2023年7月9日 主日礼拝説教 使徒言行録8:2~13「迫害によって広がる」石井和典

 信じるって強いです。何しろ神の力を信じるのですから、必ず復活するという歩みです。

 

 どんな問題であっても乗り越えられます。それはステファノの殉教の姿を見ていてもわかります。

 教会にとってステファノが殺害されてしまうという試練はあまりにも大きな試練でした。この世の終わりというレベルの試練です。

 エルサレムにおいて教会が大きく成長していました。人が多くなってきてしまったので、使徒だけじゃなくて、仕える人々を選ばなければならなくなりました。

 その12使徒以外の7人に選ばれたのがステファノでした。彼らはディアコノスと呼ばれ、日本語にすれば執事と呼ばれる人々となりました。

 使徒と彼らの間には区別がありましたが、どちらが上とか下とかそういう感覚は無かったことだろうと思います。

 この人々たちの説教もペトロと同じように教会の重要な教えとしてまとめられてステファノの説教として語り伝えられていることから、ステファノたち執事の存在の大きさというのがわかってきます。

 

 その大きな偉大なる存在であったステファノが、殺されてしまうのです。

 教会としてはありえないぐらい大きな痛手でありました。

 しかし、それによって教会は弱くさせられるのではなく、むしろ強固になり、全世界に向かって主イエス大宣教命令(ミッション)を実現する教会として大きな飛躍を遂げていくのです。

 

 復活の力が息づいているということはこういうことです。

 何か問題が起こっても、それによって意気消沈して、弱くなっていくというものではありません。

 問題を通して、逆に命を吹き返したように、主の復活の力が花咲いていく。また、より純粋な信仰者たちが生み出され、成長させられて、次々と福音を告げ知らせるようになっていく。

 

 しかも、このフィリポというディアコノス(執事)に選ばれた人によって、ユダヤ人とサマリア人の壁を乗り越えていくという驚くべき出来事が起こっていきます。

 教会のダイナミズムってやっぱりこういうところにありますね。問題を通して、癒しをさらに経験して、そこから新たにミッション(使命)に強く立つひとが生み出されていく。その結果隔ての壁が崩されていく。

 

 人間って本当に不思議です。なんで大きな負荷をかけて、一度壊れるような形をとって、そこからさらに強く成長していくということがおこるのか。あらゆる訓練において言えることですが。同じような構造をもってますね。

 成長のためには負荷が必要なのです。試練が。しかし、その試練によって黄金のように光り輝くようになっていく。

 愛する人たち、あなたがたを試みるために降りかかる火のような試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、驚き怪しんではなりません。かえって、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。(ペトロの手紙Ⅰ4:12、13、新約423)

 キリストの栄光を現すため、キリストが再び現れるときに至るまで、試練をすべて乗り越えていくため。光に目が開かれている人々が、何がおこったとしても、すべてを乗り越えてキリストを見て、最終的には勝利を得るため。

 そのために徹底的に訓練を今受けているということです。

 

 だから、なぜ苦しんでいるのかといえば、それは究極的にはキリストに出会うためであり、私たちがどんな時にもキリストをこの心で見出すことができるようになるためです。この私が、いつも変わらず、どこにでもインマヌエル(神は我々と共におられる)を見出せる民となるためです。

 

 こういう聖書的な見方ができる人がこの世には、教会には絶対的に必要です。

 イエス様がこうおっしゃられました。病に対して。

 弟子たちがイエスに尋ねた。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。ヨハネによる福音書9:2、2、新約180)

 

 皆が経験することというのは、実は試練から試練の連続でしかないから。

 その中で、皆が肉によって、自分の心に溺れて、本当に重要な見なければならない情報に触れられなくなってしまう。

 その時に、変わらずに信じ、見るべきものを見続けている人がいなければなりません。

 そうでなければ、灯が消えてしまう。これは神の業が現れるためにここにあることであると、主の光を見る人が必要でs。

 

