2022年5月1日 主日礼拝説教

2022年5月1日 主日礼拝説教 

 マタイによる福音書20:1~16 「気前の良い主人」石井和典

 

 主人の心に生きる。恵みに生きるということがどういうことなのかが示された箇所です。我々の経済論理を簡単に飛び越えていかれるのが主の心です。

 

 我々は、労働市場で価値がある働きをする人がより高い賃金で雇われるべきであると思っています。働きが多い人、大きい人ほど、大きな賃金を得るのが妥当だろうと考えているものです。それが当たり前の常識でしょう。しかし、イエス様がおっしゃられるぶどう園の主人はそのようなお考えではありません。

 

 いつ誰が来ようが、どんな働きをしようが、労働時間が長かろうが短かろうが、働きが大きかろうが、小さかろうが。。。全く関係なく!!同じ賃金である1デナリオンを支払われるお方です。

 全く不公正、不公平に見えてきますね。

 真面目に働いている人たちからは苦情がでます。当たり前です。

 

 経済社会における公正さと、神の国の公正さというのは、違うのだなと受け止めるしかありません。

 イエス様がおっしゃるこのぶどう園。人間がもしも運営していったら、大問題になって暴動が起こってしまうことでありましょう。ちゃんと真面目に働いた人たちは絶対に納得いかないでしょう。

 

 しかし、もしも働く人たちが、皆この主人と心を同じくするものたちであったらどうでしょう。

 すなわち、特に貧しいものたちに対して恵み深く、そのものを包み込む、そのことに全勢力をかけるのだと主人が考えていて、そのスピリットに自分も同意して、同じようにしたいと思っていたら。

 もちろん暴動は起こりませんし、そこに天国のような心地よい空間が広がることが容易に予測できます。

 

 天の国の支配を広げるってこういうことなんですね!

 主人の気前のよさに同意するのです。自分が考えていることを脇に押しやって。主人の気前のよさに自分も浴し、その心を伝えるのです。その心に生きるものとして行動していくのです。

 

 働いているものたちが、自分という(労働者)という立場を離れる必要があります。労働者の心から物事を考えるのではなく、主人が何を見ておられるのか、主人が誰を憐れもうとしているのか、主人がどれほど豊かな方で、すべてを飛び越えて、貧しい人を憐れもとしているのか。

 

 それを、自分を捨てて、主人の視点に立って見た時に広がる世界。

 それが神の国の支配であるのだということがわかってくるのです。

 

 私は本当にイエス様の弟子、イエス様の子どもとさせていただきたいです。

 この主人と同じように、労働市場に最後の5時ぐらいに行って、夕方ぐらいにいって、一日の終わり間際であるにもかかわらず、そこに取り残されている人をみて。

 この人たちって多分、労働市場においては売れ残りです。

 

 この市場においては価値が相対的に低いと判断されて売れ残ってしまった人たちですよね。その人たちに近づいて、にやにやしながら「来いよ」っていう。

 そういう父の子でありたいと心から願います。

 労働者は、5分の1ぐらいのデナリオンしかもらえないと思ってたら、ちょっとしか働いていないのに、1デナリオンもらえる。「マジか!!!」って大声で踊るような。

 

 労働市場に5回も行ってうろうろしている豊かな主人。一人の恵まれるべき人を探し回ってうろうろしている主人。それが主であるという、驚くべき知らせ。このお方がご支配くださる、それが世界であることがわかります。生きるに値しますね。

 イエス様の言葉には、神様の言葉と行動が示されていて、その言葉と行動を理解して心で受け止めると限りない喜びが内側に満ち溢れてきます。

 「あ、わたしも探し出されたのだな」

 と思えるからです。何度もぶどう園(天国)の働きに召しだされていたのだけれども、それを知らずに、別のことをしていて、こんなに主人は恵み深い方なのだと知らずにさまよっていた。

 しかし、主人の方から私に近づいてきてくださって、その恵みのぶどう園に入れていただくのだということを主人がお決めくださった。そこで味わう恵みは、度を外れた恵みであり、え、こんなに。「マジか!」って躍り上がるようなものであったということに後から気づいていくのです。

 

 主人は5回も来ます。朝早く(1節)、9時ごろ(3節)、12時ごろ、3時ごろ(5節)、5時ごろ(6節)。日の出、日の入り、その間にあるのは、9時、12時、3時これはユダヤの伝統からすると祈る時間です。

 この時間に主なる神は探し回っておられる、ということを暗示しますね。主は私たちが祈るときに、そこにおられますし、もちろん、それ以外の時にも主はおられるわけですが。私たちと主が出会うときはとりわけ、祈りの瞬間ですね。私たちが心を明け渡して主のためにその時間を使うときです。そのために時間を使い始めると、主が私の心を求めて探し回っておられること、私に気づくようにご自分を示してくださっておられたことに気づきます。

 

 主は考えられないぐらいに気前の良い方です。その気前の良さを知ったのならば、そのお方のところに何があっても最初に行くわけです。この主人の心を理解した人は、絶対ここに最初にいきますよね。当たり前です、少ししか働いていないのに、すべてを満たそうとされておれる主人。その主人のところに行かなかったら、おかしい人ですね。

 

 われわれはみんなおかしくなってしまっていたのですね。

 主人の心じゃなくて、自分がどれだけ働けるのか、市場でどれだけ評価を受けることができるのか。

 

 そんなことばっかりを考えてあくせくして生きてきてしまったのです。

 

 しかし、本当に必要なのは、自分がどう評価されて、どれだけ価値のあるかということを他人に決めてもらって、評価されるということではないのです。

 

