2023年3月26日 主日礼拝説教 「わたしたちを見なさい」石井和典牧師 使徒言行録3章1~10節 

 40歳の男の話です。彼は生まれながら足が不自由でした。彼が40であったというのは、この記事の締めくくりにしめされていることなので、とても大切なことでした。

 このしるしによって癒やされた人は、四十歳を過ぎていた。使徒言行録4:22、新約216)

 40って非常に重要な数字です。荒れ野の40年、イエス様が荒れ野で誘惑を受けた40日。40には「満ちる」という意味があります。「完全に」という意味もあります。

 

 彼が40年間足の不自由な男として歩んだということは、彼のこれまでの人生の大半、そして、予測されるのは、これからの人生のすべてを覆いつくすようにこれまでの歩みと同じように、差別と蔑みを浴びせかけられる人生というものを彼が送らなければならないということが予測されたということです。

 当時の社会においては、特に生まれながらの障害を持っている人は、差別され、神から刑罰を受けた人として扱われてきてしまっていました。

 

 そのような人生観を周りから突きつけられ、自分自身でももはや抗うすべも知らず。ひたすら物乞いをしながら社会的に蔑まれながら歩んでいくしかない。そんな日々でありました。

 それは、ある意味で「閉ざされてしまった」歩みであったに違いありません。

 

 しかし、その閉塞感に光をもたらすものが現れます。

 

 その者たちは、使徒。ペトロとヨハネ。彼らはまことに光を受け取っていたので、光を手渡すことができました。

 光を受け取っているので、渡すことができる。クリスチャンの特徴はこれです。蝋燭を持っているのです。だから人に渡すことができます。

 

 さらに、彼らは、主への信頼に生きるゆえに、祈るために何があっても時間を使うものでありました。

 当時の習慣では朝の9時、昼の12時、昼の3時に祈りをささげていました。一日中祈りつつ過ごしていました。

 

 神に向き合って、神に応答する瞬間。それが祈り。祈りに身を投じる者たちのところにはいつも光が投入されます。気づいても気づかなくても、祈っている瞬間、天から皆様のもとへ光が到達している。それをちゃんと受けとっているかです。光というのは神の視点です。神が私をみていてくださる。この感覚。それは聖書の御言葉を通して与えられる。聖書の御言葉は私たちの目を開いてくれるので、聖書の言葉自体が光です。

 

 ペンテコステ聖霊降臨)の日もそうでした。ここから光が輝きだしてくる。その光に触れると、人生が変えられてしまうのです。

 閉ざされた人生ではなくなる。

 

 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。(マタイによる福音書5:14、新約6)

 

 神様の語りかけは、常にあります。しかし、それに気づかない。でも、その気づかないものに対してたびたび形を変えて語りかけがなされていきいます。足の不自由なこの男性は、施しをどこまでも求め続けるという視点しかありませんでした。そう自分でも思っていて自分の人生をその枠の中でしか考えていなかったし、周りの人たちも彼を物乞いとしか見ていなかった。

 神の光が輝きだす尊い器とは見ていませんでした。しかし、そこからの視点の転換ということを主が起こしてくださるのです。

 

 みじめさから抜けだすということは並大抵のことではありません。

 自分の人生、自分がこうだと思い込んだその場所から離れることは至難の業です。一人一人人生観が全然ちがいます。その人生観を改めることはどうにもできない。

 私も私はこうだって「思い込んで」いる。

 しかし、光をもっている人たちの見方というのは違う。

 

 天来の光をもって見ようとする。すると、その視点、視野、ビジョンによって道が開かれる。

 光がわかっている人にじっと見てもらうって大事です。英語の聖書を見るとこの箇所は「gaze at」と記されている。「じっと見つめて」です。

 使徒たちに見てもらったこの足の不自由な人は幸いでした。神様がこの出会いを与えられたわけですが。この出会いによって、今まで全く思いもよらなかった視点というものが開かれていきます。まず何よりも、光を見るというところに彼は立つことができました。

