2023年1月22日 主日礼拝説教 マタイによる福音書27:27~44 「王の王、主の主」石井和典

 イエス様は徹底的に私たちが受けるべき辱めや罰や悲しみや苦しみ。そのすべてを飲みほそうとされています。それは私たちへの愛がそこで完全にしめされるためです。そのポイントにすべてがある。神の愛のためにすべてがあります。その極地が十字架です。

 

 私たちが本来なら受けなければいけなかった負の状況。裁かれ落とされ、辱められ、永遠の炎で焼かれて、その存在そのものが消失していくような。

 

 滅びのすべてをキリストが背負われました。

 

 イエス様が十字架の場面で被られるそのお姿。一目見てわかるのが、その着物がはぎとられていくということです。裸にさせれ辱められ、十字架の横木を担いでいかなければならない。

 イエス様の服が着せられ、脱がされという場面がここに記されていますが。

 十字架刑に処されるものは、一般的に、裸にさせられ恥ずかしめにあったようです。主イエスは、最大最低な辱めのすべてをお引き受けになられたのです。

 

 主イエスはあえてそのようなお姿を私たちにお見せくださったのです。このことをもって、私たちの本当にすべてのすべて。私たちが他者に対して見せずに繕っているそのすべてさえ。恥のすべてです。主イエスはすべてお引き受けくださったということなのです。だから、私たちはこの十字架の意味を悟ると癒されます。

 

 それから、ローマの兵隊がイエス様に赤い衣を着せますが、これはローマのカラーです。またイメージしているのは明らかにローマ皇帝でしょう。王の王といえば、当時の世界ではローマ皇帝でありました。その王としての立場を詐称した詐欺師である。

 

 そのことをさげすむ意味で、このようにローマ皇帝的な姿にさせたわけです。

 イエス様は、詐欺師ではありません!

 

 ではなんなのか。。。私たちの方が詐欺師なのです。。。

 私たちが詐欺師としてうけなければならなかったもの。そのすべてを主イエスがお引き受けくださっているということなのです。

 

 私たちは詐欺師。。。

 イエス様はたびたび、ユダヤの民に対してこのようにおっしゃられました。

 「偽善者よ」と。

 まず自分の目から梁を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、きょうだいの目からおが屑を取り除くことができる。(マタイによる福音書7:5、新約11)

 王でもないのに、神でもないのに、まるで神になったかのように裁く立場に立ってしまっている人間。その人間に、「偽善者よ」とおっしゃられているということです。

 ギリシャ語でヒュポクリテースと記されていますが、これは「役者よ」という意味です。ネガティブな意味での役者。。。それはすなわち詐欺師ということです。

 

 王でないのに、王の立場に立ってしまっているその倒錯から出てくる罪。

 ローマ皇帝ではないのに、この世の王のようにふるまっている、イエスよ、お前は詐欺師だ!とローマの兵隊たちはこのイエス様の真っ赤な姿をもって見せつけようとしているわけですね。

 だから、これは本来私たちが受けるべき罪でありました。

 私たちは神でもないのに、人を神のように裁いてしまっています。

  

 詐欺師となってしまっている人間のすべてを主が背負ってくださっている。それがこのローマ皇帝のように真っ赤な外套を着せられているという姿です。

 

 全部背負ってくださるのです。

 

 イエス様の前に来ますと気づかされます。

 自分が人を裁くことなど絶対できない人間にすぎないのに、裁きまくっているという。 

 自分が見えていない愚かな裸の王様であるということです。

 イエス様の共同体には「偉そうな人」はいない。「自分が詐欺師であることにみんな気づいているから」です。

 でも気づかないということが、そこらじゅうで起こっている。まだまだ、頭が高い、徹底的に泣き崩れて主の御前に罪を認めている人がいるでしょうか。

 

 自分がいかに偽善者であり、大根役者であり、詐欺師であり、そんな私はただキリストの前に涙の中泣き崩れるしかないという。そういう地点に立たせていただかないと、力が命がそこから芽生えてこない。

 

 

 神様が本当の本当にいつも見ていてくださるのは、一人の人の挙動です。

 そこに少しでも信仰に向かう姿勢がみてとれれば、主に対して心をささげて真実に迫ろうとしているその一人がおれば、その一人に対して徹底的に歩みをすすめてくださるお方であります。

 

 その証人(あかしびと)が、キレネ人シモンです。

 彼の名前はマルコによる福音書15:21にも出てきます。こちらの記述が私は本当に大好きというか、忘れられないんです。もうこういう風にさせていただいたならば、私の生きている意味がというような、涙が出てくるような記述です。 

 そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、畑から帰って来て通りかかったので、兵士たちはこの人を徴用し、イエスの十字架を担がせた。(マルコによる福音書15:21、新約94)

 

