2022年 4月24日 主日礼拝説教 

マタイによる福音書19:23~30 「らくだが針の穴を通る」 石井和典

 

 らくだが針の穴を通ること。絶対不可能です。

 身近にいた一番大きな動物、それがラクダ。身近な一番小さな穴、それが針の穴。

 その穴をらくだが通る。

 

 絶対不可能だったことが起こる。それが、「私たちが神の国に入る」ということです。

 なぜなら、私たちは多かれ少なかれ金を神とするような経済社会で生きているからです。

 頼りになるのです。この社会では金が。拝金主義者、偶像崇拝者です。

 しかし、そのような人たちが神の国の住民とされる。

 絶対に天に入ることができないものが、入る。

 

 何を頼りとするのかということが、信仰です。

 何を頼りとするのかという優先順位がつねに歪んでしまっている。

 それが罪人と表現される、本質を見失ってしまっている状態の私たちです。

 

 その現状を証明する内容が。「神の愛がわからなくなっている」という状態です。

 土曜日の早天礼拝のマラキ書1:2がわかりやすく示してくれます。

 私はあなたがたを愛してきた――主は言われる。しかし、あなたがたは言う

「どのように愛してくださったのか」と。(マラキ書1:2、旧約1473)

 これが罪人であり、堕落してしまった人間の姿だと描かれています。

 

 愛しているという事実がそこら中にちりばめられているのに、それに気づけない。気づいていても、その愛に正しく応答していない。その人は確実に滅びに向かって足を進めている。しかし、滅びに向かっている認識はない。

 

 イエス様のもとに人がくると、常に「らくだが針の穴を通る」ということが起こり続けます。奇跡が起こり続けます。

 この罪人である私が連れ戻されて神様のもとに帰ることができるようになるのです。絶対に天の国に入らせることができない金を神とする偶像礼拝者が、拝金主義者が驚くことに赦されて、その心が変えられて神の国に行くことになります。

 

 エスは弟子たちに言われた。「よく言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがまだ易しい。」(マタイによる福音書19:23、24 新約36)

 

 イエス様は断言されました。金持ちは特に難しい!と。

 しがみついているものを離すのは難しい。

 財産が多ければ多いほど、それを手放すのは難しい。財産で強烈に支えられて自分の人生を建てあげてきたからです。

 しかし、主は最後はぎとられますよね。今までたくさんの方々を天にお送りしていますが、皆さん間違いなく一人の例外もなく、はぎとられていく姿を私は目の当たりにしています。何を持っていても必ず何も持っていない状態にさせられます。

 だから、無になるもののために、心のすべてをささげるのはおかしい。と、冷静になれば誰でもその心で理解できます。しかし、冷静になればおかしいことに心をささげ、しがみついて生きている。

 

 金を神としているものはおかしいと主がおっしゃられています。金にしがみつくものが天に入るのは難しいとおっしゃられています。

 じゃあ、どうやって私たちはその越えられないような圧倒的に大きな壁を乗り越えていくのか。

 金を神とするような経済社会から救いだされるのか。それはただイエス様(神)の力によってです。それしかありません。

 そこに自分の信頼のすべてをささげることができるかです。自由ですし、誰にでもできます。自分で自分を救うことはできません。自力で金の力を捨てることさえできませんが、神にゆだねることによって救っていただく世界があります。

 

 弟子たちは、金持ちが神の国に入るのが難しいと言われてしまったら、今まで考えてきた前提のすべてが崩されてしまうと言って、不安になりました。

 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、誰が救われることができるのでしょう」と言った。(マタイによる福音書19:25、新約36)

 

 この言葉には含みがあります。ユダヤの社会では、富んでいる人々は祝福された人ととらえられていました。というのも、いま申命記をともに聖書研究祈祷会で学んでいますが、ご参加くださっている方はお気づきだと思います。

 祝福ということは、経済的な祝福の側面を多分に含んでいるということがわかります。それは申命記28章を見てくださればわかります。

 

 入るときも出るときも祝福されるとさえ書かれています。家を出るとき、聖なる宮を出るときも、また戦争が当時たくさんありましたが、戦いの場面でもという含みがあります。

 何があったとしてもということです。どんなことをしても、何があっても祝福されてしまうということ。それは必然的に、経済的な祝福へと結びついていく内容です。

 だから、当時の人たちの常識として、富んでいる人は神に愛されている人なんだととらえていました。

 

 経済社会である現代においても、未だにユダヤ人たちのプレゼンス(存在感)というのは圧倒的なものがあると言われています。主が祝福してくださっているということもあると思いますが。彼ら自身が自分たちが神の前に敬虔で純粋であることの証明として豊かさがあると受け止めて、そのように行動しているからということがあると思います。

 

