2023年4月9日 イースター礼拝説教 使徒言行録4:1~12 「死者の復活を宣べ伝える聖霊の力」石井和典牧師

 聖書の中で死ぬということはどういうことなんでしょうか。

 肉体における死が死なのではありません。

 肉体を越えた死があります。

 

 「生きている状態でも死んでいる」ということがありうるというのが聖書の死生観です。

 肉体の死が無視されているわけではないのですが、このポイントというのは実に大きなところです。

 

 こんな記述があります。イエス様の言葉です。

 そして別の人に、「私に従いなさい」と言われたが、その人は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。しかし、あなたは行って、神の国を告げ知らせなさい。」ルカによる福音書9:59~60、新約123)

 この記述からも、生きているのに死んでいる状態のものがいるということがわかります。イエス様は生きている人に向かって「死んでいる者」と言っておられます。

 葬儀の準備にあたる人たちに「死んでいる者」というのはなんとも失礼な話のようにも聞こえますが、イエス様のおっしゃりたいポイントはそこではありません。

 イエス様が「従いなさい」とおっしゃってくださっています。しかし、自分がなさなければならないことがあると言って、イエス様がおっしゃってくださっていること。イエス様が起こしてくださっている行動、そういったものを「自分がせねばと思っていることが上回ってしまう」ということ。

 それが問題であるということ。イエス様がこうしなさいよとおっしゃってくださる現実があるのに、それをスルーしているということが死んでいるということです。

 

 イエス様に今ここで神の国を見せていただいている。人々がイエス様によって癒されるということを目の当たりにしている。しかし、それを優先できない。

 命の命がすぐ目の前におられる。その方にいかに応答するのか、そのことを最優先に考えていくということが、光に目を覚ましているという状態です。

 

 そこから離れていってしまうということは命から離れていってしまうということです。命から離れ逆に行くことは死です。

 だから、今ここで命が示されているのに、そのことを無視すると「生ける屍」なのです。

 イエス様のことをスルーして葬儀にあたるのであれば、それは死んだ者ということになります。

 

 逆に言えば、イエス様への思いを心に目いっぱい満たして葬儀にあたるのならば、それは死んだ葬儀では決してない。

 

 だから、教会の葬儀は命にあふれた場所になります。

 それはいつも命が宣言されなければならないからです。

 「主イエスがこの人と共におられる」という命の宣言が教会の葬儀だからです。

 

 この主イエスの命、言い換えるならばイエス様は復活されたお方なので、復活の命というのは、私たちの内側で膨らんで、周りを満たしていきます。

 ペトロとヨハネの周りにいた人たちは、次々と信じていきました。

 

 それは彼らが光を見つめて、主の光を足の不自由な人々に対してみていたからだと二週間にわたって見てきました。

 復活の力の光を見るものたちによって、実際に肉体に変化がもたらされて、主イエスがおられるという奇跡が起こるのです。

 どんな奇跡が起こるのかは私たちの思いの範疇には全くありません。

 

 なんでも起こりえますし、何も起こらないかもしれない。しかし、主がおられるという証はかならず立つ。

 

 祈りが与えられたということが奇跡である。そう言えると聖金曜日、受難日に私は確信しました。

 十字架の場面で、エルサレム神殿の垂れ幕が裂かれたことを共に読みました。

 それは隔ての壁はもうないことを意味すると受け止めました。神と人との隔ての壁がない。

 だから、「祈りなさい」「あなたの祈りがすべて届くから」という呼びかけが私には聞こえます。

 

 私の肉体自体には、組織が瞬時に再生するとか、そういうことは起こっていません。

 しかし、主は「奇跡」をお見せくださる。

 霊の目が目覚めさせられるという形で、奇跡が起こる。

 

 それは今まで考えていたことが変わっていくということです。

 

 聖書を読んでいると、考え方が変わります。ものの見方が変わります。視野が変わります。

 いろいろ言い方を変えると、理解力が与えられるのだとも言えます。

 

 聖書はその理解力が与えられた人々が書いています。だから、十字架の場面においては、その場にいたローマ兵や群衆や祭司長や律法学者と「聖書の記者」は違う見方をしています。

 

 十字架のもとにいた人たちは、この十字架の処刑によって、このローマへの反逆者、ユダヤ教に対する敵対者、最高法院が有罪と判決をくだされたこの憐れな罪人が殺されたということしか見ていない。

 弟子にとっては主が見るも無残に惨殺され、「すべてが終わった」としか思えない場面となったのです。 

 しかし、どうでしょう、私たちにとっては王の王、主の主。主の十字架。教会の上に掲げ、このお方が王として治めてくださるシャロームの国、平安の国があるのだと信じている。

 

 それは神の霊によって理解力が与えられた人が書いた、すなわちペンテコステという聖霊降臨を経て、内側に神の霊が宿るようになって、ものの見方が変わった=理解力があたえられた人たちが書いている書物を読んでいるからわかるのです。

 

 難しいことを申し上げましたが。とにかく「見え方が違う」のです。使徒たちは。

 彼らは社会が皆見捨てた、神からの刑罰を受けている人だという天刑病と判断された人に近づきました。どうして近づくのか、その人の中に主の光を見ていたからです。

 主の御業はこのように光を見ようとし、実際に理解力があたえられて、光を見るひとのところでおこります。

 

 しかし、本日朗読された箇所を読むと、こうやって見るべきものを見ていると、どうしても敵が出てくることがわかります。

 

 というのも、サドカイ派という人たちが敵になってしまうのですが。

 サドカイ派は神殿お抱えの祭司集団と言っていいと思いますが。その人たちというのは復活や新しい国の到来というようなことを否定しました。というのも、どちらかというと彼らはユダヤ教社会の中では体制よりというか、エスタブリッシュメント側というか、権力側なので、その現状の権力が揺るがされるとか、現状の政変が起こるということとかいうのは考えたくないのです。

