剣をもつのは、相手を打倒して、自分たちが生き残るためです。それは生存本能に基づいています。
しかし、剣を持つと、その剣によって自ら滅びる。
生存本能を最優先するとやがてそれによって滅びる。
不思議な逆説がつねにあります。
イエス様によって逆説的なことがつぎつぎと起こされます。
ゲツセマネの園に、イエス様を捉えようと兵士たちが集まってきます。弟子であり、忠実であるはずのユダが裏切りの筆頭となってしまいました。しかも、彼はこのイエス様の共同体の中で最も信頼を受けていたものでありました。その証拠として彼が会計を任されていたということがありました。
しかし、不思議なことに彼こそが裏切るのです。この人こそ裏切らず信頼をささげるであろうと思われていた人が裏切るのです。こういう逆説が、人間の現実の只中で起こってしまいます。
そして、30台前半の青年であるイエス様を驚くべきことにユダヤの兵隊たちが、恐れを抱き、武器をもって取り囲んでいきます。丸腰の青年を武器をもった兵士が何を恐れる必要があったのでしょうか。
しかし、人々の心の中には恐れがあり、武器を持ちました。逆に、その兵隊たちのことをイエス様ご自身は一切恐れてはいません。
すべて神の御心が実現するためであるという心の中で、イエス様には平安がありました。
最低最悪の裏切りの現場、ゲツセマネの園に、主おひとりが平安(シャローム)をもたらすことがおできになられました。
というのも、イエス様は主なる神に心のたけのすべてを打ち明けておられたからです。その主のお姿が私たちに迫ってきます。このお方の後を追うようにして祈ればよいことがわかるのです。ゲツセマネの園というのは、私たちにとって癒しそのものの場所です。
血を流すような全身全霊の祈りをささげていくと、「主の御心がなるその現場」と、「全能の父なる神がなさる御業への信頼」を持つことができるからです。
主への信頼をささげるための戦いが目の前にあるのだということがわかります。
私たちの前には、様々な敵が現れます。
しかし、最強の敵とはなにかというと、結局のところ自分自身です。なぜなら、自我に勝利して主を求めることができれば、実際の現実における敵は敵でさえないからです。
主イエスさまのお姿をみていただければわかります。ここに出てくる兵隊たちは「敵の中の敵」です。そう私には見えますよ。イエス様を武器をもって包囲するのですから。
しかし、イエス様はこの人たちを敵とさえしていません。
主なる神の御心が実現されるためにこの人たちが今取り囲んでいると理解している。戦わずして、この状況のすべてに勝利し、主の御心が実現する様を見ているのです。
我々の戦いは、実は自我の中で、「主がどのように私にかかわってくださるのかを見る」戦いをするということなのです。それが見えていない人は、恐れや生存本能によって平安を失い、それを他者にぶつけることによって争いを生んでしまいます。
その時に、大切なのはしっかりと本物の武器を持つということです。
まことの武器を持つのです。
それは祈りです。祈りという武器をもって戦いの中に入って行くということです。
祈りの中で心のすべてをうちあけ、主に助けを求めるのです。
ここですべてを打ち明けていないと、霊的な戦いで常に敗北します。
私たちの小さな祈り、ひとつひとつにおられる主のお姿を拝見するのです。これが勝利です。
先日のアドベント祈祷会でも、福岡恒忠兄の証しを聞いて、神様が明確に福岡兄の叫びに応えてくださったのだということを私は目の当たりにしました。奥様である晴美さんはすでに天に召されていますが、その召される直前に、「死の準備が病のゆえに、できていないんじゃないか。」
そのことに対する悲しみを福岡兄が抱いておられて、それを私のところに祈りにお越しくださったのです。しかし、だれも晴美さんの心を何かを言って、どうにかして向けることなどできません。何よりも目の前に病という壁があるように思います。
しかし、福岡さんが、涙の祈りをささげておられました。その祈りに主は明確に応えてくださって、晴美姉の口を通して「信じます」という声を聞くことが許されたのです。
目のまえの出来事に打ちのめされます。どうしていいのかわからない現実が迫ります。
しかし、そのときでもいつでも永遠に変わらず、我々は「信じます」という戦いの只中にあるのです。
我々の肉体の洞察力は、信じますではなくて、私の目には「神の御手が見えないように思います」というような意識で止まってしまうのです。
しかし、そこを突破し、信仰によって信頼を主にささげるために、この世での試練があります。
信仰者って不思議ですよね。神様のまえで打ち組みをするような戦いを経験しつつ、祈りの中でもがきつつ、もがいてもがいて祈り続けて、そこでさらに、主によって屈服させられて、主の御前に、低くさせられます。
外されることをもって、回心して主に従うということをしていく。
エサウという積年の恨みを自分に対してもっているであろう兄。ある意味敵であるその人を前にして、最も重要な身体的な戦闘能力のすべてを奪われてしまうわけです。これだけは奪わないでくれというような内容を神によって奪われます。
そこで、闘争(戦う)だけではなく、逃走(逃げる)することさえできない状況に追い込まれます。
しかし、大丈夫。そこで主は出会ってくださいます。確かに出会ってくださいましたよね。
ゲツセマネの園で、そこに裏切りがあり、弟子たちは眠ってしまっていて、兵隊が取り囲んでいる。もう、すべてが終わりに向かうような現実でしかありません。
