2023年2月26日 主日礼拝説教 使徒言行録2:1~13 「教会を建てる」

 寂しい思いをしていた人たちが癒される場所です。教会は。

 確かにこの物悲しい私の人生に、主がおられたんだと発見するところです。

 マタイによる福音書1章で宣言されていることを、ご自分の人生の中で徹底的に体験する。

 そんな歩みが実はあったのだと発見するところです。

 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」これは、「神は私たちと共におられる」という意味である。(マタイによる福音書1:23、新約2)

 癒された人たちには、力が満ちていきます。一つ発見すると、主がおられたのだという事実をまたたくさん発見できるので、一つ発見すると一つでは終わらない。やがて、もっとたくさんを見出すようになって、見出せば見出すほどに、内側にある主への信頼感は爆破的に増していくのです。

 今一度重要な言葉を思い起こしてください。この三週間言い続けてきました。それは使徒言行録1:8節に記されている「力」、「デュナミス」です。ダイナマイトです。

 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムユダヤサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」使徒言行録1:8、新約209)

 この力は、小さな種子からそのエネルギーが爆発的に放出されていくようなイメージ。それはダイナマイトが爆発するようなイメージ。だからデュナミスという言葉はダイナマイトの語源となりました。「小さなところから極大に大きく」です。

 それを主ご自身が、主の力として私たちの貧しい人生の中で証をお立てくださる。

 デュナミスが、まことにデュナミスであることを証するために小さな私たちが選ばれた。だから、何も心配することなく、私を主にさしだしていけば良い。

 こんな癒しが他にあるでしょうか。

 ただ、差し出されて生きてきたように、与えられて与えられて与えられつくして生きてきたのと変わらず、受け取って受け取って、それで何も自分はもっていないと自覚して、この与えられたものを差し出すと、そこから驚くべきことが起こる。

 

 さみしい思いをしなければいけなかったのは、恵みを実感させるためだったのかもしれない。私たち人間にはよくわからないけれども、神様は驚くべき仕方をもって、私たちの目を開かれるお方。私たちのこうであるべしとかそういう先入観を越えて、驚くべき発見が与えられる。

 こんな人生の境遇を背負うなんて私は不幸だって思ってきた、その出来事が、神の恵みを痛いほどに自分の身体の中で体験する出来事である。そんな場合がほとんどだろうと私は確信しています。

 

 本日の個所に記されているように「五旬祭の日がやがてやってくる」のです。その日は啓示を受け取る日です。五旬祭モーセが律法をシナイ山で受けっとったことを祝う祭りの日です。神様が山の上から語ってくださることを思い起こす日です。イエス様も、弟子たちに山の上で語ってくださいましたね。それはすでに与えられているのですが、今一度思い起こす日です。リマインドされて、味わって、自分においておこった出来事ではないのに、不思議と今の自分におこったこととして受け止めなおされて、確かに神様は山の上から私にお語りくださったんだと実感する日。

 

 不思議にも全然私と関係ないことのように思えていたことが、私の内側で脈打ちはじめる日。

 命の躍動が起こり始める日です。

 

 その日には、「さみしさがいやされる!」。

 

 ディアスポラユダヤ人に対して主は語り始めます。そのために炎のような分かれた舌が弟子たちに与えられる。分かれた舌と言っても、かつてアダムとエバが堕落してしまったような、人間が神になっていこうとするような蛇の舌ではありません。

 炎のご臨在がある。神がそこにおられるということがわかる。神の心がここでということば。その言葉を語りだすために、弟子たちが整えられました。弟子たちは、自分たちの弱さの中に打ちひしがれつつ、ただひたすらに、主の約束の言葉に立って待っていました。

 俺がえらい、あの人につく、こっちに考え方をもっていく。同じ考え方の集団をつくる。そんな思いなどこれっぽっちもない。というかこれから、どうなるかなどもはやまったくわからない。しかし、主は私たちのために現れてくださって、約束の言葉をくださり、約束の言葉が成就する様をお見せくださる。

 

 これまでは、これができなかったんだと思うんですよ。自分でこうすべき、ああすべき、ローマ帝国に対して抵抗運動すべし、そういう思いが先だってイエス様を売り渡してしまったわけでしょう。メシアはローマの抵抗運動をすべし、だけど全然違うじゃないか。そんな風に思ってしまったからユダの裏切りがあった。

 結局自分たちの思い込みというのは頓挫するのです。

 自分の思いを捨てきらなければいけなくなって、みんな捨てて、みんなが死んだように自分の心を十字架にかけていく。

 

 バラバラの思考方法をもって誰がえらいのか、えらくないのか言っていた弟子たちが、そういうことはもはやどうでもよくなって、祈ることしかできなくなって。祈っているところに主が現れてくださる!

