2023年3月19日 主日礼拝説教 「専心する」石井和典牧師 使徒言行録2:37~47 

 聖書の言葉が自分の言葉として内側で響き始める。光となる。決め手となる。食べ物となる。飲み物となる。聖霊が注がれると起こることです。ガチっと連結ができる。

 連動が生まれて、古代からのパワーを私たちが使えるようになります。

 

 神の霊が注がれていないと、言葉が分断する。私の力とはならない。ましてやダイナマイトのような爆発を生み出すと主がおっしゃられたようなデュナミス(力)とならないのです。

 

 初代教会の人々は、祈ってひたすらに待っていると(自分の力を捨てると)、主の霊に満たされていきました。このように記されています。

 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。使徒言行録1:14、新約210)

 

 その力に満たされたペトロが語る言葉は、「十字架の言葉」でありました。主イエス・キリストの十字架を指し示します。しかも、それがユダヤの民に向かって真っ向から語られる。

 

 それは、「あなたがキリストを十字架にかけた」「義人だと思っているあなたこそが罪人なのだ」というメッセージでした。

 

 これが通るというのは、ラクダが針の穴を通るように難しい(マタイ19:24)ことです。

 

 自分の罪を認めることほど、難しいことはありません。

 自分自身の信仰生活も眺めてきましたし、牧師として一人の羊に寄り添う幸いを得させていただきました。そこですべての人の転機となるのは、間違いなく「悔い改め」です。ここから爆発がはじまる。これがなければ何もはじまらない。

 

 それは、すなわち。「あなたがキリストを十字架にかけた」ということを受け取ることであり。あの人が罪人ではなくて、「私こそが罪人であった」のだということを受け入れることです。

 これが至難の業なんです。

 どうやってこの奇跡がおこるのか。

 それは神の導きとしか言いようがありませんが、奇跡が起こるのです。

 それが聖霊の御業です。

 

 だから、パワーのある教会と、パワーのない教会って一瞬で見分けがつく。

 「私が罪人であった」が言外にもれ出ててしまっている教会共同体や個人は力がある。

 しかし、「あの人が罪人です」と言い張って、争っている教会や個人には力はありません。

 

 人間って見てて思うのですが、「何が漏れ出ているのか」ですよね。

 

 聖書において人が器と表現されるのがはじめは違和感がありましたが、クリスチャンにさせられて20年たちますがやっと良くわかってきました。例えばこんな箇所です。

 しかし主よ、今、あなたは私たちの父。私たちは粘土、あなたは陶工。私たちは皆、あなたの手の業です。イザヤ書64:7、旧約1151)

 

 何をおさめていて、その杯がどのように溢れてくるのか。

 良いものも、悪いものもおさめることができます。そこから何かが漏れてでてきちゃいますね。

 人間って「何が漏れ出ているか」ですよね。

 

 ペトロは聖霊を受けて、民に語りだしたとき。彼が語らなければならない要旨として、この使徒言行録2:38~39ほどに簡潔なものはないと思います。超重要であり、教会はこの世があるかぎりこの言葉を刻むべきでしょう。

 そこで、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊の賜物を受けるでしょう。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもたちにも、また、遠くにいるすべての人にも、つまり、私たちの神である主が招いてくださる者なら誰にでも、与えられているものなのです。」(使徒言行録2:38~39、新約212)

 悔い改めと洗礼です。バプタイズされていくことです。バプトーです。「浸す」です「染める」です。浸りきるのです。神の愛に。その入口は「悔い改め」以外ではありません。

 

 宗教改革者のルターの言葉には、超強烈な爆発力があります。

 まさに、使徒言行録1章にしるされ主イエスが約束されたデュナミスです。それがあります。ルターがヴィッテンベルク城教会の門に張り出した言葉です。「95箇条の提題」の冒頭にはこのように記されています。

 

 「われわれの主であり、師であるイエス・キリストが、『悔い改めよ』と言われたとき、主は信じる者の全生涯が悔い改めの生涯であることを望みたもうたのである」。

 

 もう、すべての教理も神学も、聖書的な知識もわかりきって学びきっているそういう人たちに向かってルターはこの言葉を叩きつけるわけです。

 

 なぜ聖霊によるデュナミスが起こらないのか。それは「自分がキリストを十字架に架けた」にまことには立ってはいないからです。

 「私こそが罪人の中の罪人」ではないからです。

 悔い改めて、神の方向に向きを変え続けるという、自分を亡くすという無私の世界を知らないからです。 

 

 極端な言い方をしますよ。

 

 私たちは自分の「悔い改め」も「洗礼」もよくわかっていないから力がないのです。

 

 洗礼というのは、主のご愛の中に徹底的に浴するという、浸されるということです。

 これがわかっていれば、隣人への適切なかかわり方がわかります。

 主がその人を見ておられたように見るということです。徹底的に救いを求め、徹底的に耐え続け、しかしそれでも成長や帰還をのぞみつづけ、決して希望を最後の瞬間まで捨てないということです。(放蕩息子の帰還を見てくだされば、神が人にどのように接せられるのかがわかります。→ルカによる福音書15章)

 ここにこそ力がある。

 

