2023年1月29日 主日礼拝説教 マタイによる福音書27:45~56 「キリストは見捨てられたのか」 石井和典
イエス様が十字架に向かう道のりの中で受けられた「負の状況」は、すべて「私たちが受け取るべきものであったはずのもの」です。
だから、先週の説教でお話しましたが、イエス様が裸にさせられて、辱めを受けられたこと、最低最悪の辱めをお引き受けになられたのだということ。これは私たちが受け取るべき「裁き」であったということです。
私たちは神から裁かれません。なぜ裁かれないのか、それは主イエスが裁かれたからです。
ローマ皇帝を詐称したものと兵隊たちにイエス様が罵声を浴びせられるのもそうです。王としての権威を勝手に振りかざした詐欺師として扱われてしまった。赤い外套を無理矢理着せられ、頭には茨の冠がかぶせられました。
「詐欺師」として扱われた。
王ではない私たちがまるで王のように尊大にふるまっている。詐欺師として生きてしまった私たちへの裁き。私たちは立ってはいけないところに立っていた。
だから、主なる神は創世記3:9で。人間の堕落の直後に「どこにいるのか」と問われたのです。
どこにいるのか。神のようになってしまっているのではないか。神として立とうとしたのではないか。
神でないのに、神のようにふるまったら、詐欺師。
その罪の裁きを主イエスがすべて背負われた。
それが赤い外套をまとった姿です。
さらに、本日のところに出てくるのが、イエス様が真っ暗闇のなかで一人孤独なまま放置されるということでした。
真っ暗闇というのは、神の光を失った状態を指し示します。神の守りを失っている状態です。
神から捨てられている状態です。その状態にイエス様が落とされるということは絶対にありえないことでした。
しかし、このような闇の中から光が輝きだすということは聖書に記されている内容ですし、いつもこのように義人が苦しめられるということを通して真実が明らかになっていくものです。
光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。
また、終わりの時のしるしとしてこのようなことが起こると使徒言行録にしるされています。
主の大いなる輝かしい日が来る前に太陽は闇に月は血に変わる。(使徒言行録2:20、新約211)
光が現れる。それと同時に闇が周りを覆いつくしていく。
それが終わりの時のしるしでもある。光が完全に闇に覆いつくされて真っ暗になる。太陽が闇におおわれる。その時に、終わりの時が到来する。
そこから、救いが与えられ、その救いによって人々は復活する!
しかし、この時というのは裁きの中の裁きが起こるときです。主イエスにとってみれば、最低最悪の裁きの時が、十字架の暗闇の時でありました。
主イエスが「できることならばこの杯を過ぎ去らせてください」と叫ばざるを得ないような状況。「闇の中の闇」です。
信仰に生きるイエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばなければならない状況というのは、この世の終わりの状況です。
絶対にあってはならない、天変地異の中の天変地異が起こったのです。
裁かれるはずなどない王の王、主の主が、裁かれる側に立ち、人類が引き受けるべきものすべてをお引きうけになられた。
終わりの時という言葉が出てくると、非常に物騒で物々しい言葉として響きますし、様々な時代を通して、この「終わりの時」という言葉を通して人々の危機感を喚起させる人が現れてきました。
しかし、本当の終わりの終わりの時というのは、確かにこの後の時代に起こって行くことでありますけれども、もっともっとすごいイベントの中のイベントというのは、実は「もうすでに起こってしまったこと」です。
それが十字架の出来事です。このポイントですべてが良い意味でも悪い意味でも終わっているとも言えます。お前はもうすでに死んでいる、、、ではなくて、お前はもうすでに復活させられている。という世界。
イエス様が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」と叫ばなければならないということは、この世界の終わりよりインパクトがあるということです。
絶対にありえない秩序の転覆ということを意味するからです。
この世界の創造の一番はじめの出来事よりもすごいといってもいいかもしれない。
なぜなら、世界の創造のはじめは、神の愛がそこら中にあって、その上を、鷲が雛を育てるように神の愛がすべての秩序を作り出していったという中にあった、そのように聖書は記述しています。
そこには非常なる安定感がある。親鳥が雛鳥の上を飛び交っているということがあるのです。すなわちつつんでつつんで包み込む親の愛がこの世界の上にあった。
だから、そこには絶対的な秩序がある。
しかし、十字架の上ではどうでしょうか。絶対にあってはならない秩序の転覆が起こっている。
ひとり子イエスが見捨てられています。
完全なる裁き。最低最悪の裁き。世界を転覆させる破壊。
それがイエス様が見捨てられてしまうということです。そこには希望がないようにさえ見える。
しかし、この完全なる裁きが行われるということをもって、逆にこの裁きによって滅びの扉が閉じられたということでもあります。この終わりの時の最低最悪の裁きをもって、私たちへの裁きはすべて主イエスによって飲み込まれたのです。
この十字架の黙想を重ねることで、私たちは内側から湧き出してくる暖かい力を感じることができます。
ブラックホールに飲み込まれ、時空の向こう側を目指すという映画があります。インターステラーという映画ですが。私は大好きで何度も何度も何度も見直していたりするのですが。
