神様は、ぶどう園の主人です。あるじです。私たちはこの人生という農園を「収穫を得るように」と貸し与えられています。
まず大前提として受け入れる必要があるのが、「私たちは私たち自身のものではない」ということです。
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。(コリントの信徒への手紙Ⅰ 6:19、20、新約301)
これは、私たちがこれまで抱いていたものとは全く違う世界観でありましょう。
聖霊は神の霊です。神の霊が宿り、命が宿り、成長していく。成長した先に実りが与えられて行くという神の宮です。霊の結ぶ実というのは、ガラテヤ書5:22です。
これに対し、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。キリスト・イエスに属する者は、肉を情欲と欲望と共に十字架につけたのです。私たちは霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。思い上がって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。(ガラテヤの信徒への手紙5:22~26、新約343)
ここは農園で、この実りがそこらじゅうでなっている。その実りを求めて人々が集まってくる。恵み深い農園です。ここにある実りを実らせているのかということが、私たちが自分の人生を見直すポイントということです。
恐ろしいことに信じるものたちの共同体が、農園の主人が誰なのかを忘れてしまったような状態に陥ってしまうことが起こり得るのだということが今日の箇所が伝える内容です。当時のユダヤの社会が本当は、そのリーダーである祭司長や律法学者がイエス様のことを誰よりも深く理解できるはずだったのに、「イエス様を殺そう」ということが実際には起こったことでありました。
常に、主人は誰なのかということ。これが問われていることです。その主人を人間は自分の意志で入れ替えてしまいます。自分自身を主人としたり、自分を守るために主人であるイエス様を排除したり。偶像を主人としたり。お金を主人としたり。
収穫というのは、先ほども言いましたガラテヤ書に記されている、聖霊の実りでもあり。またさらに大きな視点から言えば、信仰、信頼、神に従う心でもあります。信じる人本人ということでもあります。この収穫をこそ、農園の主人(人生の主人)は求めておられるのです。
僕たちが、収穫のために(信仰をささげるために)民に対して遣わされます。それが預言者です。この預言者をつぎつぎと排除していくというのが、信仰共同体の中で不思議なことに起こります。
預言者が「神の心を思いながら発言すること」を人々は受け入れることができないからです。
人々は耳障りの良い言葉は聞きます。耳障りが良いというのは、「自分にとって都合の良い」ことです。自分のこれまでの考えに沿った言葉ならばということです。
それ以外のことは聞かないのです。
人間はみんなこのような傾向が強いでしょう。耳を意識的に開こうとしなければ、自分の思いに流れてしまうのです。
預言者たちは、イスラエル社会に対してアンチテーゼをしました。このままではダメだぞと。神を排除し、自分の思いに従って偶像礼拝的なあり方を追求していると滅びるぞとか。神様が律法(旧約聖書)で大切にされているような価値を踏みにじっていると裁かれるぞとか。
とにかく、おしなべて言えることは、「悔い改めて(向きを変えて)新しい歩みをはじめなければならない」ということでした。
自分が神の民であるなどということは思うな。神は石ころからでも神の民を創造することができる。とにかく神の力に信頼して、神の前で悔い改めて、主のお言葉に従え。
このようなことはなかなか簡単に受け入れられることではありません。そのままでいいよというのは人は簡単に受け入れるのですが。。。
自分の思いを捨てることがいかに難しいことか。
立ち返った人は、すべてがガラガラと崩されていって、主の御前に立つということに集中することができるのですが、立ち返らない人は、難しすぎるほどに難しいことなのです。
何千回、何億回言われてもおそらくわかりません。
預言者を打ち殺すということはイスラエル共同体では絶対にあってはなりませんよね。
さらに、農園で働いている人が、この農園はおれのものだと言って、自分の好きなようにしているということ。こういうことはありえないことですよね。
しかし、与えられた命を自分の思いのままに扱い、自分の思いを追求していくものは実際にはこういう自分勝手な在り方をたどっているのです。
自分の人生が「神からいただいたもの」ではなく、自分の欲望を実現するためのものと思っていたりする。
この例えを読んでも、「私はこんな馬鹿げた農夫ではないよ」と思っている。
しかし、実はこの私こそが、この農夫のようであるという指摘を主イエスから受け取ることになるのです。与えられた命を自分の好きなようにしているのではないかと。
