2023年2月19日 主日礼拝説教 使徒言行録 1:12~26 「心を合わせて熱心に祈る」

 ペンテコステ聖霊降臨)は教会にとって決定的に重要な出来事です。これがなければ前に進めません。というのも聖霊が降るというのは、「神の心を理解する」ということと一体だからです。ペンテコステとは御心を理解して実際に行動に移すことと言い換えてもいいかもしれません。

 だから、ペンテコステが常に起点となるのです。

 初代教会のはじまりもこのポイントでありました。主の心が皆に注がれて感動が与えられて、人々が自分の持ち物を共有し、自分をささげるようになる。強いられてではなく、自然と献身が起こるのです。実際に初代教会で何が起こったのかというと。

 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。信じた者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。使徒言行録2:43~45、新約213)

 原始共産制のようなものがここにしるされていますが、私はこのようになれと言いたいのでは全くありません。このようなシステムを今から組むのは不可能です。

 しかし、彼らがそれほどまでに主の業のために自分を自然にささげるようになったということを受け止めることはとても大切です。

 

 システムが先にあってこういうルールにしようと皆で示し合わせたということではありません。主が与えてくださった恵みに気づいて。その命があまりにも大きなものであるために、自分自身のすべてをささげるようになっていったということであります。

 誰に強いられてもではなく。誰に見せるためでもなく。

 もしも、見せるためとか、何かの大儀のためだったりしていたら、それを主は祝福してくださらなかったでありましょう。

 イエス様がこのようにおっしゃられているからです。

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いが受けられない。(マタイによる福音書6:1、新約9)

 初代教会は徹底的に祝福されます。信徒の数が増えていきます。それも爆発的です。一日で3千人が仲間に加わったとも書かれています。

 その成長からつながって今現代の私たちが恩恵を受けています。

 使徒言行録全体にわたって初代教会の伝道がいかに進んだかが記されています。

 

 特に初代と同じように共産制を推し進めるというわけではありませんが、彼らのその献身の熱意というものから学びたい。

 内側から湧き出してくる自然な力というか、止めることのできないものでありましたので、そこには悲壮感はなく、喜びと賛美とがありました。

 このようにも記されています。

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。使徒言行録2:47、新約213)

 喜びと歌。これが初めのはじめの共同体の特徴でありました。毎日心を一つにして、喜び、賛美しているので、民がうらやましくなったということですね。

 

 教会の中で、何かの悲壮感にかられて、何かの義を叫ぶために、その顔に怒りと失望とをあらわしながら叫ぶということが起こりますけれども、そういう状態では、伝道は進みません。

 

 外から見ている人たちはそんなところに近づかないようにしようと思うはずです。

 

 一つの方向に共同体をもっていくときに、悲壮感とか怒りとかに燃やされて、扇動されてということが良く起こっていると思いますが。

 信仰共同体で起こることというのは、そういうものではない。

 常に「喜びと賛美」です。パウロがテサロニケの教会に命じた通りです。

 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。(テサロニケへの手紙Ⅰ5:16~18、新約370)

 主イエスがおられるところ、喜びと祈りと感謝が満ちていく。それが主がおられるということのしるしです。

 主イエスは愛であり、その方が、永遠におられるのであれば。それを心の底から受け止めるならば、どんな心であったとしても、行きつく先は、感謝と喜び、賛美だからです。

 

 しかも、ここに集まっている人たちというのは、「ありえないほどにばらばらな人」というか「決してそのままでは一緒にいることさえできない人たちでありました。

 その面々について記されているのが以下の箇所です。

 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ熱心党のシモンヤコブの子のユダであった。使徒言行録1:13、新約209)

 私は説教の中で何度も説明してきてますが、熱心党のシモンというのはユダヤ教社会の中の、武装派極右勢力です。そして徴税人のマタイというのは、その真逆であり。ローマ帝国に魂を売ってしまった、ユダヤ教に対する反逆者というようなレッテルを貼られてしまう人です。

 さらに、聖書の律法の教育も受けていないような、学のない漁師が大半でした。

 このような人たちの間にある共通項というのは、まさに主イエスと出会って、主イエスに逆に捕らえられたということ以外にありませんでした。

 しかし、彼らは!!いやその彼らこそが。

 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。使徒言行録1:14、新約210)

 心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。

 というのが、これが教会の一致すべきポイントなのですね。

 これでしか一致できない。イエス様にすべてをかけるということしかなかった。

 確かに、どの時代をふりかえってみても、主の御前に自らを低くする主の僕たちが、主に出会ったということ以外に誇ることなど何もない、自分の弱さを自覚するものたちが集まると、驚くべきことが起こります。

 その人たちは主の業のために献身していきますが、ペンテコステが起こります。聖霊が降ってきます

 立ち上がることができなかった人が立ち上がるという出来事が起こって行く。

 癒しの出来事が起こります。

 彼らがペンテコステの後に経験する出来事は、「足の不自由な男が癒されるということでありました。

 