このイエス様が兵隊に包囲される姿を目の当たりにして、弟子たちは蜘蛛の子を散らすように散ってしまうわけですよ。
ペトロという弟子の筆頭。「命を捨てる」とはっきりと主イエスのために宣言し、信仰のあゆみの中心を歩んでいるかのような見えるペトロ。
そのペトロでさえ、三度イエス様のことを知らないと言ってしまうのです。
これは、究極的な裏切りでしょう。。。
しかし、大丈夫。
彼らの不信仰、背信、裏切りの向こう側に、光が見ます。主イエスはそのようなお方です。安心してください。私たちのダメさ加減の向こう側に光をお見せくださるお方です。私たちを勝ち取ることだけは何があっても諦めにならない方。
イエス様だけは、死んでも、絶対に私たちの救いの道を諦めることはありません。
イエス様だけは、諦めない。
我々の力で剣を抜いてもなんにもなりません。
我々の力が前面にでてきて、それで何かがよい方向に進むというわけではありません。
それを私たちは歴史を通して学んできています。人間の力が大きくなればなるほどに、滅びに向かう秒読み段階ということを学ぶことができます。
私たちの力が前面にでてきてしまって、それによって破綻へと向かうとき。もうだめだというところに向かうとき。その背後に主イエスの心が見えてくるのです。
剣を抜くことで自分たちを守ることができるのではないかと思いたい。
私が誰かのためにまことをささげること、実際に行動を起こすことで何かが守られると信じたい。
しかし、もっとも大事なものは、私たちのまことではなくて、主イエスのお心です。そのお心が見えてくるということ。
主は天の父への信頼をもって、すべてをなしていかれます。信頼がその中心につねにあるので、剣を自ら抜くようなことはない。むしろこのようにおっしゃられます。
そこで、イエスは言われた。「剣を鞘に納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。私が父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書いてある聖書の言葉がどうして実現されよう。」(マタイによる福音書26:52~54、新約53)
主イエスが、叫んでおられるようにさえ見えてきます。
聖書の言葉の実現。
聖書の言葉の実現。
聖書の言葉の実現。
神の心の実現。
だから、食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ10:31、新約307)
私たちの愚かさが露呈されても、神の栄光があらわされます。
弟子たちが裏切っても、神の栄光があらわされます。
兵隊たちが恐れにとらわれて、丸腰のイエス様に襲いかかろうとも、神の栄光があらわされます。
食べることも飲むことも、すべて主が用いてくださるように。そのように信じて歩むのです。
私はずっとどこかで勘違いをしてきてしまいました。どこかにクリスチャンの歩む道は「滅私奉公」だよねと思っている心があった。自分を捨て自分の十字架を背負ってというのは、無理して自分のあり方を変えていって、それでなんか「全部捨てた世捨て人の歩み」をするべきだ的な。
しかし、それは全然違う。
食べることも飲むことも。私たちの生きるすべて。
生活を急にすべて変えるということはできないし、する必要もない。
皆さまの今のままの生活で良いのです。
しかし、そこに、主がおられること。
その只中で主がお働きになられること。
私たちの罪も咎も、私たちのすべての向こう側にキリストの姿が見えること。
それをクリスチャン自身が気づいて、そのイエス様のご存在を私の心の中で鮮明に、明確に認識していくこと。
すでにおられる神様の御業に、神様のお姿に、私自身が身体を重ねるようにして、そこにすでにある主の御業をみて、その主に私たちがあわせるときに。
眠っているように見えた主の力の源泉が、私たちの内側から溢れて流れ始めるということなのです。
主が全能で、インマヌエルなるお方であられること。いついかなる時もご一緒してくださっていたこと。それは、私にとって最初の癒しの記憶である出来事と結びつきます。
母が私の足をさすってくれていたこと。それは私が神経痛を小さなときから患っていたからですが。その手の背後には主がおられること。主がおられなければ、親の愛はない。
毎日毎日死ぬほど米を食い続ける私に毎日毎日、弁当を供給しつづけてくれた、その愛。生きよという主の御声があること。
すべての背後には、「主を見る」という信仰が求められていることを思います。
最低最悪の闇のゲツセマネは闇の場所ではない。そこは、主イエスの光が見える場所。
主イエスの光だけ見えれば、そこから回心が起こり。変化が起こり、命の噴出が起こり。。。
遠い昔の昔、初めの初め、皆様がおぎゃーと声を上げたその時、その時からインマヌエルなる主がおられた。だから、皆様はここにいる。
それを認識して、ダビデの詩編のようにおびただしいほどに主の御業が救いがあったことを認識し、同じように、今ここでも、これからも主の御業を経験するのか。
スルーするのか。
弟子にとっては忘れたいゲツセマネ。隠しておきたいゲツセマネ。不名誉な愚かさが露呈されたゲツセマネ。しかし、そこで!主の命の命。血の汗の祈りが見えてくるのです。
あぁ、私の歴史も傷も主イエスの心ですべて癒される。。。としか思えません。アーメン。