 出来事に翻弄されて、つぎからつぎへと肉の誘惑を喚起させる、誘惑わせる、不安感や、焦燥感や、悲しみや嘆きや、嫉妬心、私たちを恐怖につきおとして、恐怖の中から自己保身的な決断をさせる肉の要素に皆流されてしまうのです。

 そこで流されないで、主が指し示してくださる霊的な指針に従う人々。聖書から示される主のお力が証される主の御業が示されていく道を行く人。

 

 一言で言えば、命の道を歩む人。命が繁茂して、命から命への祝福の連鎖へと生き始める人々。命があふれ出してくる道に乗り出していく人と、大きくわかれます。

 

 闇落ちしているパウロさんの姿を通して、闇に落ちるということ、悪に走るということがどういうことなのかを見ていただきたいと思います。今日の個所に出てくるサウロさんは、後の使徒パウロさんです。

 彼が、いかに貧しい心で、クリスチャンを引きずりだして、血祭にあげていたか。それで自分の正義を果たそうとしていたのですが。

 この姿というのは非常に醜い姿です。しかし、おそらくサウロさん自身は「自分がヒーローであるかのように」ふるまってクリスチャンをつるし上げていたのです。客観的に見れば、悪魔にしかみえないのに、自分はヒーローだと思っている。

 闇の中におちていて、見るべきものが見えないってこういうことです。

 そんなパウロさんが大いに変化していくのですが。

 

 闇に落ちるとどうなるか。

 自分の正義のため「殺す破壊する」という方向に人間は迷うこともなく走っていってしまうということがわかります。

 しかし、その闇の姿を呈しているサウロさんを通して、主ご自身はご自分のみわざを行われるのだということもわかります。

 

 信じるものたちの群れは、ステファノの死によってステファノに働かれた主の姿を見。また、葬りにおいても確かに主がお働きくださった主の僕として丁重に葬ったということが見えてきます。しかし、サウロはさらに悪の手を伸ばし、クリスチャンの家々に行って(当時は家の集会が教会でした)、人々を引き出しては牢につないでいました。

 しかし、そのサウロの迫害を通して、教会が破壊されて「散っていく」ということがおこり。この破壊されて「散っていく」ということを通して、全世界に福音が広まっていくという大宣教命令の実現がおこります。

 

 サマリアという町にフィリポは入っていきます。ユダヤの民からしたら、サマリアという場所は混血の進んだ場所、ユダヤ教の正統的な人たちからさげすまれていた場所。

 さらに、フィリポは後に異邦人の代表であるようなエチオピアの宦官と出会いますが、この人も今まで考えていた枠組みを飛び越えていく出会いとなっていきます。この宦官というのもユダヤの民にとっては邪道な人に見えていた。しかしこのエチオピアの宦官はイザヤ書を自分で読んでいたのです。しかも、キリストに関する記事のところを。驚くべき出会いがフィリポとの間に与えられますが。伝道の視野というものを私たちに見せてくれます。

 私たちの思い込みの外からです。

 

 サウロたちの迫害によって、イエス様が命じられていたミッション(使命)、御言葉が実現していくという道をたどることになるのです。迫害で伝道がすすむ。教会が壊されて伝道が進む。こんなことを考える人がどこにいますか。

 このマイナスの出来事をとおして、人々は神の偉大なるみわざを目の当たりにしていきます。主の偉大なる御業というのは、どのようなものであるのかというと。

 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行った数々のしるしを見て、こぞってその話に耳を傾けた。実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちから、霊が大声で叫びながら出て行き、体の麻痺した人や足の不自由な人が大勢癒やされた。使徒言行録8:5~7、新約223)

 聖書の御言葉を聞いて、しるしを見て、そのしるしというのは汚れた霊が出ていくというものであり、その表れとして病のいやしがよく見られたということです。これはすべて、主イエスの御名、神の国の支配の力、福音の実質的なあらわれでありました。

 

 神の国の支配と、ユーアンゲリオン(福音、戦勝報告、勝ちの宣言)。

 これこそがフィリポが宣べ伝えて、人々が実際に体験していた内容でした。フィリポの働きが次の言葉でまとめられています。

 しかし、フィリポが神の国イエス・キリストの名について福音を告げ知らせるのを人々は信じ、男も女も洗礼を受けた。使徒言行録8:12、新約223)