 しかも彼らの言葉に注目してみると。それまでは、「私ではなくて、主イエスをみてください」とか「私ではなくて、神様をみてください」と言っていたであろう、不完全な使徒たちが。

 「私たちを見なさい!」と言うようになったのです。

 

 それは、自分の内側に宿っている神様の霊の力を確信したということが根底にあるからです。

 これが教会の力です。

 

 内側に宿っている神の霊の力に対する確信。

 これこそが、人と人を結びつけるものであります。我々は、自分の内側に主が働いておられるという驚くべき事実に気づいたときに、生まれ変わるのです。

 これまで見捨てられていたと思い込んでいた、でも、そうではなかったんだ。自分が意識できていなかっただけで、主がすぐ近くにおられたのだ。主がすぐそばにおられて、しかも私が心を開いたら、その主の心の炎が溢れて来て、爆発するようになる。

 先週確認したように、その力はギリシャ語でデュナミスであり、このデュナミスに生きるものというのは、自分の小ささとか弱さとかそういったものを逆に誇るようになる。神の力がこの小さな種子のような小さな小さな、極小に小さなところから爆発するのだと。それは、全世界に出て行って宣教に乗り出していくような力として響きはじめる。

 

 本日の使徒言行録にもユダのことが出てきますが、ユダは裏切ったわけです。しかし、その裏切りによって主イエスの業は頓挫してしまうということはありませんでした。むしろそのユダが主イエスを売り渡すということを通して、十字架の御業が実現していったのです。

 何か不利な現実が目の前に迫ってくると、それによって敗北してしまうのではないかという肉の恐れが常にあります。それはこれまでの人生観に起因するものです。私たちの経験によって考えると正当なストレートラインなのかもしれません。

 

 しかし、主イエスの十字架は違います。敗北から、力が湧き出してくる。死から命が噴き出してくる。ユダのような裏切者によって勝利に導かれるのです。

 そして、使徒にはユダのかわりにマティアという人が新しく選任されていく。このマティアという人の名前の意味は「神の贈り物」という意味です。ユダが裏切りによって失われてしまっても、それによって主の業はとどまることはありません。いかに人間が妨害しようとしてもそれは、「神の贈り物」として響き、かならず求めるものに到達する。

 

 大丈夫。何が起こっても、神の贈り物は到着する。どんな状況であろうと、その状況が逆に用いられて、ペンテコステへと至るのです。神が我が魂の内側に、私が主イエスに似ていく。

 ほかの誰でもない私自身が主イエスの御業に参画していく。私を見なさいということができるほどに内部充実していくのです。

 

 主がその御業で私たちを満たしてくださるのだと信じてよい。

 

 主は確実に皆さまを導かれている。その一つ一つを発見してください。

 そのなかで、主が私たちの心に触れてくださるということが起こり、私たちの内側が満たされて、主の思いがこんなに深かったのかと実感し、私たちの不遜さをなげき、私たちの不従順を後悔しつつ、弱さを思いながらも、しかし内側から主の命が爆発していく。

 

 私たちの間にあったわだかまりなどは、私たちの内側から力があふれ出して新しい命を生み出していくので、神からの贈り物で満たされていくので、さもしい思いは払いのけられ、マティアからマティア、神の贈り物から神の贈り物へとの認識の中に人を満たす存在にさせられていくのです。

 

 私は特に旧約聖書を愛しています。

 というのも、旧約聖書は民の失敗失敗失敗の歴史のように私には見えるからです。そして多くの失敗が、神の御業への確信を失った民が神を見るのではなくて、他の何かに頼り、主の力の確信を失って、十分に主のお力を確信することができなくてなって、他の何かの力に頼り、その頼った別の力によって逆につぶされるということが起こっている。

 その姿を見ていると、やはりいかに信じるものたちが、自分の内や外でいかに神の恵みが溢れているのかということを確信し、その信頼に満ち満ちているのかということに尽きるのだなと思わされます。

 しっかり味わって確信していないと、すぐにズレる。

 その繰り返しです。

 

 ひょんなことからズレていく。そんなところからというところで別の何かに心をつないでしまう。

 逆に目を開くと、神は様々なことを通して毎日毎日語りかけてくださっている。

 

 皆様、イエス様がおっしゃられた通り、「満ちてから動き出せば良い」のですよ。

 

 主の霊に満たされないで動きだすとどうなるかというと、先ほどから言っているように、私たちは努力努力努力をずっと仕向けられて生きてきましたから、自分で頑張ろうとして結果、何か自分の目に見えるもので頼りになりそうなものに頼りだすのです。それはお金であり、権力であり、人脈であり、数の力であったりします。しかし、もしも信仰共同体が神の力以外のもので動き出そうとしたときに、主はその共同体をどう導かれるのか、それはもうお分かりですよね。崩壊へと導かれるのです。

 しかし、自分の力を捨て、祈るしかないことに気づいた共同体は、不思議なことに復活の力に満たされ回復し、周囲の人々を立ち上がらせる群れへと成長するのです。アーメン。