2023年4月23日 主日礼拝説教 使徒言行録4:23~37 「心も思いも一つ」 石井和典

 主イエスの心が注がれてきて良くわかるようになると、力に満たされます。

 黙っていれなくなる。恵みの証人としてたたないとどうしようもなくなる。

 そういう状態になっているかどうかという、一人の信仰が教会共同体にとって重要です。教会は一人の人の信仰の爆発から生まれてきました。

 その一人一人ががちっと結びあって、自分の自我のためじゃなく、主の目的のためにスクラムを組んでいく。

 

 主イエスの心がわからずに、視点がブレブレで見るべきものを見ていないから力が満ちてきません。力が満ちてこないと教会共同体のユニティ(共同性)は崩壊しがちになっていくことでしょう。神の力が満ちてくると不思議と秩序が与えられ、そこなわれていくとカオスになる。

 

 力の満たし、内圧が高まっていないから、方向性がおかしくなって、方向性が自我とか貪欲とかに向かうので、その方向性に向かったら人と人とのぶつかり合いが起こります。

 内側が聖霊の力の満たしを受けていないとズレまくるのです。

 

 そのためには、使徒たちがたどったようなプロセスをどうしても通るしかない。

 それはどんなことかというと。

 「他人のではなくて、自分自身の神に対する裏切りというものが痛いほどに示される」ということです。「私自身に特別に主が癒しをもって、傷一つ一つに触れてくださるのだ」という確信です。

 

 こういう確信が与えられている使徒たちは、放っておいても大丈夫です。

 

 彼らは、死の瞬間までも主イエスを証してすごしました。誰に何を命令されたわけじゃない。なんか組織からコマンドメント(命令)をもらって命がけで、献身したというのではない。

 

 ひたすらに、主イエスとの関係の中で、主イエスに対する感謝の応答として生を歩んだのです。だから、べつに教会から命令をうけていなくたって、彼らは自ら殉教していくような状態にあった。

 それも感謝の応答でです。主イエスがくださった命に対して、主に向かって彼らは反応していたのです。

 

 主イエスを証するために、ほとんどの使徒が処刑されてしまいましたが、その絶対的な孤独の中においても、彼らは一人じゃなかったのです。

 

 だから、大事なポイントというのは、自分がどれだけ深く主の御心を踏みにじるものであるのかを悟ることです。

 主を殺し、主イエスを十字架にかけるのはまさに私なのだという自覚です。にもかかわらず、それでも私に触れてくださるので、私はこの世界になにが起こったとしても、見捨てられることはないという絶対的な信頼。

 

 その自覚が生み出される基礎は、いかに「自分が深く主の御心を踏みにじるのか」というところを悟るというポイントを通らないといけないんですね。

 それがキリストのはじめの弟子、使徒たちの歩みだったことを思い出してください。

 

 十字架のもとから逃げましたね。三度知らないと言いましたね。復活が予告されていたのに、全部別の思いによってふっとびましたね。復活のイエス様を目の前にしても「疑うものがいた」とさえ記されています。

 

 弟子たちの恥ずかしいさまがあんなに沢山、裏切りがあんなに強烈にクローズアップして書かれているのには意味があります。その自らの裏切りという痛みのプロセスを通って彼らには絶対的な平安。シャロームが備えられたからです。

 

 自分の裏切りについて消去しているような証とか、自分の信仰深さを主張しているようなときの歩みって、全然力がありません。ファリサイ派とか律法学者の主張って全然力がありません。社会的な威圧感はあるかもしれないけれども、立ち上がることができなかった人を立ち上げるのではなくて、逆に立てなくするような死に満ちた状態になる。

 

 使徒たちが、ユダヤの民に語っているように、ユダヤの民こそ「メシアを排除する」のです。絶対にそんなことしないだろうと思っているような人。メシアをずっと待望していたユダヤの民。その民は的確に救い主、メシアを迎え入れることができるだろうと考えられるような人。一生懸命聖書を勉強してきた人。

 

 そういう人こそ大いに神様の御心を裏切るのです。それが人間の偽らざる現実です。

 

