2022年11月20日 主日礼拝説教 マタイによる福音書26:1~16 「無駄遣い」 石井和典牧師

 イエス様を一目見ることができたらなぁ、といつも思っています。

 その人の内側に輝いている光は、その顔を一目見れば感じることができます。

 逆に闇も顔を見れば感じます。

 ご自分が犠牲の小羊として生まれてきたということを悟っておられる姿ってどんなお姿だったんでしょうか。

 その目には、力があり、光が輝いており、愛があり。またしかし、同時にやさしさと憐れみに満ちているというような、私たちが一番に会いたいと思うお方。聖書から思うにイエス様は、そういう方ですね。

 イエス様とか、詩編の多くを生みだしたダビデも、モーセもそういう人ですよね!会いたいです。信仰に生き、強烈な力があるにもかかわらず、柔和だった。

 ダビデの詩を見ていれば力がそこにあることがわかりますが、しかし、そこには自分が羊にすぎないという非常に低い低い謙遜さがあるのに気づきます。最強の王であり、羊であるという。この驚くべき逆説が、信仰者の特徴だと思います。

 だから、付き合いやすいと思うんですよね。会いたいです!

 

 そういう人と一緒にいると力が出てくるし、新しい道を見出すことができて、暗闇の道だと思っていたのに、光が与えられてくる。そんな歩みに変化します。

 ヨハネ黙示録を見ると、イエス様のお姿が言葉で明確に表現されているんですけれども。

 私は、語りかける声の主を見ようと振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の間には人の子のような方がおり、足元まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めていた。その方の頭髪は白い羊毛に似て雪のように白く、目は燃え上がる炎、足は燃えている炉から注ぎ出される青銅のようであり、声は大水のとどろきのようであった。また、右手には七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が突き出て、顔は強く照り輝く太陽のようであった。ヨハネによる福音書1:12~16、新約440)

 七つの燭台というのは、「教会」のことを指し示すのだと記されています。イエス様は、そのお名前のとおり、「救い」であられますし、またインマヌエルとも呼ばれまして、「神は我々と共におられる」ということを証明してくださるお方であられます。

 

 そのお方のお姿が、教会には見えます。私たちの現状がどんな状態に陥ってしまっていても、決して、その祝福の御手を降ろそうとはされないお方であられます。神の権威を帯びておられ、その帯には金が、最も尊い価値あるそのお心をその内側に宿され、清い真っ白な髪の毛でおおわれていて、「目が燃え上る炎」のようであったと。

 炎って焼き尽くすものであもあり、力があり、恐ろしかったりしますが、しかし、エネルギーそのもの、力そのもの。このエネルギーがなければ、一秒たりとて私たちは生きることができません。

 主イエスの目はそのエネルギーで満ちておられて、また力に満ちておられて、その力をもって私たちを見て下さって、その愛に燃える目で私たちのすべてをご覧くださっているのです。

 この力あるお方が、はじめから、家畜小屋に、犠牲の小羊としての生涯を全うするためにお生まれになられた。ここからスタートする主イエスのご生涯の記述。すでにはじめから命をかけて私たちに臨んでくださるということが、わかります。

 命を注ぎ救い出すという主のまなざしにつつまれたいといつも思います。

 当たり前のようにイエス様はご自分が死ぬということを口にされます。本日の箇所においても口にされました。

 エスはこれらの言葉をすべて語り終えると、弟子たちに言われた。「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」「あなたがたも知っているとおり、二日後は過越祭である。人の子は、十字架につけられるために引き渡される。」(マタイによる福音書26:1、2、新約50)

 祭りの中で血祭りにあげられてしまうのは、主イエスご本人です。この世界の中心の中心。存在そのものであられるお方。このお方がおられなかったら私はいない。そういうお方が、自ら犠牲の小羊となられる。

 その死という運命を悟った上で、弟子たちに重要なことを一つ一つお語りくださっています。だからイエス様の言葉一つ一つを徹底的に味わいなおすと、私たちが日々向き合わなければならない知恵で満ち満ちていることを経験できます。

 教会が、今ここで直面している問題もすべて見通したうえでの発言であることがわかってきます。教会の問題は、全部イエス様の言葉をちゃんと読めば見えるようになります。

 イエス様の福音書の記述は、すべて重要であることがわかります。

 イエス様の血がしたたったているというか、いのちそのものである言葉です。

 だから、日ごろから私は強調していますが、「一言たりとも聞き逃してはならない」のです。

 

 兄弟姉妹と仲直りしてから、祭壇にささげものを備えなさいとイエス様がおっしゃられていますが、まことにその通りです。争いがそこにあると、その視点で、自分視点、つまり偏った視点で聖書を読んで、人を裁く心と、争いとがはいりこんで、どうにもならない様相を呈します。

 周りの人はその人が呪いの言葉を口にするのを非常に痛い痛しく思って見ているのに。自分こそは正義に立っていると当の本人は思い込んでいるという。まぁ、良くありますよね。。。

 