 この主人がいるということに、驚いて気づくことです。本当に必要なことは。

 出会って、この主人に満たしていただいて、自分も同じような主人のこころを抱いて、寛大で、寛容で、豊かで、満ち足りていて、どこかにやにやしていて。そして、良いことを行っていこうと考えて、うろうろしているような。そういう主人のこころを楽しんで喜んで、なんて憐れみ深いのだ主は!と言って、一緒に宴会をすることです。

 

 神の霊に満たされている人って、どこかニヤニヤしてますよね。そんなの当たり前です。こんな狂ったような、度が過ぎたような、神のところにかえってくるものを、考えられないような祝福で満たしてしまおうとしておられる方が、神であることを知っているのですから。

 

 先週ご一緒に見ましたよね。ペトロがイエス様に対して、私たちはあなたについてきましたから報いをいただけますよね。じゃあ、その報いはなんなんですかって聞いたでしょう。

 そうしたら、イエス様はなんとお応えになられましたか?

 エスは一同に言われた。「よく言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に着くとき、私に従って来たあなたがたも、十二の座に着いて、イスラエルの十二部族を裁くことになる。また、私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。(マタイによる福音書19:28、29、新約37)

 誰がえらいのかえらくないのかとか、そういうくだらない問いというか関心しかなかった弟子たちです。見ているのがちっちゃすぎるのです。

 しかし、イエス様が与えようとされていることは彼らが思っていることの何千倍、何億倍のことです。

 

 おもっていることの何倍ということが主イエスのもとに来たら当たり前に起こることになります。

 私たちがどうであるかではないのですから。

 主がどのようなお方であるかに集中していくのですから。

 

 私たちは何が問われているかって、すごくシンプルですよ。今早天礼拝で聞いてますが、マラキ書にそれが書かれていました。「主を畏れているか」だけです。「主に従っているか」だけです。

 私たちが何ができるかできないかは、1ミリも問われません(笑)。

 これまで、自分が何ができるかを人生のすべてのように考えてきました。

 

 それは、明らかに主の御前では、「転倒した姿」です。上下さかさま、左右逆です。

 

 私たちは、神様の御前で、常に逆立ちしているようなおかしなものとなってしまっている。それが罪の姿です。

 

 主の心を受け止めて祝福が倍加していくようなあり方。それが主が願われている状態です。だから、主を信じたい、従いたいと願っているその人の傍らでみるべきことは、その人の上に主の祝福が豊かに広がって、それが倍加して広がっていくことです。

 

 さもしい心、貧しい心でいるとどうなるかというと、主が思っておられるところを見ないで別のところを見るわけです。

 

 あいつとおれの受ける分が一緒なのはおかしいとか。

 あいつはおれよりも勤勉に働いたわけじゃないじゃないかとか。

 もっとちゃんとやれよとか。

 なんでこんな不公平がまかりとおるんだとか。

 わたしは不当に扱われているとか、そういうことが目に見えるようになってしまって、そっちに集中が向かってしまうのですね。

 

 だから、わたしたちにとってとりわけ大事なのは、「主のお姿を心に描くこと」です。主のお姿をおいかけて、主に従うこと、主のお姿が私の内側に満ちているのだという状態に自分の心をしておくこと。

 主から与えられた自由を用いて、その集中を主に向けていくことです。

 

 主のこころに寄り添って隣人を見るということです。そうすれば、天のぶどう園の資産がいかに偉大で大きなものであり、その資産を用いて、一人の苦しんでいる人、その人を満たすことができるということに気づくのです。

 しかも、もしもその人を満たすということを求めていくのであれば、主は度はずれた恵みをもってのぞまれるということ。考えられないような論理を越えたことを行われると。

 

 労働市場の常識からは考えられないような恵みで満たしてくださるのであるということを期待できるのです。

 

 私たち教会がつながっている、このイエス・キリストの命。天。この資産がいかに無尽蔵であるのかということに心を向けてください。ぶどう園には半端ではない財産がある。それを主人は恵み深く与えようとされている。

 

 そういう心があるのに、私たちが見ようとしているものは、「さもしい」ものである場合がほとんどでしょう。

 さもしい自分の心にもとずいて、人を見て、裁き、自分のメガネで人を判断した結果、主が願っておられることではなくて、主が一番お嫌いの、「自分が誰かの上に立つ」という傲慢さを得てしまうということになります。

 

 マラキ書3:19(旧約1479)にはこのように記されています。

 その日が来る かまどのように燃える日が。

傲慢な者、悪を行う者はすべてわらになる。

到来するその日は彼らを焼き尽くし根も枝も残さない――万軍の主は言われる。

 

 私たちがもし何かを競い合うのであえば(競い合う必要さえありませんが)、競い合いたいのであれば、自分が一番どんなものよりも小さな低いものであるということだけを主張して、その通りもっとも低くなる。これだけでOKです。

 

 神の前では「傲慢なもの」は「悪を行うもの」です。

 

 時が残されているうちに早く立ち返りたいと思います。

 

 何度も何度も、私たちが気づくまで、私たちを迎えに来てくださって、示しを与えてくださって、一日も早く、主の恵みのぶどう園に帰るようにと、主が語りかけをくださっている。

 この言葉がまだ響いているうちに、主の心に帰りたいと思います。

 主は私たちが働いたその労働を5倍、1時間の労働を1日分、どころではなくて、その100倍にもしたいと願っておられる。

 

 その心を知れば、その心に生きることができれば、主の御前で自分の貧しさを主張して、主が与えてくださるのをもとめれば良いのであって、どんな人からさげすまれても、私たちのバックには主がおられるといつも思えばよいということになります。

 

 なんと暖かいのでしょうか。なんと豊かなのでしょうか。もう誰もわたしたちの資産を奪うことはできません。アーメン。