2022年5月29日 春の特別礼拝 ヨハネによる福音書20章19~23節 「平和、シャローム、聖霊」 石井和典

 春の特別礼拝にお越しいただいて心から感謝いたします。

 

 特に今日は、キリストが与えてくださる平和。イコール「シャローム」について考えていきたいと思います。

 平和が脅かされる現状が展開され、戦争の噂が後を絶ちません。これから先どのように争いが拡大してしまうのか、しないのか。

 しないことを皆望んでいるのにもかかわらず、口火が切られ、すぐに収束することを望んでいながら、それがエスカレートしていく。。。

 メディアのニュースを目にするたびに、この惨状の責任を一体だれが負うのかと問わざるを得ません。

 映画でしか起こらないと思っていたことが、今起こっていると、息子(小学生)がポロっと口にします。

 

 昔も、今も、目の前にある現実は、不完全であり、汚れており、自分たちでどうにかすることができない問題が展開されている。

 

 いったいこれから傷ついた一人の人の心がどのように、回復されていくことが可能なのでしょうか。

 

 

 聖書ははじめから終わりまで、「回復の歴史」を物語ろうとしています。

 堕落している現実の只中で、回復の兆しが見えるのだと宣言されます。

 回復の兆しはどこからやってくるのか。

 それは見栄えのしないところからです。

 だれも注目しないところからです。

 

 一人の小さな人から、物事がおこります。

 それが教会が受け継いできたキリスト、メシアへの信仰です。

 

 偉大な出来事は、力ある人が、権力をもって、絶大に影響力のある業をもって、、、と考えがちです。

 しかし、聖書が伝えるのは、一人の人からです。一人のイエスというお方からです。

 

 命の広がりのイメージは、小さなミクロなところからです。

 子供が生み出される時も、小さなミクロなところからです。

 科学が解明されればされるほどに、小さな細胞から、微生物からということさえも明らかになってきている。神様が造られた命の萌芽というものは、ミクロなところからということが基本にあることが見えてきます。

 聖書が伝える教えもそうです。

 私たち「一人が変化する」ことで、神の国が100倍にも広がっていくようにと主イエスはお語りくださっています。

 

 良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、実に、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。(マタイによる福音書13:23、新約24)

 聞いて、悟る人、聖書の御言葉が土地(心)にまかれて、その言葉が芽を出し、成長し、何もさえぎられるものがなく、光が注がれて成長していくと、その命が爆発するように広がって、拡散されていく。種が放出され、希望をたくさん生み出すように、命の広がりがそこら中にできるようになります。希望がそこら中に、新しく力を与えられる出来事がそこら中にとなります。

 

 実は、平和の広がり、シャロームの広がり、主の祝福の広がりというのは「一人の人から」ということなのです。

 ウクライナ、ロシアとの争いの歴史の中で、今問われていることは、その現場で犠牲にさせられてしまっていて、誰も注目しないような一人の弱い人、子どもたち、その一人を見るのかということです。

 その人たちを、非常にミクロな次元から助け、そこに主のシャロームが広がっていくと信じ行動するかどうかです。

 

 それは、実際には今この日本社会の中で、この地域の中で、この私たちの共同体の中で、苦しみを抱えている一人の人にいかにかかわり、その人を大切にし、そのご大切から命の広がりが起こることを見ようとするのか否かということだと思います。今ここで、この小さな私から、ということを見るかどうかです。

 

 私自身が、私の父母をいかに大切にし、私の妻を心から愛し、子どもたちを大事にしていくのか。その関係を築き、その小さな次元からシャロームが与えられると見ようとすること。

 何があっても、命あるかぎり、主の命の広がりを見ようとすること。

 

 そこから、ウクライナの空につながっているということを信じることが大事だと思います。

 ミクロから、マクロへ。100倍もの成長へです。

 ここで私が種をまけば、やがて神が100倍もの成長へと導きを与えてくださる。その主の不思議な御業を信じるかどうかです。 

 

 キリストは、今も昔も、永遠に変わらないお方(ヘブライ人への手紙13:8)です。この方を見れば命がなんなのか見えてきます。 聖書を読むとどのように私たちに出会ってくださるのかがわかります。

 変わらないお方だから過去のことを見れば、今のことがわかります。

 ご自分を現わされる方法も変わらない。

 

 弟子たちに現れてくださったとき、弟子たちは涙していました。

 

 涙の中で主が出会ってくださるのです。

 

 泣いていた弟子、マグダラのマリアに今日は注目したいと思います。

 

 マグダラのマリアは、主によって七つの悪霊を追い出してもらいました。

 神ではなくて、何か悪いものにその精神が全く支配されてしまう状態になっていた、現代でいうと、非常に重い精神的な病に陥っていたことがわかります。精神的な病と診断されていなくても、心が神以外の何かにとらえられてしまって、塞いでいる。そういう悪霊に支配されている状態というのがありえます。「死に向かっていく方向性」の中で支配されてしまう状態。その人の周辺では関係性が分断され破壊されていきます。それが悪霊による支配です。

 神の支配というのは、「命に向かっていく方向」にあらゆることが導かれていくことです。例え肉の限界を抱える状況でもそこに光が注がれていく状態です。それが神の国による支配です。希望があるので、エナジーが満ちてくるのです。

 

 マグダラのマリアは弟子としての歩みを始める前は、神以外のなにかに支配されてしまっていました。

 具体的にどういう状態だったのかというと、ルカによる福音書7:36~50に描かれています。「性的に罪を犯していた人」と描かれています。おそらく娼婦のような人だったろうと言われています。周りからの蔑みの視線というものを体験していたに違いありません。そのような自分でも改善しようがない境遇の中で、涙していました。

