2022年7月17日 主日礼拝説教 マタイによる福音書22:23~33 「生きているものの神」 石井和典

 復活の教理というのは、新約聖書の時代のユダヤ教の中では、全体に確定的に受け入れられている内容ではありませんでした。

 しかし、イエス様がおっしゃられる言葉からすると、「復活」は旧約聖書の自明の前提の前提であるということがわかります。しかし、ユダヤの人々は見えていなかったのです。

 本日の個所に登場しますサドカイ派の人は、超保守的な人たちでした。旧約聖書のはじめの五つ、モーセ五書に権威を置き、モーセ五書から導かれる神学というものを大事にしていました。
 サンヘドリン(最高法院)を構成していた祭司長たちとの関連が深く、ユダヤ教の中でも特に保守的なグループでありました。

 新しい洞察であるような復活に関することや御使いに関する議論というのに対しては、基本的に否定的でありました。

 聖書を守るっていう意味で、保守っていうことも大事なのです。しかし、イエス様のお言葉からすると保守から抜け出して主に聞くということはさらに大事なのだということもわかってきます。この箇所からも、主イエスに常に聞いて黙想の中で、つねにリフレッシュされていくという姿勢が大事であるということがわかってきます。
 命の躍動の中で常に新しくさせられ、イエス様とともに内容が改革されていくことが大切なのです。命の爆発が起こっていくということが何より重要です。命がそこにあるのかないのかなのです。命というのは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制(ガラテヤ5:22)」の聖霊の実が次から次へと実を結んでいっているかという状態ですね。

 彼らの絶対的な権威というのはモーセ五書でありました。
 モーセ五書の中に記されているレビラート婚はもし復活があったのならば、どうにもならない混乱を導くことになるのではないかというわけです。
 レビラート婚というのは、長男が子をなさないで死んだ場合、その弟が跡取りをその長男の妻との間にもうけなければならないという法でした。
 で、そのように跡取りをもうけるために妻との間に子どもをもうけようとしても子どもが与えられず、兄弟がつぎつぎに長男の妻を引き受け7人とも死んで、最後に妻が残って、その妻も死んだら、いったいその妻は誰の妻となるのかと問いかけたのでした。
 現実的にはほとんど起こりえないような話しを彼らはしています。
 この話はいくら律法の知識が深くあったとしても、答えられないだろうという予測のもとに、問いかけています。
 
 しかし、驚くことに、誰も反論できないほどの納得感と説得力と力とをもって主がお話を進められます。一言で黙らせました。
 彼らは自分たちがイエス様を窮地に追い込もうと画策していたわけですが、実際には自分たちが屈服せざるを得ない状態にさせらます。しかも、彼らが絶対的な信頼を置いている旧約聖書の中に、はっきりと復活を肯定する内容が書かれているのだとお応えになられるわけです。
 イエスはお答えになった。「あなたがたは、聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともない。天の御使いのようになるのだ。死者の復活については、神があなたがたに言われた言葉を読んだことがないのか。『私はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」(マタイによる福音書22:29~32、新約43)
 
 アブラハム、イサク、ヤコブの神とユダヤの人々は言い古してきたわけです。イエス様に反論しようとしている人たちは、この呼び方を絶対に否定できません。もうこの呼び方を否定したら、自分たちの歩みを否定するようなもの、旧約聖書を否定することになってしまうわけです。
 さらに神は命の与え手であるということも誰にも明確な、聖書を読む人すべてが受け止めている絶対的にゆずることのできない真理、自明の前提です。少しも難しい神学的な議論というものはない。
 「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と神が民に対して呼ぶように導いてくださったこと、このこと自体が復活を証しする。神を信じるものが復活を信じていないのというのは矛盾であると。

 アブラハムは生きている。イサクは生きている。ヤコブは生きている。神は生きているものの神だからである。

 さらに重要なことをおっしゃられます。天の国、神の国がどのようであるのかを、さも目の前で見ているかのようにイエス様は発言されます。めとることも嫁ぐこともないと。人間は天使のような男性も女性もない状態になると。

 神の国を目の前でみつつ、さらに、誰も反論できない論理をもって主が天の国についてお話になられるので、皆が言葉を失ってしまいました。

 群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。(マタイによる福音書22:33、新約43)