 使徒を見るということを通して、光を見ました。

 

 私たちは人を通して光を見ます。

 大学生の時に、私に出会ってくださった方がいました。その人を通して光を見ました。イエス様を知るということがどれだけ恵み深いことかと。その先におられるイエス様にさらに近づきたくなりました。その光によって今まで導かれてきたんだと思わされます。

 光を持っている人がじっと私を見てくれて、その光によって導かれていることを信じることができる。また信じてくれたことによって、人生が動かされてしまうということが起こるのです。

 信仰の力ってすごいものがあります。

 イエス様がおっしゃられた通りのことが、使徒たちと足の不自由な人との出会いにおいて起こっています。

 

 そして、百人隊長に言われた。「行きなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどその時、その子は癒やされた。(マタイによる福音書8:13、新約13)

 

 足の不自由な男性は、まだまだ全然光を見ていませんが、使徒たちがこの人に光を見てくれることを通して、不思議な自分の閉ざされた人生の脱出ということが実現されます。

 

 人って不思議です。牢獄に入っていなくても自らを牢獄に閉じ込め、また人によって閉じ込められているということが起こっています。

 逆に、肉体がまるで牢獄におるかのような不自由さにあっても全く光によって自由にさせられるということも起こります。全身が麻痺しているにもかかわらず、目が輝いているという方がおられます。

 人間は極めて霊的な存在なんだと気づかされます。

 自由なのに、がんじがらめに自分を自分の鎖でしばりつけている人のなんと多いことか。

 

 しかし、大丈夫です。

 

 使徒の視点が回復されること。光が見出されること。光に照らされること。イエス・キリストとの出会いによってすべて変えられてしまいます。

 イエス様と出会うと、目が開かれ、自分の視点から抜け出し、偉大なる主の御業への視座が開かれ、恵みから恵み、祝福から祝福の歩みに入らせていただくようになります。

 

 私にはクリスチャンにさせていただいたその時に、そのように光を見せてくれる友がいました。私にとってはその人は使徒的な存在でした。

 その友の光にしたがって、そのまま心に炎が灯され、その炎が燃え滾るようにこころをあわせて、ただただ神様のこころに、憐れみに、そのご愛に自らをゆだねて感動できていたら。などというタラレばを考えてしまう。

 今この心につき始めた炎、炎が何なのかわかるようにさせていただくこの瞬間をはじめからって思うんです。もう20年も経ってしまいました。そうすれば、私の周りでもっとたくさんの人が救われていたんじゃないか。たくさんの人がもっと光を見ることができたんじゃないかと。

 

 しかし、主の心に集中しないことがいかにみじめで力ないことなのか。それに気づくための20年あまりであったのだとも思います。いかに、自分が愚かで愚かで愚かであるか。本当に大事なものを示されつつ、それに気づいたふりし、信仰の体を装い、すべて無視し、力を発揮しないで歩んでしまった。

 

 その痛い痛しい自分の姿を痛いほどに味合わせコテンパンに、罪に気づかせるための日々だったのだとも思います。

 

 痛いほど闇に閉ざされるっていうことがどうしても起こるんです。

 主の導きとして必然として、闇の中を通るということが起こるんです。そこでしか光を発見できないんだと思います。創世記1章の記述が「闇から光へ」と常に、「夕から朝へ」としるされていることと同じです。これこそ神の秩序です。

 

 神様が、守って守って守り抜いてくださる、それを確信するためには、「闇」の中にいなきゃいけなかった。

 

 立ち上がれないものを神の力によって立ち上げる。その心の内側から。そういうことを味合わせて人々を復活させるためには闇の中にある人が必要なのかもしれない。

 神様のような偉大な大きな視点を私たちはもてないので、どうしても、「なんでこんなひどいことに」とか考えますが。しかし、すべては主の栄光があらわされるための、お膳立てではないでしょうか。すべてがお膳立てではないかと思わせる、主イエスの御言葉があります。