 

 その涙している人にイエス様は触れてくださって癒しを与えてくださいました。

 彼女はイエス様が赦しをもって人々のところに来られたということがよくわかりました。信仰をもって、イエス様に信頼を置こうとした。すると、彼女の前に道が開かれていきました。イエス様の御許に行くチャンスを得たのです。主イエスに心からすがり行動をすると、歩みのすべてが変化してしまいます。変化しないのは、心からすがらず、イエス様に近づいていかない、行動しないからです。

 

 ファリサイ派の人の家にイエス様がおられました。ファリサイ派ユダヤ教の中では厳格な習慣を守って、自分たちこそが正しい人間なんだと信じてやまない人々でした。

 その家にはこの罪人と呼ばれるマグダラのマリア招かれるはずはありませんでした。

 しかし、彼女は、そのファリサイ派の家で食事をしているイエス様に「藁をもつかむような思い」をもって飛び込んでいくのです。

 自分を差別し、さげすむような人の家に入っていくことは平素ならするはずもないと思います。

 しかし、必死でイエス様にしがみつき、イエス様の心のそばに寄り添いたいと思うその思いが、彼女に行動を起こさせ、ファリサイ派の人の家の中に彼女は入って行ったのでした。

 

 そこには、まことの出会いがありました。

 

 涙が溢れ流れ出してくる出会いです。

 イエス様が私の心のすべてを理解し受け入れてくださって、赦しをもって望もうとされておられることがひしひしと伝わってくる。

 その心に応え、自分の涙をもってイエス様の足を洗い清めようとマグダラのマリアはします。イエス様はその行為をこのように受け止めてくださいました。

 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。ルカによる福音書7:47、新約116)

 

 とことん隅の隅まで赦され、赦され尽くされている。

 彼女は体験したのです。

 だから、イエス様がローマ帝国の力によって十字架にかけられ、処刑されてもなお、イエス様のところについていって、その墓にまで行って、弔おうとしていました。

 本日朗読された箇所の少し前なのですが。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中をのぞくと、ヨハネによる福音書20章11節、新約205)

 

 そこでも彼女は泣いていました。

 

 しかし、彼女には驚くべき出会いが準備されていました。

 泣いていたんですが、そこに出会いが与えられました。

 

 墓に行ったのですが、その墓は空っぽで、そこには天使がおり、その天使と話していると、マリアの後ろにイエス様がお立ちくださっていたのです。マリアにはそれがイエス様だとはじめわかりませんでしたが、イエス様が「マリア」と名前を呼んでくださると彼女は、それがイエス様だとわかり、イエス様が復活されたのだと悟りました。

 

 私の名を呼んでくださっている。私と出会ってくださる。私の涙をどこまでもぬぐってくださる。このさげすまれていた、見捨てられていた、この私にこそとことんまでかかわってくださる。

 

 大事なことを忘れてしまっていても、見捨てない。マリアはイエス様ご自身が復活されるっておっしゃっていたことを知っていたはずです。しかし、悲しみに飲み込まれて忘れてしまっていたのです。しかし、本気でイエス様の死を悲しみ涙するマリアに主は出会ってくださったのです。

 マリアにわかるように、マリアの名前を呼んでくださいました。 

 エスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。ヨハネによる福音書20:16、新約205)

 

 私の名を呼んでくださる。私の名を呼んでくださる。私の名を呼んでくださる。

 

 ここに希望がある。マリアの名を。私の名を。あの人の名を。あの戦争で失われたその命の名を。何があってもキリストだけは絶対に忘れない。

 

 私は、そのキリストの心に従って行動する。

 あの人を忘れない。

 

 キリストは、恐れにとらわれてどうしようもなくなって、家の戸に鍵をかけて、自分たちがキリストの弟子であると知られないように静かに息をひそめていた、その弟子たちの集団の中にも現れてくださいました。そこで「平和」を宣言してくださいます。シャロームです。

 彼らを取り囲む状況自体は変わっていません。

 しかし、出会いが与えられるのです。

 キリストがすぐ近くにおられるという出会いです。

 

 キリストの接近。涙している私に。恐れにとらわれている私に、近づき、私の名を呼んでくださり、シャロームを宣言し、物事を起こしてくださる。キリストは今も昔も、永遠に変わらないお方。

 

 破壊された場所に行くとき、キリストがそこにお立ちくださっていることを目にするのでしょう。

 

 なんでこんなことになったんだ。

 

 というその現場に、キリストがおられて、失われた命の一人一人の名を呼んでくださる。

 

 そこには、平和(シャローム)がある。

 

 ここに招かれた私たちが、涙するもののところに、キリストが現れてくださると信じて行動するかなのです。

 そうすれば、見ます。必ず主がそこにおられます。

 

 キリストは昔も今も、永遠に変わることはありません。

 

 マグダラのマリアに起こったことが、家の戸に鍵をかけていた弟子に起こったことが、私に、あなたに。

  

 聖霊を受けよ!

 

 聖霊なる神は、見えません。

 時代を越えて、今この瞬間に皆様のこころに働きかけ、見えるものが変えられていきます。

 行動が変わります。キリストの心が皆様にあることを体験させます。

 下を向いていた人が上を向きます。暗い顔をしていた人の顔が明るくなります。心が貧しくて、狭くて人をとがめるばかりだった人が、自らをささげ喜び溢れる豊かさに預かるようになります。

 赦しがその内側に満たされます。

 貧しい、さもしい心が払拭され、つきものが落ちて希望に歩むようになります。アーメン。