2023年2月5日 主日礼拝説教 マタイによる福音書28章1~20節 「おはよう」石井和典

 イエス様の命と接続するということはどういうことか。それは復活とつながるということです。復活とつながるということは、十字架の出来事(史上最低最悪の出来事)があったとしても、そこから復活するということです。

 闇があってもそこから驚くべき光が輝き始めるということです。

 

 それは、主イエスが墓から出てくるということと重なります。

 マリアとマグダラのマリアは、もうこのイエス様のお働きのすべてが終了したと思って墓に向かったのでした。愛をしめすために、せめてもの奉仕として主イエスのご遺体に適切な処置を施そうとしました。

 ローマの鞭で肌はボロボロ、ずたずたに切り裂かれた姿で、あのままで主の命が保たれるはずがない。いくらイエス様ご自身の口から復活について語られているのを聞いていても彼女たちの目にはそれが見えなかった。見えないのは当然と言えば当然です。目に見える肉がずたぼろだからです。

 

 あの十字架のイエス様の状況は死以外の何をもイメージさせない状況でした。命の時間制限のなか起こるべくして起こるべき出来事が次々と起こって行く。

 墓に葬られるということも、順当な出来事としてあった。

 

 しかし、主のお働きというのは、そのような状況をすべて打破するものです。

 

 私たち人間はこうあるべき、かならずこうなるという風に思い描くものですが。

 それを完全に裏切られます。

 

 人間の視野の中には、神のさまの御業は全く入りきらないのだということが指し示されるのです。イエス様において出来事はすべて終わってしまった。完了した、成し遂げられたという十字架上で叫ばれた主イエスの言葉を弟子たちは、「ジ・エンド」「終わった」としか捉えていなかったのです。

 しかし、その「ジ・エンド」こそがスタートなのです。

 

 主の御業というのは、考えられないほどに大きな憐れみに満ちたものです。なにしろ、裏切った赦されざる弟子たちが、裁かれてしかるべき弟子たちが。このあと死ぬほどの活躍を見せるのですから。

 

 主の御業というのは、「墓が輝く御業」です。墓に稲妻が降る出来事です。稲妻のように光り輝いた天使たちが墓にこそ現れて不思議な主の御業を宣言されるのです。

 勇壮な兵隊たちが恐れにかられて死んだようになる。腰が抜ける逆説が起こるのです。

 

 恐れに駆られて死んだようにならざるを得ない出来事を天使は「恐れることのない」出来事と宣言します。

 主がおられることによって意味が変化してしまいます。信じるものたちは皆経験するのです。

 

 それは、墓が光り輝くという出来事。

 私たちの思考のイメージとは真逆の出来事として訪れるでしょう。

 

 主に出会うと物事の意味が全く変化します。

 

 早天礼拝でも触れた箇所なのですが、ヘブライ人への手紙12章を読むと、この世で起こる出来事はすべて「鍛錬」であると受け止めることができます。

 また、子に対するようにあなたがたに語られている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主によって懲らしめられても弱り果ててはならない。主は愛する者を鍛え子として受け入れる者を皆鞭打たれるからである。」ヘブライ人への手紙12:5、6、新約407)

 主との関係性が回復していると、主が与えてくださる意味を読み取れるのです。どんな状況であろうと、そこから成長できるようになっているわけです。

 今までは、最低最悪の出来事が起こっていたら、それを周囲や環境のせいにして、誰かを悪者にしたり、はたまたすべてを自分のせいにしたりして落ち着くとかそういうようなことで、納得してきたのです。しかし、主が現れてからはその見方が全く変化していく。

 あぁ、私に重要なことを気づかせるために。イエス様に似ていくためにこそ必要な出来事だったのだな。成長のために、復活のために、V字回復して、指数関数的に成長するためにあったのだということに気づくのです。

 イエス様のようになるということは、信じられないような成長を遂げないと無理です。そういう成長が準備されている。翼が与えられる成長です。そのために最低最悪の出来事が起こり続けるのかもしれません。というより、私たちのこの世での結論は皆、肉体における「死」以外なにもないのです。何があっても同じ。どんなに人生成功しようが、うまくいっていると思い込もうとしようが同じ。

 肉においては滅びで終わるのです。

 主イエスの視点を見ていなかったら、みんな終わってしまう。

 しかし、聖書の視点は「私たちはイエス様に似たものにさせられていく」です。

 

 肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父は私たちの益のために、ご自分の聖性にあずからせようとして、鍛えてくださるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後には、それによって鍛え上げられた人々に、平安な義の実を結ばせるのです。ヘブライ人への手紙12:10、11、新約407)

 

 イエス様に似たものとさせられて、イエス様の近くにいたら人々は癒されたように、私たちを通して人々が癒されて慰めを受け、教えを受け、新しい道を見出し、奇跡が起こり、神様がご一緒してくださっているのだということがわかるようになっていく。

 それが復活していくこと、死からよみがえること、指数関数的な飛躍を遂げるということの内容です。

 簡単に言えばルターが言ったように、「小さなキリストのようになる」ということです。

 

 私のそばに誰か来られたら、私が行ったら、死にそうになってた人が復活して安らぎを見出し、ここにいてもいいんだと思え。父がわたしのために準備してくださった恵みに気づいてそれをさらに自分で求めて祈り続けるひとが起きていくということ。

 

 何より最高なのは、イエス様のところに私たちが行った時と同じように、人々が私の傍らで癒されるというものです。超最高の人生ですよ。これこそが、目的の中の目的だったのです。

