2023年4月16日 主日礼拝説教 使徒言行録4:13~22 「見聞きしたことを話さないではいられない」石井和典

 使徒ペトロとヨハネの言行で、ユダヤ教の当局(祭司長、サドカイ派の人々)はどうしても承服しかねることがありました。

 「復活を宣べ伝えている」ということでした。

 先週もお話しましたが、復活についてはユダヤ教の体制側(祭司長、サドカイ派)の人たちというのは基本的に受け入れることができなかったようです。

 というのも、自分たちが持っている既得権益というかポストというか、そういったものを一新してしまうような思想や考え方というもの、「復活して新しくなるのだ」というような発想自体を受け入れることができなかったのです。

 

 イエス様ご自身がおっしゃっていたことも、現状のユダヤ教の側からしたら、体制を崩されてしまうのではないかということさえ予測される内容ですから。対抗意識や敵愾心に燃えてしまうのものわかります。

 イエス様はこんなことをおっしゃりました。

 

 律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。(マタイによる福音書23:27、新約45)

 

 イエス様がこのような発言をしているものだから、弟子もまた同じように追われてしまうわけです。ペトロとヨハネユダヤ当局にどうしても捕らえられてしまう運命にあったのだとも言えます。

 

 しかし、彼らは恐れません。

 なぜなら、彼らは見える現実の推移を無視しているわけではありませんが、目の前の現状には恐れを抱いてはいませんでした。

 恐れていたのは「物事を起こしてくださる主の御手」でした。

 

 本日の場面は、弟子たちによって足を癒してもらった男。その出来事によって人々が5000人も信じるという出来事が連動し、まるで暴動でも起こったかのような騒ぎになっている。そのありさまに恐れをなしたユダヤ教の権威者たちがなんとか事態を収束させるために、使徒たちを呼び出して報告を聞いている。そんな場面です。

 

 使徒たちは当局者たちを全く恐れていません。

 閉ざされた人生を歩んできた一人の足の不自由な男。その人自身の能力や財産や持っているものに全く関係なく、彼の人生に一筋の光が投じられ、そこから風穴があけられ、驚くべき奇跡が起こり、奇跡によって5000人もの人びとが信じはじめ、自分の人生においても同じことが起こるのだと希望をもちながら人々が祈りはじめるという出来事が起こった。それはすべて信じる神の御業だと受け入れていたからです。

 

 祈りに主が応えてくださるということが、5000人という規模で一人一人の内側に起ころうとしている。恐れるべきは、社会から見捨てられた一人の人を復活させ立ち上げてしまう主のお力のみでした。

 

 ペトロとヨハネの姿は「堂々と」と記されています。これはギリシャ語で「パッレーシア」という言葉です。哲学者たちが雄弁に会堂や議会で堂々と真理を語るような場面において良く使われる言葉でした。

 使徒たちの前にいたのは、そのまさに哲学者たちのような人々でした。雄弁で非常に高度な教育を受け、あらゆる知識に通じて、しかも政治力をも抱いているという集団です。

 ペトロはもとは漁師です。社会的に高い立場でも、権威も持っていなかった。学もない。

 

 驚くべきことに、ユダヤ教の権威者たちは、この小さな小さな漁師の言葉を恐れていたのです。

 

 そこには力があったからです。目の前で一人の癒されざるひとが癒され、人々が5000人という規模で変化しつつある。

 大津波のような状況を恐れないでおることができる人はそこにはいなかったのです。

 

 全能の父なる神の御業。

 そこら中からあつまってきてやがて一つの流れとなって、人々を覆いつくす。こんなことって人間には全然予測不能です。

 

 一人の人から爆発が起こって、5000人って考えられますか。

 しかし、主はそういったことを起こすことがおできになるのです。主の御業こそほめたたえられるべきです。

 人間は何か計画して行って、それが自分たちの思惑どおりになって、それがすぐつぶれていくということを目の当たりにする。

 