 アレクサンドロとルフォス。彼らは教会で非常に活躍した奉仕者でした。その父が、キレネ人シモンです。

 シモンはイエス様のすぐ横でイエス様の十字架のお姿を目の当たりにしました。そこにいあわせたというだけで、ローマ兵によって強要されて、十字架をかつがなければならなくなりました。この人はユダヤ人でありました。アフリカ方面から過越しの祭りのためにはるばる旅してやってきた人です。

 その人がこんな目に遭わなければいけないというのは、人生最低最悪な瞬間。

 ただ重犯罪人の処刑に関して、見物するような思いで、そこには何の心もなく、遠くから見物してやろうとしか思っていなかったでしょう。そこで捕まえられてしまって、十字架という処刑の道具をかつがなければならない。人生最低最悪な瞬間としか思わなかったでしょう。しかし、その時を主は人生最高の瞬間としてくださったのです。

 

 そこでイエス様が見えたのですから。

 

 イエス様はこの男のことを見逃しにはされなかったのですよ。この男の内側に光り輝く光を主イエスは見ておられたんでしょう。

 だから、ここに導かれて、イエス様の横で十字架をかつながなければならなくなって、そのまなざしに触れることが許されていった。

 イエス様の語りには一貫性と力があり、イエス様の十字架への姿をあきらかなものとして、一本の筋を通して、主がどのように人々の救いを見ていてくださったのかを証していきました。彼の信仰の底力があったから、福音書が記されたとも言えます。彼が私が見たイエス様はまさにこの通り、この言葉を残された方であり、このように私を見てくださった。私に対して絶対にあきらめずに私が救われるように。私が救われる瞬間というものを見ながら、やさしい視線を私に投げかけてくださったのだ。あの時、横でイエス様の最後の瞬間を見ることができて幸いだったと。その命を自分が生きるのだ。

 

 そして、お父さんの姿を通して、まことにお父さんが語っていたことが真実であることを認めつつ、息子たちが、命を懸けて教会を引き継いでいってくれた。

 

 その心が白銀教会でいまここで受け継がれている。

 

 イエス様をまっすぐに知ろうとする心は、すべてを突き抜けて、貫き通して私たちへとつながり、信仰に歩むものたちを一つにしていくのです。

 

 キレネ人シモンがみたキリストの姿が、この福音書全体に矛盾なく描かれている。

 光そのものであり、その言葉すべてから真実がにじみ出し、私たちを裁き、私たちを作り変え、私たちに力を与え、私たちを御国の世継ぎとする。

 

 そのお方の言葉一つ一つが、この十字架の姿とかさなり、マタイによる福音書として紡がれていった。

 

 だから、マタイ福音書はどこを切り取ったしても、キレネ人シモンが見た十字架のキリストが見えてくる。

 

 はじめのはじめのあのわかりにくい系図の中にも十字架がありますよ。この贖罪の業が、この忘れらた私のところに向かっているのだなと確信できる内容が描かれていますよね。当時の社会において忘れられてしまっていた存在であった、異邦人の女性。その女性を通してもキリストの系図が描かれていますよね。当時の社会的な風習においては、決して女性は系図の中に描かれなかった。ましてや罪を犯したと思われたり、異邦人であると認められていしまったその人をあえて描くなどということは無かった。でもマタイ福音書は描くのです。

 

 それはキリストが忘れられた一人のために命をささげられたからというメッセージがあるからです。

 

 この私のためにキリストは辱めを受けられ、殴られ、侮辱され、茨の冠をかぶせられ、この私のために詐欺師だと言われ、つばきをはきかけられ。この私のために命を絶たれた。

 それはこの私が背負うべきだったものすべてを背負って、御国の世継ぎとして、その小さな小さな私を迎え入れてくださるためだった。

 

 この十字架の場面というのは、驚くべき、私たちとキリストとの出会い、キリストの命が私の魂に注ぎかけられているのだということ、キリストの愛によって抱きしめられているのだというということを実感する。

 すべてつつまれて、すべてを赦されて、すべて受け止められているという確信の場面なのです。

 

 しかし、人々はこの場面を見てなんと言ったでしょうか。

 

 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスを罵って、言った。「神殿を壊し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。(マタイによる福音書27:39~42、新約56)

 

 信じないと。見えないのです。。。

 

 ここに命の交わりがあります。

 キリストと皆様が一つになる瞬間があります。

 

 しかし、信じなければ見えない。

 

 「神の子なら、自分を救ってみろ」

 「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。」

 

 何が起こっていたとしても、信じていなければ、見えない。

 

 信ずれば、見なければいけないものを見させていただく!!

 

 信じれば、イエスの思いが満ち溢れてくる。

 信じれば、皆さんに対する愛がどれだけ深いものかわかるようになる。

 信じれば、いかにおびただしいほどに神の思いがこの歩みにあるのか。

 

 神が私に向かってフォーカスし、私に光を向けて、私に届くように、出来事を起こし、私に語りかけてくださることに気づく。

 

 その思いは、ご自分の命をささげるほどのもの。

 その光を受け取ったとき、内側からエネルギーがあふれ出してくるのです。アーメン。