 神の聖性、神さまのご性質。イエス様のご性質、ご性格、そういったものに似て、その心が内側からあふれ出しちゃって、ザアカイが木にのってどうしても近づきたかったように、お近づきになりたいと思ってくださる方が現れてくるのです。

 なんという視野でしょうか。

 

 弟子たちは、イエス様を見捨てました。弟子たちは、イエス様が救い主であられることを、結局は完全には信じ抜くことはできなかった。自分たちの目に見える現実に左右されて、目の前に兵隊が来ればその兵隊をどうにかしなかればと、また、自分が命の瀬戸際に追い込まれれば、やはり、自分の命を優先して、イエス様を「知らない」と言わざるを得ませんでした。蜘蛛の子を散らしたように、自分が逮捕されることがないようにと逃げました。しかし、そんな弟子に主は何もなかったように現れてくださいます。何もなかったかのように挨拶されるということ。

 「おはよう」です。ここに赦しのすべてが詰まっているとも言えますよね。

 

 イエス様って、何かつまったような挨拶、何かこころに一物抱えているような挨拶、不快な、そういうような挨拶はされないですよ。それは、主なる神が何をなさりたいのかを一心に見ているからです。全能の神はこの使徒たちに力を与えて、この使徒たちによって教会を形作って、その教会がキリストそのものであるように、キリストの体と言われるように。そのような成長を見ているから。その成長を信じているから。だから、何があってもたじろがず、主はなにもなかったように「おはよう」をおっしゃることができるのです。

 

 おはようを彼女たちが聞いたのは、主の御言葉に従って、天使たちが告げたその言葉に自らを従わせ信頼して、その身をその御言葉のために前に進みださせた時ですね。

 実際に主の御業の前に、主を信頼して、行動を起こすと、そこに主イエスがおられるということを発見できるわけです。そこでいくらイエス様を裏切って居ようが「なにもなかったかのように」受けれ入れることを最優先にしてくださり、受け入れてくださるゆえに何のひっかかりもない「おはよう」が聞こえてくるわけです。

 

 本当は信仰によって物事を見る場面であった。そういう場面ってかなりたくさんありますよね。

 でも、そこに主の視点を見ることができずに、人を裁いたり、人をさげすんだり、自分を裁いたり、自虐的になったりと。そういった出来事はすべてキリストの視点ですべてを見直すことができる。

 キリストはどうご覧になられていたんだろうかと、この私をと。

 

 そのことに本当に取り組んで、私こそが不信仰であって信仰に歩んでなかったと認めるそのものの傍らに「おはよう」と主イエスは現れてくださる。それがこの復活の顕現から読み取ることができる内容です。

 

 また、ただ出会ってくださるだけではありません。使命を与えてくださいます。

 皆様一人一人にミッションがある。

 天が与えたもうた天職というようなものがある。それは必ずしも、何か特定の職業をさすわけではありません。この肉の身が維持される間に行わなければいけない使命です。それらを主は定めて与えてくださっている。

 

 私は洗礼と同時期に、20歳の時に、マタイ福音書の今日朗読された箇所を、自分への使命として受け止めました。牧師になる教師試験の時の召命の証の文章にもそのように書きました。

 エスは、近寄って来て言われた。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイによる福音書28:18~20、新約59)

 イエス様の力に押し出されて、イエス様の権能が響いて、この内側にイエス様の力が満ちて、イエス様の力でしかできないことが、私を通して押し出されて、私を通して人々が復活するのです。イエス様に出会った人たちと同じように、私を通して出会ってくださる方がたが起こされるのです。

 この身は神様に対して非常に汚された状態にありました。しかし、主はこの身一つ一つに触れてくださって癒しを与えてくださって、この内側に神の力が満ちるように、主の力が私の内側を通して伝わっていくようにしてくださったのです。その私の存在を通して私が主に愛されていることも証されるますし、主があらゆる状況を飛び越えて私たちの傍らにおられることが明らかに、まざまざとすべての時代に向かって証され続けるのです。

 

 最終的に斬首にあったのではないかと伝承されているパウロの生涯、その生涯を通して、私は本当にパウロが自分の父のように慕わしく、命を懸けてもあの方についていきたいというような、そういう方がパウロとなりました。こんな喜ばしい出会いはありません。

 そのパウロの傍らに主イエスがおられました。主イエスがおられてその主イエスの力によって力が証されて、その力に生きるものたちは、ローマの兵隊であろうが皇帝の家に属するものであろうが、回心し主イエスの中に生きるものとされていきました。

 

 私のからだの中に主イエスの権威があふれている。私の存在を後ろから力で押し出してくださる。その力を体験させてくださるのです。

 

 汚れそのものでしかった私の人生をあの、清い清い、癒しそのものである主イエスの命がすべて覆いつくしていく。私の人生のすべてが癒しであったようにさえ思えてくる。ろくでもないその歩みでも、主が優しくいつくしんでくださっているのを感じる。その力に強烈に押し出されて、隣人を愛せとの御声を聞くわけです。

 

 だから、すべての民を弟子としなければなりません。弟子となるということは、主イエスの御そばによりそって主イエスからその力を受けて、その力が我がうちを通って、隣人に伝わっていることを体験する民です。それが使徒たちの姿でした。

 弟子は、主の御言葉を選り好みはしません。主イエスの言葉を一つ一つ丁寧に聞いていく。そして、主が与えてくださった出来事を成長のための訓練だととらえるのです。主の御手を見ているからですね。

 

 人生の終わり、墓でさえ、そこから物事が起こる場所としてくださる。そんな主への信頼に立って、人々を復活させようではありませんか。何があっても主イエスがおられれば復活します。アーメン。