 主の御業というのは、長年にわたって永遠に渡って力を発揮する。2000年後のこの私たちがペトロが受けた力によって励まされる。神の御業を信じはめるということが起こる。それは5000人という小さな小さな規模でさえない。現状の世界のクリスチャンの22億人という小さな規模でもない。

 

 この一瞬の時代の私たちでさえ22億、それが何千年も積み重ねられている。

 

 冷静にいろいろ考えると主の力の偉大さに恐れをいだきます。

 信仰によって固められ、力を付与された神の言葉、聖書。

 この聖書に向かって私のこの凝り固まった小さな、偏りだらけの目で、このことを信じれるとか信じれないとか、いやぁ、信じがたしとか。

 風前の灯にすぎないこの小さな私が、神の御業に対して一体何を言えるのだろうか。

 と冷静になれば愕然としてくる。

 いままで聖書を読んで、好き放題自分なりにいろいろ考えて、聖書の箇所も選り好みして、読みたいところだけ読んで、信じられるところだけ信じて、信じられないところは全部放置して。

 「おれはなにやっていたんだろう」って聖書を前にして愕然とする。黙想すればするほど。

 

 主の御業の偉大さの前に、屈服し、自分を捨て、自分の思い込みを捨て、自分の自我のこだわりも捨て、ただ、聞こえてくることを受け入れるというところに行かざるを得ない。

 このような態度になるために、愚かにも20年という時間が過ぎ去った、というのが私の実感です。

 

 主が見えるようにしていってくださっている。その癒しの奇跡はいまここで起こっている。

 目を開くと神の御業と神の守りがそこら中に見えます。

 しかし、私たちの目は肉の目によってくらまされ、皆が自分の自我や、誘惑や、欲望の只中で戦っている。

 肉の目に負けてしまってもはや「神が私たちに何をくださっているのか」が見えなくなるということがそこら中で起こり、自分の視野だけでものを考え、自分の算段だけでものごとを計画し、自分の裁く裁きで人を心の中で裁き、挙句のはてに心の中で殺し始める。

 

 しかし、主が目を開こうとされている。

 主イエスの僕たちの姿を通して。ペトロの大胆な姿を通して。一人の漁師。無学で、何も語るものをもたなかったようなものが、この世界一の知識人たちに恐れをいだかないのです。

 出来事が起こっている、主がそこにおられるのが見えるからです。

 恐れられるべきユダヤ教権威者こそが、漁師ペトロを恐れている。

 

 ペトロには見えていたから。神の大津波が。

 

 一人の人の命に徹底的に触れ、一人の「人生を奪われたもの」のために、仕える、奴隷となり、たらいをもって、手拭いを持ち、足を洗ってくださる主イエス・キリストの姿。それがペトロにははっきりと刻みつけられているのです。このお方にだけ力がある。

 主よ、私の足などあらわないでくださいと言っても、主イエスはペトロの足を洗ってくださいました。ペトロが命にあふれるように。

 ペトロ自身「神が私に触れてくださるのだ」という絶対的な確信をもてるように。

 ペトロがこの汚れた私に触れてくださるのだから、あの人にも絶対に触れてくださるのだと確信できるように。

 

 そのイエス様の姿が彼には見えるから、一人の男のために命をかけて立つことができました。

 どんなに大きな力が目の前に迫っていても。主イエスの姿が彼には見える。人々が神以外の何かに恐れをいだき、その恐れによって動いても、ペトロには主イエスの姿が見える。

 最高法院や議会を敵に回しても、この一人の命を守られる主イエスのお姿が彼には見えているのです。

 だから、目に見えるものをもはや恐れなくなっていた。

 

 ペトロとヨハネは最高法院に向かって言います。

 しかし、ペトロとヨハネは答えた。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、ご判断ください。私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」使徒言行録4:19、20、新約215)

 

 先日、中部教区中高生修養会において青山学院大学の教授の森島豊先生が講師としてお越しくださいました。私は森島先生と同時期にご一緒に東京神学大学の学生として歩みました。寮のお風呂でよくお話をしていましたことを思い起こします。

 