 神の国というのは、ギリシャ語で「バシレイアトゥーセウー」って書かれています。神の「王国」という意味です。だから、神が王となってくださる支配のあるところ。主が主となってくださるということです。それからイエスの御名による福音。福音というのは「勝ちの宣言」という意味です。主イエスが私たちの王となってくださって、主イエスの勝利の行進に私たちはつらなり、人生のあらゆる場面において、主がおられるということをもって勝利をおさめていく存在となっていくということです。

 光が命が内側から湧き出してきて地を満たす存在となるということです。

 主イエスの支配が実質的に私のところでなっているということを経験すると、そこに汚れた霊からの解放と癒しがおこります。

 これまでの歩みとは全く違った癒しの体験。赦しの体験。命が内側から新しく生まれてくる。力が与えられてくるという経験をします。

 

 汚れた霊からの癒しというのは、奇跡がおこる場合もありますが、奇跡が起こっていないかのようにみえる場合もある。それは内側が変化していくという内容でもあるので、場合によっては人に見えない次元で進むひともいます。

 しかし、わかるのは内側から命の芽生えというか、復活の命、人生の回復、光と命が内側から溢れ流れ出すようになって、その人の周りの人々にも影響を与えるようになるということがおこります。

 

 これまでは24時間、闇に閉ざされて光が見えてくるような歩みをしていなかった人の人生が全く変えられていくということがおこります。

 

 主がおられるということ、神の国が回復されていくと、驚くべきことがすべておこるでしょう。起こるべくして神の業が起こって行く。奇跡など当然のようにおこることでありましょう。

 そもそも、皆様が本気で聖書の言葉に耳を傾けているのであれば、それこそが奇跡です。

 これまでは神の言葉などほとんど見向きもしなかったというか、神の支配を信じることも無かった人が、イエス様がすぐそばにおられるということを本気で信じて、人生の見方が、生活態度まで全部変わっていく。命が内側から繁茂していくような歩みに変えられていく。

 

 主がおられるということが回復されるということは、エゼキエル書(46章)の中に記されているような、神殿の栄光が回復されるということであり、命を四方八方に放射するように命の水の川の流れが一人の人から広がっていく歩みをしていくことになるということです。

 

 主がそばにおらられる、主がそこにおられる、ということが回復されている人の歩みってこの初代教会の人たちの歩みをみてくださればわかるのですが、例えば、ステファノが殺害されてしまったとしても、そこから神の業がつぎつぎとおこり、教会が広まっていくという歩み。

 また迫害者が現れて、迫害が重ねられていっても、それによって逆に聖書の言葉が広まって行ってしまうという歩み。

 それはどんな状況いかんを問わず、主のご臨在が回復され、主のみわざが起こっていく歩みとなります。

 

 世の中の人たちとの考え方って全然違いますね。世の人々は、問題があったり課題があったりして、とってもネガティブなことがあったりすると、それでもうなんか終わりって感じの空気が流れるというか、その問題に押しつぶされていくというか。

 光を見るのじゃなくて、回避するとか、誰かの責任にして、その人を切り捨てるとか。また、自分の肝入りの人間を集めて求心力のある流れを作って、分裂をあおって戦いにして解決していこうとするとか。そういう感じに見えてきますが。

 

 そうではない、神を見るという道は、どこにも、すこしも例外なく、主のご介入と憐みの心をみていく。またそこに主の御言葉にもとづいてみわざがおこり、命の広がりができてくると信じる道。信仰があるところ間違いなく、主のみわざがおこるのです。

 サマリアというユダヤの人々からしたら、あそこに信仰があるのかという場所に信仰が広まり、エチオピアという当時の人たちからしたら「地の果て」というべき場所に、主の御言葉による約束通りに、福音が伝わっていくのです。

 

 我々は神の御言葉の成就をこそみなければならないのです。アーメン。