 

 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ヨハネによる福音書9:1~3、新約180)

 

 なぜあの石井牧師はあんなに20年もの間くすぶっていたのか、やっと火がつきはじめた見たいだけど。「早く気づけよ」何やってるんだよと世は言うかもしれない。彼自身がバカなんだよ、不信仰だからだよ。人はなんでも言おうとすれば言えると思います。言いたいように言うと思います。私も自分について自分でいいたいように言いたくなる。

 

 しかし、大切なのは、主イエスご自身のご宣言です。

 

 エスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

 

 神の業が現れるために。神のご好意が明らかになるために。神がどれほどにあなたを思ってくださったことか。どれだけ忍耐してきてくださったことか。結婚式に読み上げるあの愛の言葉そのままを主が私たちに行ってくださった。

 愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。(コリントの信徒への手紙Ⅰ13:4~6、新約311)

 

 それに気づくための日々であったわけです。神が忍耐され、忍耐され、忍耐され。そこで愛が。だから、一筋縄ではいかない紆余曲折を経て、ドラマを経て、そこで「あぁ、これは神の業だったんだ」と気づくためなのです。何があっても神が皆様を見捨てていないことが明らかにさせられる。

 

 「こんなわたしでも見捨てられていない」

 を徹底的に確信して、この心を誰かにそのまま手渡す。

 

 死んでも見捨てない。キリストを十字架にかけても見捨てない。

 

 宇宙以上の価値である主イエスの命をかけてもお前を救い出す。

 

 どこの教会にいっても、躓くのです。

 神様の心を顧みないで、自分の好き放題にする「ドラ息子、ドラ娘がいる」。

 でも、それは必然です。

 

 なぜなら、主イエスに立ち帰るプロセスを皆が歩んでいるからです。

 光を受け止めて、光に生きるということに至るために、20年とか40年とかかかってしまう場合がある。というかもっと時間がすぎているのにまだ放蕩息子、放蕩娘という場合がある。

 

 皆さまお願いです。大変失礼な言葉かもしれませんが。

 「ご自分が放蕩息子、放蕩娘であることに早く気づいてください」

 そこからがスタートなので。

 そこから光が輝きだします。親がどれほど私のことを思っていてくださったことか。

 そのこと1点にフォーカスが当たらないとどうにも光が輝きださない。光がなければ人を照らすことはできない。

 

 立ち上がる力が私にあるんだと、地域に証しなければならない。

 全然主の思いに帰らないで、また自分のやりたい放題、自分の心に閉じこもっていては、チンとすわってひと時だけ信仰者の体を装っていても、外にいって何の力も発揮できない。

 

 そうだったらこの地域を福音で覆いつくすことはできません。人々は私たちを祝福の源と人々は言ってくださらないでしょう。何のために教会があるのかということになってしまう。建物があっても、廃墟です。

 

 この使徒たちと共に癒されて、立ち上がって躍り上がって、この私の内に神の力がとさせていただくために、閉ざされていた自分を覆い隠さず、主のもとへ。

 自分が放蕩息子であると気づいたとき、光が注がれるでしょう。

 

 この使徒と足の不自由な人との出会いで起こったことを見た人たちはこれが神の業であるということを徹底的に知ることができました。

 彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しを乞うていた者だと気付き、その身に起こったことに驚いて、卒倒しそうになった。使徒言行録3:10、新約213)

 

 気づいたという言葉はギリシャ語で「エペギノースコン」と記されているのですが、これは徹底的に深く知るという意味です。

 この人の人生が開かれたのは神の力だ。それ以外にありえない。その事実の前に卒倒しそうだった。

 それを周りの人たちが見て、徹底的に思い知ったのです。

 

 神の業は確かにこの人に起こっているな。それを誰が見ても思い知る。周りの人たちも回心する。それが私の身から起こる。それが聖書に記されていることです。アーメン。