 その状態って見ていただければわかりますが、八福の福音を主イエスから語りかけられて、徹底的に祝福を受け取るべく召されているのに、その次の瞬間それを全部捨てて自分の道に走るという感じです。その先に進まないんですよ。

 あー、なるほど、だからなんだな。だから進まないんだな。とわかりますよね。

 あのマタイ福音書の5章の山上の垂訓の記述の順番ってまさに神の言葉ですよね。

 我々の信仰生活の進み具合がまったくよくわかる構造になっています。

 弟子たちは何もわかっていないのに、祝福を主から受けます、受け取ります。しかし、その受け取った祝福のままに生きるのではなくて、そこから外れて、兄弟姉妹との間に争いを生み出してしまう。

 イエス様は律法を完成なさるっておっしゃられていますが、律法の一部である創世記を読んでいくと(今早天礼拝で読んでいますが)、震えるほどに恐ろしくなります。

 私のこと、今現代のこと、世界のこと、教会のこと。それをわかったうえで、どこでつまづきどこで力を失い、シャローム(主の平安の力)を失い人々に命が広がっていかないのか。

 それをまるっきり的確に指摘している内容となっています。

 

 信じるものたちが、そんなこと百も承知というような「信仰の力を全然発揮していないとき」と、「発揮しているとき」が描かれています。

 「争いに自らの身を向けてくとき」と、「シャローム(主の平和)を味わっているとき」。その強烈な落差と対比です。

 

 教会はもちろん、主の力を味わうところです。主のシャロームに生きるところです。私たちを見ていたら私たちの周りの人たちは、不思議と力を得て、癒しと慰めをうけて、新しい人生をはじめたくなる交わりです。

 

 創世記のヨセフの姿を見ると力をいただけますよ。

 ヨセフは、自分が兄弟に穴に落とされた出来事を、「神のご計画」であったと理解し、その通りうけとめ、信仰によって物事を受け止めるので、神様の力がこのヨセフを通して、広大なエジプト全土へ広がっていってしまいます。あのヨセフの一言を絶対に、死んでも信仰者は忘れてはいけません。

 ヨセフは兄弟に言った。「さあどうか近寄ってください。」彼らがそばに近づくと、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたがたより先にお遣わしになったのです。(創世記45:4、5、旧約74)

 神が主導権をとってくださって、私の主語となってくださって、私を神の器として用いてくださったのです。穴に落とされたんですよ!!殺されかけたんですよ!!心のなかでこの兄弟はヨセフのことを殺していたんですよ!!その人を呪わないのです。そこに神の業を見るのです。。。シャローム

 

 教会は圧倒的な力を世に示せます。それはこの世の比較における大小を競い合うようなさもしい力ではありません。神の力が賛美され、神の御業がそこかしこにあり、この小さな私の目が開かれるということを通して、神の偉大な御業が開示されるという、驚くべき力の力をこのゴミ粒のような小さな私を通して主が証してくださるのです。

 

 こんな価値、他にありますか。。。

 

 本日の箇所に、300万から、500万ぐらいの、当時の非常に高価な香油をイエス様のために使う女性が出てきますが、この人はこのイエス様の心の重大さというか、偉大さ、価値、力。その心のご愛を理解しはじめていました。300万でも500万でもまったくイエス様に使うには、その価値としてはふさわしくありませんが。。。イエス様のために使うのであれば、私の全生涯、私の持っている物をすべて、私たちのもっているものすべて、この世界のすべてをささげてもそれでもまったく足らんと思うようになった人です。

 

 極端に現代化しますが、、、日本の国家予算の100兆円でもイエス様の御業の価値には足らないでしょう。

 弟子たちは何も理解していませんね。この女性の行動を「無駄遣い」だと判断します。

 イエス様の心を知ってしまったら、全部投げ捨ててそこに、ささげものをしたくなっちゃうんですよ。それはなぜかって、この汚れた私の心を主が拾い上げてくださるからです。汚れにまみれたこの心を拾い上げてくださって、ゴミを取りのぞいてくださって、丁寧に丁寧に、時間をかけてかけて導きを与えて与えて。

 一つ大事なことを発見させて。そういうプロセスをたくさんくださっていたのに気づくからです。

 モーセとか、イスラエルの荒れ野での生活とか見ていて思いますが。神は40年とかいう時間さえ普通におかけになられて、与えて与え尽くして、忍耐強く見守って見守って。。。

 私クリスチャンとして恥ずかしくて、仕方がないんです。

 20年ですクリスチャンとして歩みはじめて。その1日めで気付こうとすれば、気付けたような最初の一言に今、気づいていたりするんですよ。ひゃー無駄遣いしてしまった。ごめんなさいごめんなさい。しかし、主はそのような20年とかいうスパンをかけても導いてくださるんです。

 イエス様のこの寛容さに相当する財なんて私たちはささげうるものを持ちません。

 例え全財産をささげたって全くたりません。

 しかし、主は、そこに信仰があるのならば、どんなものをも喜んでくださいます。300万て、イエス様にとってみれば、全能の神にしてみれば、、、まぁ、無価値に近いでしょう。イエス様のこの小さな女性に対するお言葉をお聞きください。どれだけ大きく扱ってくださっていることか。

 よく言っておく。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(マタイによる福音書26:13、新約51)

 

 そこにイエス様への信頼があれば。それを極大に大きく評価してくださるのです。

 でも、この女性にとっては、イエス様に300万の香油をささげるって、命をささげるに等しかったはずですよ。いくら300万が神からすれば吹いて飛ぶものであるといえ、この女性にとっては命そのものであったわけです。その内容のすべてを主は受け止めてくださる!!!

