにしめされている、しかし、眠っている。目を閉じている。スルーしている、意図して、また意図せず無視しているのです。

 

 毎日起きて、牧師室に来て、10分黙想をします。何もしない。

 しかし、何もしないことができずに、いろんな煩悩や、俺が俺がというような思いとか。肉体の反応をもとにした、こころの暴走とか。そういったことが、主に聞くということよりも優先されている自分というものを意識せざるを得ない。

 つまり、イエス様のことを無視して、「眠っている」。そんな私がいることに気づかされます。

 私は、ゲッセマネの園に実際に観光で行きました。しかし、そこで、単なる観光に興じてしまって。イエス様が血の汗を流した場所にいっても「へぇ」ってな感じで、「いやぁ、なんだかすごい樹齢のオリーブの木で一杯だなぁ」と思うだけ。

 イエス様が本当に大切にされようとしてしていたこと、その痛みに寄り添うことなどできていませんでした。

 

 もう、一事が万事そういう感じで、しめされてから遅きに失して、あとからいろいろ気づかされて、自分の中で変化が起きていく。

 

 本当に大切なことのまえで眠っている。しかし、眠っている自分が起きる時がくるのです。

 この福音書を書きながら「眠っている」自分を憐れんでくださっていた主のまなざしがあったんだなとあらためて気づいたときに起きた弟子たちのように。

 弟子たちは、眠っていた自分を偽ってこの記事を改変することもできました。「眠っている」を削除して自分たちの汚点を消すこともできました。しかし、絶対にそれはできなかった。なぜなら、その自分たちの愚かさの後ろ側からあふれ出してくる主イエスの心を知っていたからです。そうです、主イエスの光は私たちの愚かさの後ろ側からあふれ出してくるということです。だから、私たちは主イエスの心の前に、嘘偽りをもたず丸裸になることができるわけですね。

 

 何より、ゲツセマネという場所にイエス様がこられたということが非常に重要な内容です。ゲツセマネというのは「オリーブしぼり」という意味です。オリーブの実がつぶされて、その種から油が絞り出されます。

 自分の命をつぶして、つぶされたがゆえに、命がそこから注ぎだされるという。

 そのことのために、イエス様がゲッセマネを選んでお越しくださったのだということです。

 ご自分の命がつぶされて、命が注ぎだされる。

 

 私たちが眠っている、目を閉じている、スルーしているそのすぐ傍らで、主イエスは私のために命を注ぎだされている。

 

 

 ゲツセマネ。その傍らでは、起きているべきじゃないですか!

 

 でも、一時も目を覚ましていることができないのがリアルな弟子達です。

 そんな真っ暗な状況を抱えていながらも、イエス様はお怒りになられません。

 弟子たちを徹底的に愛し、受け入れる。その覚悟がおありなのです。

 何もわかっていない弟子の傍らで、その使命を先に全うしてくださって、そこから注ぎだされる命をすべて与えようとされている。

 まさに、父として、親として弟子たちにすべてを与える覚悟で、淡々とご自分の業をなしていかれる主がここにおられます。このお方は、私たちを覆いつくしてくださる。

 罪の現実を覆い隠してくださる。そのようなお気持ちしかないことがわかります。

 

 もしも死ぬ気の祈りをささげている傍らで眠ってたら、普通怒ります。

 しかし、イエス様は違う。どこまでも私たちの父。親。

 

 覆いつくし、覆い隠し、私たちを救うためにすべてをお考えくださっている。

 

 私はゲッセマネの園で、「でかいオリーブだなぁ。へぇ、そりゃイエス様がお祈りされた時代からだもんな」などと観光しているのではなくて。

 イエス様が私を覆いつくすために、私の上に私を抱きしめてくださっている。その心の中で憩うべきだったと思います。それがゲツセマネでの過ごし方でしょう。

 

 使徒たちは、目を覚まして祈っていなさいと、三度も言われました。私はイエス様の御前に回数としては考えられないほどに多く、目を覚ましていることができずに、眠りこけてきたことを思います。