 

 イエス様は、鍵をかけていた部屋の中に現れ、言葉をくださるわけです。

 

 復活のイエス様の現れ方というのは、偶然というようなものではない。この記述を見ていく人たちすべてに対するメッセージです。

 

 鍵をかけている私たちの部屋に入ってきてくださっているのです。

 私たちが目を開いてみれば、鍵をかけていた私の部屋に、イエス様がおられる。「おはよう」とおっしゃる。赦しをすべて差し出されてそこにおられる。

 それを人生の隅々にまでわたって経験すると、そのことを味わえば味わうほどに、デュナミスが爆発していく。

 味わうその程度に応じて、恐ろしく爆発しはじめるのです。

 それは私たちの心の中でおこりますので、私たちが味わっていないと起こらない。

 

 聖霊が注がれると不思議なことが起こりました。集められた弟子たちが外国の言葉を話しはじめました。それは、あとで考えてまとめてみると、ディアスポラ状態にあったユダヤ人たちが各地で獲得した言語のすべてでありました。

 ディアスポラの散らされた離散したユダヤ人たちは、世界各地でさみしい思いを常にしてきました。中心のエルサレムに住むことができず、その中心にいる人たちからどこかさげすまれたように見られて。まるで忘れられてしまった周辺の民のような思いしかいだくことができなかったのです。

 しかし、主は忘れられてしまったかのように見えるディアスポラユダヤ人に対して、ご自分の目を向けてくださっている。

 そのことを指し示す内容が、「世界各地の言語で」イエス様の福音を弟子たちがかたりはじめたということなのです。

 ここに地方の名前が列挙されていますが。

 私たちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミアユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、リビアのキレネ側の地方に住む者もいる。また、滞在中のローマ人、ユダヤ人や改宗者、クレタ人やアラビア人もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」使徒言行録2:9~11、新約211)

 これは、まるっと世界中の地方の名前を円で描くようにトレースしていった地名の上げ方です。こういう描かれ方ってモーセの祝福の言葉のところでも使われていました。

 先週申命記33章でちょうど祈祷会で読む箇所でしたが。これはマルを描くことによって、全部という意味を強調しているのです。それから主の約束が完全であることをあらわしているとも考えることができます。

 主はこのようなさみしい思いをしていたユダヤ人すべてに対して、耳を開こうとしているその民に対して、徹底的に語られるお方であられることを指し示すのです。

 この記述を自分へのメッセージとして受け止める人は、時を超えて主が語りかけ続けてくださった、自分が主の言葉を聞く民であったことを発見なさるでしょう。

 私も神学校の時を思い出します。さみしい思いをして、絶望しつつ、失望しつつ、自分のふがいなさを嘆きながら、三鷹東京神学大学から、その周辺を泣きながら気持ちを紛らわすためウォーキングしていた時。。。主の御声が響いていました。

 私は主、あなたの神、あなたを奴隷の地、エジプトの地から導き出した神である。

 神様が奴隷状態である私を解放してくださる。解放の主。自由の主。癒やし主であられることを、私の人生のすべてを通して宣言してくださる。そのメッセージを私は遠い昔に受けていたのです。それに今気づいている。20年。。。

 いかに自分が捕らわれの身になっているのか。そのことにさえきづかない。きづかないことにきづくための20年。。。

 しかし、主が私の身体のすべてを通して、ご自分が解放者であられることを宣言なさる。どうしようもない、この私の人生のすべてを通して、主が救い主であられることが証される。私の愚かさがオープンにされ、私が打ちひしがれれば打ちひしがれるほどに、主は語り、語りつくし、ご自分を現わしてくださる。

 私は主、あなたの神、あなたを奴隷の地、エジプトの地から導き出した神である。

 

 誰一人忘れない。マルっとディアスポラユダヤ人、すべてに対して主はメッセージをくださった。このことを通して、ユダヤ人が回心して、教会が強烈に成長していきました。一日に加わった数は3000人の日もあった。

 というのも、こんな私に私のすみずみにいたるまで。

 わたしを放置しているわけではない。

 そんなことを心の底で確信してしまったらそりゃ、力が出ます。

 エンジンが爆発しはじめるのです。

 

 私のなすことすべて、主が伴ってくださって、主がご自分の力を証してくださるのですから。ですから、ペトロとヨハネはもはや「わたしを見るのをやめてください」ではなくて、「わたしたちを見なさい」ということができるようになったのです。

 もちろんこの時だってそしてこれからもずっとペトロとヨハネは天にあげられるまで、肉の限界の中にいるわけですよ。だから、罪だって起こしてしまったかもしれませんよ。全然完璧ではない。しかし、ここにおられる私たちに働いてくださる神様の姿を見なさい。

 変化させられている私たちを見なさい。今この私を通して主があなたに触れようとしている。その主の御腕を見なさい。そのことを信じた民のところで癒しが起こりました。立ち上がることができなかったものが立ち上がった。

 

 これは、私は単に肉体の癒しのみを指し示しているのではないと思います。精神的にも、どうにも立ち上がることができない状況。

 もう自分は社会からも家族からも忘れられてしまっているのではないかと思えるような現実。その只中から、主だけは私をあきらめずに、常にご覧くださっている。そのやさしい御手をもって、何があっても、ご自分の力を私の身体を通して現わしてくださる。

 そのように信じるもののところで出来事は起こる。

 

 主は私を忘れてはおられない。アーメン。