ブラックホールに飲み込まれるというのは、恐ろしいことです。想像だにできないというか。時空の向こうってなんだろうって気が狂いそうになります。
しかし、ブラックホールに飲み込まれるということよりももっと恐ろしい闇というのは、独り子が父なる神によって見捨てられてしまうという十字架の現場です。しかし、主はその闇をすべて飛び越えになられて、私たちとご一緒してくださるために、闇に飛び込んでくださったのです。その主のご献身によって、何があっても私は見捨てられることがないということが、私たちが受け止めるならば、絶対的に確定的な出来事として私たちに迫ってくるようにしてくださったのです。
だから、イエス様は十字架の現場において「エリ、エリ、ㇾマ、サバクタニ(我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになられたのですか)」という言葉のあとにこう叫ばれました。「成し遂げられた」と。
イエスは、この酢を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネによる福音書19:30、新約203)
すでに「成し遂げられた」のです。
主イエスのこの死線を飛び越えられる主の業。この主の業を信じるものは、何があっても滅びることがない。たとえブラックホールが向こうから迫ってくるような、時空の地平線を飛び越えるような出来事が起こっても滅びることがありません。
私たちに対する秩序。主は、私たちとご自分とのお関係を何があってもお守りになられます。それが聖書に記されている「神殿の垂れ幕が引き裂かれた」ということが意味する内容です。
私たちと神様との関係はなにがあっても断ち切られることがないということです。
その時、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、(マタイによる福音書27:51、新約57)
神殿の垂れ幕というのは、神様がおられるところと、そうではないところを分ける聖なる幕でありました。
神殿の聖所と至聖所をわけます。その向こう側に主の契約の箱が置かれて、その契約の箱の上に主がおられるというふうに受け止められていました。その隔ての壁が崩され、私たちが私たちの言葉をもってして主との交わりの中に生きることができるようになったということです。
そこから、新しい世界がはじまる。あたらしい主との関係がはじまる。
主イエスは、聖霊と火とをもって洗礼をお授けになられるお方と、洗礼者ヨハネが言いました。そのように、主がすぐちかくで、聖霊というのは新約聖書の中ではもう一人の助けぬし、アロスパラクレートスと記されています。
アロスというのは、もう一人のという意味。パラクレートスというのは、慰め主という意味でもありますが。その語源に帰ってみると、「傍らに立つもの」という意味があります。
だから、いつなんどきどんなときもすぐ近くにおられるお方として、主のご臨在を体験できる世界が開かれるのです。
昔のように神殿や幕屋幕屋がそこにないと主のご臨在を確信することができないということではない。
いつでもどこでも、主のご契約の箱があり、その上に主がご臨在されるような状況が展開されていくのです。
さらに、そのご一緒くださる聖霊は、炎でもあられますので、私たちの内側に力を与えてくださり、私たちを動かし、私たちのエンジンを爆発させて力によって前に押し出すようなお方であられる。
情熱が私たちの内側からふつふつと湧いてきて、主のお心を実現する。
誰か一人を愛するということのために、あらゆる障壁を飛び越えて、時空の地平線を飛び越えて主のご愛をしめすため、飛び出していくような人が生まれてしまうということを経験していくということになるのです。
そんなドライブが、力が、炎が、私たちの内に飛び込んでくる。
それが十字架から、ペンテコステにおいて教会が経験した内容でありました。
このヨハネが言った聖霊と炎を経験するものたちは、まことに復活するのです。
私は、悔い改めに導くために、あなたがたに水で洗礼を授けているが、私の後から来る人は、私より力のある方で、私は、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼をお授けになる。(マタイによる福音書3:11、新約4)
死んでいた目がよみがえるのです。死んでいた心がよみがえるのです。死んでいた身体がよみがえる。躍り上がって躍動感を取り戻していく。
復活していく人たちのことを見て、人々はそこに主のご臨在を見出すのです。ここに描かれている通りです。
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイによる福音書27:54、新約57)
百人隊長や周りの兵隊たちは異邦人です。
彼らは神についてよくわかってはいなかった。しかし、もう直感的に理解したのです。この出来事を。
主イエスの十字架の御業によって人々が復活していっているということを。超自然的な出来事として、本当に墓から人々が出てくるということがこの時には、起こったようですが。
私たちにとってはまた別の形でもあります。
私たち自身が、内側から改革されて、私たち自身が、この霊における躍動感を回復し、私の内側で熱が与えられていくという。
エンジンがオーバーホールされて、潤滑油がまわり動き出していくという。
そういう出来事として起こる。
私たちをみて、人々が回心していく。
百人隊長のような人があらわれてくださるのです。
「この人はまことにキリストの子どもであった!」と、神を知らなかった方が言ってくださる瞬間が待っているのです。アーメン。