 使徒たちよりももっと罪を犯し続けて、それに気づかずに、しかしそれでも主イエスは私に対して御声をかけてくださっていて。

 そのおかけくださっている御声に全くまた気づかないで10年、20年。

 そして、やっと気づいて、朝の祈りをささげている。そんな現実です。

 3度どころの裏切りじゃないのです。365日×20年×1日3回。21900回以上、こうすべきだと気づきながらも、知らないそぶりをして、イエス様を無視してしまっていた。

 今、その時を回復するために、一日三回の感謝のメモをノートに記して主にささげています。

 

 あろうことか、命をささげる祈りをされているこのゲツセマネでイエス様が経験されることは、ユダによって「売り飛ばされる」ということでした。

 あのエリヤの時のように火を下してその場にいるものたちを皆滅ぼすということもできます。

 しかし、そうはなさいません。

 なぜなら、愛する弟子たちが、よちよち歩きで歩み始めようとしているからです。信仰などない。信頼などどこにいってしまったのか。ユダは金でイエス様を売り飛ばす。そんな現実の只中で、主イエスはひたすら静かに黙って神が御心を実現なさることを信じておられるのです。

 ひたすらに信じるもののところで奇跡がおこります。

 主の心に自分自身のすべてをゆだね続けるのです。そこで、十字架の御業が起こって行きます。

 主のお力は全能です。主のご計画は完璧です。闇のように見える十字架であろうが、この十字架から光が輝きだします。だから、処刑の道具が希望のしるしとなると思ったでしょうか。しかし、まさに十字架こそ私たちの命です。 

 

 

 絶対的な逆境を覆し、そこから光を放たれるのが私たちの神です。

 

 そのご自分の姿が現れるために、実は弟子たちの不信仰もユダの裏切りでさえも、すべてが「神の光を見出すことができるように」というものに変えられています。

 闇も影として光に使われてしまっています。

 

 裏切りが支配しているようなゲツセマネの園の状況から私たちは確かに主イエスのご愛という光を見ることができます。

 

 主イエスを見ていれば、徹底的に勇気と力とをいただくことができます。

 それは、私の最低最悪の不信仰、不従順、不義理、そういったものを通してさえも主の光が輝きだす瞬間へとやがて変えられるからです。

 洗礼を受けて私はどれだけイエス様の心を踏みにじってきてしまったことでありましょう。どれだけ多くの人を傷つけてきたことでしょうか。しかし、私がそのような愚かな自分を認めて、心底認め切って、人の前で語りだすときに、そこから命の光が輝きだすことを体験するのです。

 ここに描かれているゲッセマネでの恥ずかしい、愚かな使徒たちと同じように。

 

 イエス様の力は恐ろしいです。それは愛の力です。しかし、真実をすべて明らかにします。

 私たちの人生は刺し貫かれます。何が主に喜ばれ、何が罪だったのかが明らかにされます。

 その中でこそイエス様の心がしめされるので、主を知り、力に満たされます。

 

 ヘブライ人への手紙に4:12にこのように記されています。

 神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。神の言葉は生きていて、力があり、いかなる両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄とを切り離すまでに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。ヘブライ人への手紙4:12、13、新約396)

 

 

 眠っていた、逃げていた使徒たち。ヨハネ以外の使徒は皆逃げずに殉教しました。

 

 主イエスがおられるという変化。インマヌエルを人生すべてにおいて体験する道。

 

 そのためには、このゲツセマネを通過することが大事です。

 イエス様が皆様のために血の滴るような祈りをささげられているのに、私たちのほうは眠りこけてきたという。それを認めるのかどうかです。

 それを認めると、人生のあらゆる場面において、悔い改めの祈りがささげられ、その現場が光を放つ場所となる。

 主イエスは、その命を差し出されています。皆様の人生の現場に主に対する裏切りが、罪が満ちていても大丈夫です。それで、主が皆さまへの救いの道を閉ざすということはありません。ゲツセマネで裏切りが起ころうとも、主イエスはご自分の使命のために前に進むことをおやめになりません。

 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「まだ眠っているのか。休んでいるのか。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に渡される。立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。」(マタイによる福音書26:45、46、新約53)

 

 大丈夫、どんな状態であったとしても、自分の人生の中の癒しが認識されれば、そこから命の泉があふれ出して皆さまによって、この地が癒されます。アーメン。