 ユダヤの民というのは、今も、現在も、嘆きの壁のところで、エルサレムの回復を願い続けている。私は5月のイスラエル訪問でもどうしても行きたいと思っているのがダビデの墓です。

 彼らは、本当に身体を震わせながら、全身全霊でダビデの再来を祈っているのです。ダビデの再来というのはメシアです。キリストです。

 あの姿をみて、なんて私は祈ってこなかったんだろうか。祈りに献身している牧師のはずなのに、この人たちとは全然ちがう。この人たちはメシアを求めて求めて求めている。それが伝わってくる。

 

 メシアのことを理解していると思い込んでいるクリスチャンである私こそが、祈りの力というものを全然理解していないことを知ってしまったわけです。

 

 もうイエス様が来られているのですが、彼らはまだ来ていないと思って祈っている。その魂というものに私は感動させられて、私自身の回心というものが起こったことを思います。

 

 おれこそがどうしようもない不信心もので、わたしこそが、主イエスの心を踏みにじり、私が牧師でありながら、これまで主の御心を踏みにじり続け、牧師でありながら、牧場の羊である信徒の魂を殺すようなことをしてきてしまった。

 そういうことに気づいて、徹底的に自分が愚かなものであるのだという自覚のもと、ただ主のもとにひざまづくしかないと悟って行く時に、聖霊の満たしが与えられ、聖書に対する新しい理解力が備えられ、主がメッセージを常にくださってることに気づいて、常に耳をそばだているというような歩みに召されていくのです。

 そうすると力の充足を得られる。

 

 私こそがメシアを十字架にかけてしまうものでしかないという罪の自覚。しかし、それでも見捨てられはしないという絶対的な信頼。

 

 「不信仰への自覚」というものが同時に癒しであるということを、私は今毎日のように経験しています。牧師室の扉の所にメズーザという木の箱をつけているのですが、そこに「全能の神」と記されているというか、その象徴であるシンというヘブライ語が記されているのですが、それを触りながら部屋を出る。その時にすでに、主の全能さを見ていない自分を見出します。

 というのも、いま早天礼拝でダビデの記述を読んでいるのですが。ダビデはいついかなるときも、時に失敗はあったとしても、どんな状況になろうが全能の神のご支配を見ていた。

 だから、彼はその信仰の通りにどんな戦いにおいても負けることはないのです。全能の神の力をもとにして彼ら与えられた使命にとりくんでいたからです。彼自身の力というのは微々たるものです。

 ダビデのようにいついかなるときも、アゲインストな(逆境の)状況であっても、敵が前にいても、変わらずに主の約束を見ているのかと問われています。実際は全然違うのですよ。いろんな状況が迫ってくると、その迫ってきた状況がすべてになって、苦しみがすべてになって、そこにこそ主がおられて、例え私の首元にナイフを突きつけてくるような敵が現れたとしても、その背後に主の力があって、主は義を行うお方と信じる信仰がダビデの信仰です。

 

 先週も北陸学院中高のイースター礼拝の説教をさせていただいたのですが、後ろに宣教師の先生がたがゲストとして来られていて、その先生がたの姿をみて心を熱くさせられました。青雲の志をもって、この宣教者の墓場であり、実りがほぼ与えられない世界一貧しい国に乗り込んで来られる宣教師のように変わらず、主の御手を見ようとしているのかと問われている気がしました。

 

 条件とか、環境とかが決定的な決め手ならば、ここに宣教師の先生方は来ないでしょう。プロテスタント伝道160年以上たっているにもかかわらず、実りが驚くほどにすくないという土地は日本以外にありません。

 

 しかし、彼らは何があっても来る。主の御手を見ているからです。

 いついかなる時も主のお取り扱いがあると信じているからです。

 とりわけ、罪の自覚の中で徹底的に弱くさせられているようなときにこそ。

 

 ペトロなんてすごいですよね。3回知らないって言ったから、3回主から「私の羊を愛するのか」って聞かれる。まるで当てつけのようにというか、裏切りに対する自覚を強めさせるかのように。