 サムエル記上を読んでいますと、サウルというイスラエルの初代王様は悪の権化と化していきます。ダビデを握りつぶそうとしていきます。悪の中の悪。闇の中の闇。闇落ちした人。そう言うこともできるでしょう。

 しかし、聖書を細かく読んでいくと、サウルに対する主の言葉にハッとささられるのです。

 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをした。あなたの神、主が命じられた戒めを守らなかった。今まさに、主はあなたの王権をイスラエルの上にとこしえに確立しようとしておられたのに。(サムエル記上13:13、旧約431)

 

 主はサウルという悪の王に対して、この王の王座がとこしえに続くようにという計画をはじめはお持ちであられたのです。

 しかし、それをサウル自身が反故にした。神の心を裏切ることによって。

 

 主は良いご計画をお持ち。永遠のご計画をお持ち。しかし、それらを無視して、自分のやりたいようにやる。それがサウルであり、私であり、皆さまであるということです。

 

 私たちは激しく心を回転させて、回心して歩むしかありません。私が思っていることと、主が思っておられることは違うからです。回転回転回転、回心回心回心です。

 私の思いは、あなたがたの思いとは異なり私の道は、あなたがたの道とは異なる(イザヤ書55:8、旧約1137)

 

 悔い改めて、洗礼を受けるとどうなるかというと、ギフトとして聖霊を受ける。

 

 聖霊はギフトです。贈り物。プレゼント。それが賜物です。

 主の主権が見えてくると、プレゼントだと理解できます。主の御手が見えてくると、与えられたものすべてが贈り物であるとわかります。そもそも全部ギフトですよね。それが見えるかどうかです。

 聖霊が満ちれば満ちるほど、この命がギフトであることに気づきます。

 

 聖霊が満ちると、あのダビデのように、パウロのように、自分がちっぽけな存在にすぎないことを認めて自分が小さなものにすぎないことで喜べるようになります。

 自分が蚤のようであること、犬の屍のようなものだ(サムエル記上24:15)とダビデは言いました。

 パウロも自分が罪人の中の罪人(テモテへの手紙Ⅰ1:15)だと言いました。

 

 それは神の力を認めているからです。神がセンターになっている命だからです。神と比べると自分がいかに小さなものかと。人との比較は煩悩というか悩みが噴き出してきますが。神との比較は神賛美が生まれてくるのです。

 

 すべての起点が神なのです。創造のはじめの秩序からそうですし、すべてが与えられていまここにあるわけですよね。我々は何で生きているのか誰一人知りません。。。神様だけがご存じです。すべての起点が神にあります。

 

 聖霊の力が満ちてきて暖かさがその内側に与えられてくるとどうなるでしょうか。

 

 人が暖(だん)を求めてやってくるのです。

 

 2000年後の私も、暖を求めて初代教会の人々を慕っています。

 ここは暖かい暖かい。

 なぜかって、神の御業が見えるからです。

 なぜかって、神が私たちをどう思っていてくださるのかで満ちているから暖かい。

 自分たちの無力さを痛いほどに味わって、誰も自分の力を主張するものなどいないから暖かい。

 

 痛いほどに自分たちが、ゴミ粒よりも小さな者であると自覚しているから、暖かい。

 

 キリストに敵対していたものであり。

 神に対して役にたつどころかキリストの邪魔をしていたことに自分で気づいている人たちだから。

 

 しかし、それでも見捨てずに主は変わらずに「おはよう」と挨拶してくださってやってきてくださった。

 

 大切なことに気づかず主が語られた言葉を捨ててしまうものであるにもかかわらず、それでも何度も何度も語りに語りつくし、気づくことができるまで語り通してくださって、気づくようにしてくださって聖霊の力をお送りくださった。主に憐れまれ、憐れまれ、憐れまれ、憐れまれ尽くした存在にすぎないと気づいているから。暖かい。

 

 食べ物であり、飲み物であり、エナジーであり、爆発力であり、人を復活させ、導く。って本当に心から思っていたら毎日集まるのはあたりまえです。食べ物を毎日もとめてそこに足を向けるのと同じです。だから、私は早天礼拝をささげていますが、ある人たちからはそんな大変なこと真似できません、すごいですね、なんて言われますが。

 全然大変じゃない。大変だと思っている人は、大変なことがなんだかわかっていない。

 飯を食わないほうが大変です。

 朝飯を食うのと一緒です。楽しみでしかありませんよ。一握りも修業的なつらい要素などありません。使徒たちがしていたことは当たり前の当たり前のことです。

 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。使徒言行録2:46、新約213)

 

 言うなればですね。

 あの人たちはちゃんと飯食っているから。なんかいつも喜びが満ちているよね。神とつながっているから内側から感謝が漏れ出てきてしまっているよね。

 それを顔を見ていたらわかる。

 なんであんないつも歌ばっかり歌ってうれしそうにしているんだろう。

 鼻歌歌いながら出てくるよ。

 ひたすら心を一つにしてっていうのは「専心して」とも翻訳できます。

 「専心すべきこと」を発見できた人たちって幸いですね。

 

 あぁ、羨ましい。私もあの人たちに秘訣を聞きにいかなきゃ。

 

 幸いですね。

 私たちは聖書の中に書かれている初代の教会と同じように召された。

 この教会のように歩む力を主が与えてくださると信じます。アーメン。