 森島先生の、中高生修養会でのお話が強烈に頭にのこっています。

 使徒たちの集団はすぐに不信仰に陥ってしまうのだと。主イエスが、復活されて、その復活された姿に出会っても、その中に「疑うものがいた」と記されていると。

 マタイ福音書の最後に28章には信じる者たちの不信仰が描かれていると。

 そして、その唯一の処方箋を主イエスはもうすでにお語りくださっていると。

 

 唯一の処方箋とは何かというと。

 

 エスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:18~20、新約59)

 伝道しなさい、ということなんだと。

 

 伝道しないから不信仰に陥る。主がおられないというような不信仰に陥ると、どうなるかというと、創世記を見て下さればわかりますが、争いが起こる。

 当然です。

 

 主の御業に参与して、主の御業をそこに見て、インマヌエルを確認しつづけていないと、我々の視点は即座に曇り、茨とアザミが私たちの心を覆いつくしてきて、カラスが御言葉を取り去って、自分の心自体が石地のように硬くなり、どうにもならんのです。

主の御業のみもとにちゃんといないとわからなくなる。

 

 伝道しようとするでしょう。

 するとこのパワーある言葉、聖書に向き合って、伝えるためにまず自分が咀嚼しなきゃいけなくなるんですよ。

 

 そうすると、心燃やされますし、同時に自分の内側にある煩悩も焼き尽くされますよ。いかに自分が愚かしいことに引っかかり、躓き、自分で自分を躓かせてきたことか気づきますよ。

 自分の思いが焼き尽くされて清められていくわけです。

 

 すると自分自身こそが変わらなければいけなくなる。

 

 御言葉を聞いて、咀嚼してそれを発話(アウトプット)しようとしないとどうなるかというと、自分の思いに溺れるというところに陥らざるを得ない。

 そういった姿をたくさん自分の中にも、他者の中にも見てきました。

 伝道していないと、方向が主に向かっていかないんですよ。自分の思いに向かっちゃう。

 そうすると、大変なことになります。あの荒れ野で民がモーセに文句を言いまくったような状況になります。不平不満と悪口のオンパレード。

 カオスです。

 主がおられるのにそこに主を見ない。

 

 神がおられるのに、自分が神のようになろうとしたあのカオス。神がおられるのがわからんのです。

 

 主の言葉を知らせ、一人の人と向き合おうとすると(伝道しようとすると)ガチっと主とベクトルがあうので、ものがさらに見えるようになります。

 実際に主の御業を体験するので、ますます見えるようになって、ますます見えればもっと御言葉を求めるでしょう。もっともとめれば、もっと見えるようになって、祝福から祝福の歩みをもうすでに主がご準備くださっていたことに気づくのです。

 しかし、それは伝道しないとわからんのです。

 

 だから、主イエスは弟子たちの不信仰に対する唯一の処方箋として、伝道のコマンドメント(ご命令)をくださったのです。

 

 一人の人に伝え、その人が復活していくありさまを見ていれば、視点はずれません。

 しかし、そうじゃなかったときに、自分たちの正しさの主張のしあいだったり、なんか絶妙に方向性がズレて、ぶれて、本質が見えなくなって力を失うということが起こります。

 

 主イエスの言葉ってめちゃくちゃ重いですよね。なんでこんなことまで見透かしておられるのだろうって寒気がしてくるというか。恐ろしくなってきますね。

 しかし、処方箋がすでにあたえられているので安心なんです。

 

 一人の闇に沈んでいる人たちを立ち上げる力がすでにある。

 だから、その一人のために出て行って、本質的に重要なことを選び取ることができるように動き出しましょう。

 5000人もの大爆発が起こったら良いですね。しかし、そんなことおこらなかったとしても、私たちの内側では考えられないぐらいに大きな変化がおこりますよ。間違いなく。

 

 私たち自身が変化するということがまずおこります。伝道しようとすると。

 使徒たちの姿をみれば、伝道は難しくないことがわかります。

 「自分が受けたものを語り、信じた人に手渡す」だけ。

 炎が内側で燃え上ってくるのを使徒たちと一緒に経験しましょう。アーメン。