 しかし、その自覚の中で確信されるのは、そんな私を見捨てないということでしょう。絶対に見捨てられることはないのです。

 

 こんな私を見捨てないなら、あんな私を見捨てないのなら、キリストを十字架にかけ、兄弟姉妹を心の中でいつの間にか殺し、それによって自らの自我を勝ち誇ろうとさせる愚かさの中の愚かさに落ちこんでいるこの私をも見捨てないのならば。

 

 私は死んでも見捨てられないのならば。。。

 

 そこに立つと、ふつふつと、内側から炎が、湧き上がってきます。

 

 

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです。」ルカによる福音書23:34、新約156)

 この主イエスの十字架の言葉が成就するために、すべてが動くということを知ることができます。我々は。

 だから、どんな人でも神に迎え入れていただける。

 その言葉の実現のために、奇跡が次々と当たり前のように起こる。

 

 裏切者のユダは裏切ったのち、自らの罪に気づいて、自分で自分を裁き自決してしまいました。しかし、あの裏切りの後、自分で自分を裁くことをやめて主イエスのもとにボロボロの精神を携えて、弟子たちのところに再び帰り、そこで主イエスの言葉を聞いていたらと私はいつも思ってしまいます。

 タラㇾバはないのですが、主イエスはご自分でお語りになられた言葉を貫徹されるお方なので、彼に癒しの力が徹底的にのぞんだことでありましょう。

 

 主イエスの言葉が語られ、貫徹されて、守られるという奇跡がつぎつぎと起こる。

 それを信じることができるのがクリスチャン。

 その道をペトロとヨハネという使徒は私たちに指し示すのです。

 以下の言葉を心に刻んでください。

 

 主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、堂々と御言葉を語れるようにしてください。どうか、御手を伸ばし、聖なる僕イエスの名によって、病気が癒やされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、堂々と神の言葉を語りだした。使徒言行録4:29、30、31、新約216)

 

 主イエスの約束の言葉の実現としての、奇跡。

 これをキリストの共同体が見ることができていると、その心と思いとは一つになると記されています。

 

 一つになっていないときは、どうでしょう。。。

 「イエスの約束の言葉を語り、それが実現するために奇跡が起こされる。」

 という主の行動、主の主権はどこかにふっとんでいるんじゃないですか。

 

 自我とか、感情とか、人間的な洞察力とか。そういったことが真ん中にあるときには、「主イエスの約束の言葉の実現、そこに向かうための奇跡」なぞという使徒が超強調していることはあたまからトンで行ってしまうでしょう。

 

 長年にわたって、どうしてこんなに自分は力がないんだろうとか、どうして日本の教会は世界中に出ていくほどの体力を得ていないんだろうとか。

 どうしてどうして、どうして。という疑問についに答えが与えられた気がします。

 簡単に言えば、聖書をちゃんと読んでいないということだと思います。

 

 うすうす感ずいてはいました。。。「力のベクトルがおかしい」と。

 しかし、こうやってまっすぐに主の御業に向き合っている使徒たちの姿をみると、その方向性が正されるのを感じます。

 

 使徒的共同体、教会のカギは使徒です。我々の方向性を正す言葉がここにあるのを感じます。

 

 まぁ、相変わらず、信仰の問題って創世記のはじめから全然変わらないというか、2000年前の問題も変わらんし、今の問題も変わらないですね。復活を前にして、復活の言葉が与えられていたことなどどこかに吹き飛ばしてしまう弟子たち。そんな弟子たちはわたしよりももっともっと信仰深かったと思います。

 でも、それでも主イエスの約束の言葉が吹き飛んでしまうのです。

 

 にもかかわらず、主イエス使徒的共同体である教会を見捨てない。

 その自覚のもと、もうそろそろ目を覚ましませんか。

 

 力がないことを認めると、どれだけ主を裏切っていたことかを認めると、不思議と力が満ちてくる。この不思議な信仰の逆説を使徒たちと共に味わいましょう。アーメン。