 だから、現状肯定的であり、復活という新しい次元の話などというは見たくなかったのです。今の体制が変わることを見たくなかったのです。

 

 やはり使徒たちの集団はそういう人たちによって追い詰められてしまいます。ペトロとヨハネの癒しの業、またその説教を聞いて信じた人たちは5千人になっていたと言いますが、その力が強ければ強いほどに、闇の力の反発というのは強まるのです。

 翌日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。使徒言行録4:5、6、新約215)

 

 復活をのべ伝えるものたちを捕らえ、裁きにかけようという魂胆です。しかし、彼らは聖霊に満たされて言うのです。

 癒された人を前に、「この人が癒されたの復活の主イエスの御名の力によるのだ」と。

 

 まぁ、そんなこと言ってしまったら、さらに彼らは追い詰められるのがわかっている。しかし、使徒たちが恐れているのは、この目の前の権力者ではなくて、まことの権力者である主イエスでありました。十字架によって殺されてしまったそのお方。しかし、墓から出てこられたお方。このお方を恐れていました。

 

 復活の主である主イエスの権威と力はあなたがたをも全く凌駕しておられ、その力は今まで誰もこの人を救えなかったが、この人を救うことがおできになる力。このお方をこそ私は恐れると、目の前で権威をちらつかせ迫ってくる連中に宣言するのです。

 この人をもよみがえらせるお方こそが権威なのだなのだ。

 

 聖霊って難しいってよく言われます。でも、使徒たちの姿をみているとわかるようになります。使徒たちは何を見ていますか。「神様の御業」ですよね。大祭司アンナスとカイアファは何を見ていますか。

 この使徒たちは祭司集団の常識から私たちの今までの常識からすると、ゆるされざることを伝えている。そんな私たちの思いが中心になっているんです。

 

 私たちの組織からすると、彼らが言っていることは、私たちを否定していると。

 だから、逆にこの小さな使徒たちをつぶさなければならないとなるわけですよ。

 

 聖霊が注がれている状態。聖霊が去ってしまっている状態。

 それがわかりやすく理解できると思います。

 主体として、「神」がおられるのか、おられないのか。

 それが見えるのか見えないのか。物事の理解力があるのかないのか。

 理解力がないと、命の主の御業は見えませんから、破壊へとつながるようなことに加担してしまうのです。

 この世には、命から離れさせ、破壊へと向かわせる力というのが確かに働いている。

 主イエスが与えたもう命を見るのではなくて、何かを破壊していくという方向に向かうベクトルがあることを感じます。

 それを「サタン」だというような言葉で表現したりするわけです。そこに自分を合わせ、使徒たちを殺す方向に加担してしまう人がいます。

 

 主イエスがなしてくださることに自分をあわせていく人によって不思議と、奇跡的な回復と命の復活ということが起こります。

 ああ、幸いなるかな。私のことをこの視点で見てくれた友が20年前にいました。その光が私に伝わってしまっている。それによって、私は復活した。私は神が私のことをずっとみていてくださり、私の成長を見守ってくださっているのだという強烈な確信が今与えられています。

 そこまで至る道は非常に破ればかりの道でしかありませんでした。しかし、主の光が私の人生を貫いている。復活している。

 だから、私もあの私の内に光があると信じてくれた共にならい、人の中に光をみなければならない。

 

 そして人を復活させる。

 

 この世は見えない支配権の争いの場です。主は人間を創造なさいましたが、その時に被造物を支配せよ、被造物を治めよと命じられ、人間を神の似姿に造られたと記されています。

 「治める」ということが人類に与えられた務めでありますが。

 治めるお方である神が、まず私たちを治めてくださっているのだということを受け止めている人こそが、正しく治めることができるのです。

 だから主の支配ということ、主がここにおられるというと、インマヌエルなる主が「主はわたしたちとともにおられる」ということを第一に見る民が、実質的にイスラエルの民であるということです。

 

 だから、本来ならば異邦人であるはずの私たちが招かれて、そして私たちが召されたのは、この支配権の争いの現場で、神以外の何かに支配権を委ねられている現状から民を救うのです。

 

 今ここに、すべてに、主イエスの心があることを見る。

 

 主が復活させてくださるのだ。主イエスこそ復活の主である。主は復活なされた。主の僕として歩む。

 私が主人ではなくて、主が主人。私は牧の羊。羊飼いの方をじっとみる。

 その主人から私たちを通して光が注がれる。

 

 まずは、ご自分の内に復活の命が満ち満ちてくることを実感しないといけません。教会の使命は伝道だと言われますが、満ち満ちて、溢れて杯から漏れ出てくるような状態じゃないと伝わらないかもしれません。

 伝道はかならずしもこうだって正解はないのですが。しかし、ペトロとヨハネの状態を見ていればある程度明らかになるでしょう。彼らから光があふれ出している。

 彼らが見ているその視点によって、レーザビームのように神の視点が開かれて、大変な人生の転換ということが起こります。

 

 そして、彼らは言っていましたよね。

 ペトロはヨハネと一緒に彼をじっと見て、「私たちを見なさい」と言った。その男が、何かもらえるのかと期待して二人に注目していると、ペトロは言った。「私には銀や金はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒言行録3:4,5,6、新約213)

 

 大丈夫、復活の力が満ちてきて、復活します。

 

 私は皆さまをそのように見ます。

 主イエスが皆さまの背後におられます。主イエスの光が皆さまの中にあります。

 大丈夫。ご一緒に新しく歩みはじめましょう。アーメン。