 だから、「金持ちが神の国に入るのは難しい!」という言葉は衝撃的です。彼らにとっては受け止められないものです。180度の考え方の転回が起こらないと受け入れられません。

 「え?金持ちこそ神の国に入るんじゃなかったの?」

 

 その問いかけに対して、イエス様はまっすぐに核心をお語りになられます。

 

 エスは彼らを見つめて、「それは人にはできないが、神には何でもできる」と言われた。(マタイによる福音書19:26、新約36)

 

 はじめから、その問いは。

 誰が神の国に入るのかという問いは。

 神がなされた行動の結果として起こるのであって。あなた方にはそれはできない。

 とばっさりと切ります。金持ちであろうが、貧しかろうが、祝福されているように見えようが、見えなかろうが、あなた方自身で神の国に入るなんて到底不可能である。しかし、神にはなんでもできる、ということです。

 

 神の国に入るには、神に対して敬虔に生きて、その結果物質的な祝福をたくさん受け取って、子孫が繁栄して、恐ろしいほどに財産が蓄積していくということが起こるとみんな考えていました。その結果、神によって義しいと認められて神の国に入るのだと。

 自分の行動によって、という行為主義、行為義認によってという視点がやはりあります。そういったものではないと主はおっしゃられたのです。

 

 神にはなんでもできる。と。

 

 主体が神。主が一言でおっしゃいました。

 この主の言葉に信頼するものは神の国に入る。信仰によって義とされる。

 

 そしてペトロは、じゃあ私たちはあなたのためにすべて捨ててついてきましたが、何をいただけるのでしょうかと言います。

 そしておそらく、彼が求めているのは、やはり物質的な祝福というものでありましょうが、そういったものをもイエス様は圧倒的に越えていかれます。

 エスは一同に言われた。「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。(マタイによる福音書19:28、新約37)

 

 イエス様がついておられる神の右の座。すべての支配権を握っておられる父なる神の天上の会議。そのテーブルに座することになる。治めるものになると。主イエスと一緒に民を裁くものでさえあると示されています。

 イエス様のお話のふり幅ってすごすぎますよね。常にらくだが針の穴です。この小さなものがイエス様と治めるもののテーブルにつくと。

 

 弟子たちの頭がどこまで考えて、何にとらわれていて、どれほど自分たちの考えに凝り固まっているのか。そのことを、わかったうえで、めちゃめちゃ遠くのほうまで、その考え方を延長させるというか、外していきますよね。

 これを本当の意味で受け止めることができた弟子たちは幸いだと思います。自分を捨てたんですね。そして、自分を捨てて受け止めることができたから、これが伝承として残っているということです。

 

 弟子以外の人たちは、何言ってんだこいつは!で終わっていたでしょう。私たちの常識ではそんなこと全く考えも及ばない。なんという非常識な考えだと言って、受け止めることができていなかったと思います。

 

 エスは一同に言われた。「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。(マタイによる福音書19:28、新約37)

 

 新しい世界のことを言うことができるなんて、なんて飛んでいるんでしょうか。しかし、やはり神ですよね。イエス様は。イエス様の問いかけの姿を見ると、弟子も、群衆も、律法学者もファリサイ派も、「自分たちが見たいと思っている自分たちの視点にうつる自分のテーブル」だけ見ているんです。

 でも、イエス様は世界全体、それ以上のもの。時代も飛び越えた内容さえも見ているのがわかりますね。全然見ている視点が違うのです。究極のメタ認知。メタ思考です。飛び越えて俯瞰しておられます。

 

 主イエスは、イエス様の名のために何かを捨て去ったものが受ける祝福をはっきりと見定めておられます。

 また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイによる福音書19:29、新約37)

 100倍っていうのは考えられないほど大きな報いをうけるということです。その究極のかたちは「永遠の命を受け継ぐ」というものです。

 イースターにおいて、「肉において死んでも死なない」ということが宣言されて、それを受け止めていく民は、復活が自分の体において実現していくのであるということが確信として与えられてくると思います。

 その与えられた確信に基づいて喜びが驚くほどに内側に満ちていくことを体験します。まだ、その喜びが満ちていないと思われているかたも、その芽が内側から与えられているということを実感する歩みとすでになっていると自覚してください。

 

 皆様は、主イエスのために自分の人生を捨てて、ここに来られた。

 そのものには、報いが与えられます。その報いは私たちが考えていることの100倍のものです。想像もできないほどに大きなものです。

 

 何ができるかできないか。ガンバローっ!って躍起になっている私ですが。

 

 この世で何ができてもできなくても、死んだ後も、これから後永遠に、主イエスの御業を信じる私は、どこに行っても主イエスを見出すことができる。

 これ、100倍どころの報いじゃないです。

 異次元の報いです。

 

 もう、死なないんですね。イエス様と一緒に治める側になっていくんですね。ハレルヤ。