 私たちと、主との関係は、まさに親子。肉親。愛する子、以外の何物でもありませんね。

 私たちの肉の父、母も私たちの成長を見守り、そこに真実なる応答が少しでもあったら、それを極大に大きく受け止めてくれました。

 もうね、イエス様のこの心の中に、私たちは自分の身をなげうってダイブするしかないですよ。そこにまことの癒しがある。この私がささげる小さな小さな、信頼の言葉に死ぬほど大きく反応してくださる神。それが本気であればあるほどに、私にわかるように応答してくださり、祈りが応えられるのだと見せてくださる。こんな幸せ他にありますか。

 この幸せをあじわっていないから、人と争う。

 この幸せがいかに私たちのすべてに触れるものであるかがわかっていないから、いつまでも心の中にうずきがあり、それを誰かにぶつける。

 この幸せを味わっていないから、なにか必要が出てきたときに、神に助けを求めて、「助けて」って叫べばよいのに、自分でできることはないかって祈るより先に対応を考え、うまくいかなくて人のせいにして環境のせいにする。

 

 もうね、皆さま、イエス様の心にダイブするような、捨て身の敢行をささげたら良いですよ。

 飛び込んでいけば、そこには癒ししかないですから。

 

 自分の癒しを味わってください。それで、人の癒しに向かうパワーがたまってきます。

 

 これねほんとばかばかしい話なんですが、いつもお話するんですが、私の生活への態度が全面的に変えられていったのって、「自分が水虫だった」からなんですよ。バカみたいな話ですが。本当です。

 ここから、私は自分の体に対しても、キリストの体に対しても、マイナスになることは絶対にしないようにしようって心が決まったのです。大阪で、信徒であったある方から、看護師の方なんですが。「先生、自分の体を大事にしてあげてください。水虫になっているということは自分を大事にできてないからですよ。水虫なんて足を毎日ちゃんと洗えば絶対の絶対になりませんからね(笑)。」ってやさしーく。愛のこもった笑顔で言われたんです。

 

 それで気づいちゃったんですよ。神からいただいたこの体を自分がどれだけぞんざいに扱ってきたことかということ。

 それは自分の身体だけじゃなくて、自分が託されていた教会に対しても同じことが言えたのです。キリストの体、教会ですよ。

 自分の体をぞんざいに扱うんですから、同じように教会も乱暴に、暴力的に扱っていたのです。

 もちろん、人にはそういう態度は見せないようにしますし、自分でも気づいていませんでした。

 でも、間違いなく、自分の体に対する態度と同じ態度で、人に接してしまっていたのでした。

 だから、争いの火種が私のまわりで次々とできました。

 愛さないと何もうまくいかない共同体。教会。

 大事にしないと何もうまくいかない共同体。教会。

 心から感謝したい。神が大切なことに気づくように。

 イエス様のご臨在に気づくように、闇があったことを思います。

 

 どうしてこんな闇があるのですか。それは私たちが本当に大事な本質的な光に気づくためです。そして、あなた自身が光を受け止めたものとして、灯として、主がお立てくださるためです。闇が何なのか理解し、その闇から立ち上がることがどんなに幸せであるか。その幸せの一つ一つをかみしめて、かみしめた喜びを人と分かち合うためです。

 

 自分の思いによって暴走して、神を見ないとどうなるか。

 それがユダですね。ユダはいろいろ言われますが、貪欲がその心を支配していたとか。

 しかし、彼が会計を任されていたことと、おそらくユダヤ教の熱心党出身だったということを背景としてみると、私にはどう考えてもそこに人々は「忠実さ」や「誠実さ」「まっすぐさ」というものを見ていたに違いないと思うのです。だから、会計をまかせたんでしょう。

 しかし、彼はイエス様を売りました。

 いろいろ推測されます。金に目がくらんだんだとか。貪欲に負けたとか。

 しかし、一つおそらく間違いないのは、彼はまじめだったから自分なりのメシア観というものをもっていたということです。

 そのメシアのように結局はイエス様は見えてこなかったということでしょう。

 だって十字架という処刑で勝利するんですから。

 こんなことだれにも理解できないですよ。自分の思い込みのメシア観。信仰における洞察をすてて、神が示してくださるところに立たないとどうなるか。ご一緒に主イエスの心の中に飛び込んでしまいましょう。そこには変化と成長が待っています。主の愛に包まれて。アーメン。