聖書の言葉って強烈です。
この鋭い言葉が私に向かっているのだということを確信することになります。しかし、その時にこそ、最も力をもって人のありさまを全く変える力として機能しはじめます。
神様からいただいた驚くべき程に大量の恵み。
これらを、主が願っておられる方法で使うのではなく、自分の思いが達成されるために使い続けてきた。
イエス・キリストに対してどのように向き合うのか。それが、実際に自分が何をしてきたのかを指し示すのです。神様に対してどのような態度を取り続けてきたのか。
イエスを中心にして歩んできたのか。
ユダヤの民は、イエス・キリストを十字架にかけてしまいます。ぶどう園の農夫は主人の息子を殺します。
人間は神であるキリストを殺すのです。
こんなこと絶対にしないだろう。
そういう人たちが徹底的に方向を間違えて、神殺しをしてしまうのです。
すべてがここで決着がつきます。キリストをどのように扱うのかということです。
そこに私たち人間が何を大事にしているのかということが現わされてしまいます。
そこですでに主なる神の裁きが起こっています。
その裁きの言葉というのはこの箇所に記されています。
彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸し出すに違いありません。」(マタイによる福音書21:41、新約41)
ユダヤの民から、農園がとりあげられてしまって、他の農夫たちに貸し出されている状態になってしまう。
それが、今現状の状態ですね。
だから、言っておくが、神の国はあなたがたから取り上げられ、御国にふさわしい実を結ぶ民に与えられる。(マタイによる福音書21:43、新約41)
しかし、それらはやがてユダヤの民にまたかえっていきます。それがローマの信徒への手紙11章に記されている内容です。終わりの終わりの時が来る前に、キリストへの信仰がまたユダヤの民に帰っていくという。そして、それは確かに今現在2022年のこの世で起こりつつある内容です。メシアニックジュー。ユダヤ人クリスチャンが生まれ続けているのがその証拠です。ユダヤの民にとってキリスト教は邪教の中の邪教でありましたが、理解する人々がたくさん現れてきている。
イエス様が怒り狂った場面。神殿で商売をしている人たちの台をひっくりかえして暴れた。この箇所を読んで、私は正直はじめはつまづきました。イエス様らしからぬと。なかなか読めないというか、理解できないというか。
でも、今は良くわかります。
民が力を失ってしまっている状態がいかに嘆かわしいか。聖書全体を通読し続けるとわかってきますが、神に心をまっすぐに向けて、自分の思いを捨て、神の御心をとりながら祈る。そのような決意の民に対して、主は間違いなく奇跡を行ってくださって、社会自体を変革させる出来事を起こしてくださる。
にもかかわらず、そういう主の力強い御手の力を忘れて、祈りの力を侮り、祈りの宮であるはずの場所を別のことで満たしてしまう。
そういう力を失った民の姿を見て。お怒りになられているのです。
主は、涙するようにして、怒り、そしてテーブルをひっくりかえして回られたのです。
父が子に応えるように、祈りにすぐにでも応えようと待って待って待ち続けておられる主なる神。
私に聞けば、いくらでも即座に応えようとお考えくださっている主。
あの放蕩息子の父のように、遠くから子どもを見ていて、いつかチャンスがくるのではないかと何十年も待ち続けておられる、父。
帰ってこようものならば、ご自分の衣を着せ。父の権威をあらわす、指輪をはめさせ。草履をはかせ、奴隷状態から自由にし解放してくださる。
誰がどうみても、この父の子であるということが周りの人々に明らかになるようにしてくださって。
宴会を設けて喜んでくださる。
そのような父のもとに、信頼をささげて、祈りをささげて、父のこころ一つで物事ができるのだと信じ、信頼しきって、自分をささげていくものたち。
その者たちのところで父なる神の御業が行われていく。
聖書に書かれていることは間違いなく実現していきます。イエス様が引用されたこと、実現しています。
イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石これが隅の親石となった。これは主がなさったことで私たちの目には不思議なこと。』(マタイによる福音書21:42、新約41)
イエス様は十字架にかけられ、人々からは捨てられましたが、信じるものたちの心ではこのイエスの命が鼓動しています。私の内側でも鼓動し、新しい主の胎動を感じます。現在でも、この石(イエス・キリスト)が捨てられたような状態になっていて、人々がここから力を得ないで、別の何か、お金や能力や人脈に頼ってものごとをしようとしています。しかし、イエスの命の鼓動に信頼してものごとをするものたちが必要です。私たちがそのようにされて主の業を行うようにと、主が願っておられます。アーメン。