 イエス様をとりまく状況って驚くべきものです。よくもまぁ、こんな知恵が働くものだというぐらいに、イエス様を追い込めるというか、なんとか人々の信頼を失わせようというようなというか。また窮地に立たせようというか、その知恵によってイエス様に対する言葉が紡がれていくのがわかります。
 とにかくアゲインストな状況で、手を変え品を変え、次々と絶妙な議論をイエス様にふっかけてきます。しかし、その難しい現実の中で神の言葉が証されていくことが起こるのです。
 大変な状況を経過するといことがいつも重要であることがわかります。
 神様ってやはりドラマがお好きなんですよね。劇的な物語を紡ぎだしてくださるのです。

 最悪の現実の只中で、最高の言葉が発せられる。

 聖書に描かれている神を信じるとは。
 この最悪の現実の只中で、主がご自分の業をなしてくださると信じることです。パンデミックと戦争の時代の只中で、本当に重要なものが明らかになっていく。心ある人たちはその大切なことに気づく。命の祝福にあずかる。時代の最悪さということに人々が気づけば気づくほどに、主の言葉が際立って証されていく。
 壁を作って、殺し合って、争えば争うほどに、最低最悪の戦争に向かっていく。最後は地球の生物を何千回も死に至らしめる力によって自ら破滅に至る。人類は歴史を経て学び、教訓を得て平和を構築することができるのだということが幻想であったことに気づいて終わりを迎える。そんなことが予測されてしまう最低最悪な現状であることは間違いありません。
 科学システムや、技術やイデオロギーは最高の発展を遂げているのかもしれない。しかし、スイッチ一つで終わる世界への道のりを整え、人は互いの間の壁をさらに高く築き、大量虐殺と自滅へと至る。
 しかし、こういう最悪のことが想像できてしまう中で、主に立ち返るという命こそが、祈ることができるという命こそが、輝き始め、人々が回復されていくことが起こるのでしょう。

 人々の内側に霊なる神の働きがあって。主がすぐ近くで、私のことを見ておられて、主がこの道をまっすぐにしてくださると信じはじめるものたちが溢れてくるということが起こると予測します。


 いままで自明の前提のように、絶対的な確信を持っていたものが崩されていくようなことが起こるのです。
 イエス様の時代のサドカイ派の人たちは、絶対に崩せない論理として、自分たちの絶対的な確信として、復活を否定していました。復活を否定するために、レビラート婚の話しをもってきたのです。しかし、彼らの抱いていた絶対的な確信というのは神の力の前に崩されてしまいます。

 ちょうどいま私たちが経験している現実も、一週間先がわからなく、一週間前に考えていたことが、一週間後に崩されてしまうという世界に生きています。
 この中で大事なことは、ものが見えていない自分の心の頼るのではなく、見えている方に聞くことです。祈ることです。天の国を見ている方。この世を俯瞰しておられる方。未来も、現在も、過去もその視野に入っておられる方に、まことの信頼をささげ、祈りをもって聞くことです。

 主イエスは見ておられるのです。私たちがどのようになるのか。

 主イエスへの信頼が、主イエスの言葉に耳をすますこと、祈ること、心の内側に示される聖霊の導きによって、道が開かれることを信じていきたいと思います。

 このお方に従うためには、「何も知らなかったもの」としてただ、主の言葉に驚き、受け止めていくということが必要です。凝り固まった自分の先入観というものが邪魔してどうにもものが見えなくなっている現実に気づく必要があります。
 気づけば抜けだすことができるのですが、気づかないとそこにとどまり続けるということが起こってしまいます。 
 このような劇的な対話の中で、サドカイ派の人々も、ファリサイ派の人々も気づいていけばよいのになんて第三者的に思ってしまいます。
 が、彼らは、ほとんど何も気づかないで、自分たちが神の独り子、キリストを死に追いやっているとも思わずに、自分たちがこれまで考えてきた方法と考え方にのっとって何も変わらず、イエス様を十字架にかける方向に話しを進めます。
 イエス様がこのように言われたのはまことに真理であります。
 言われた。「よく言っておく。心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。だから、この子どものように、自分を低くする者が、天の国でいちばん偉いのだ。また、私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのである。」(マタイによる福音書18:5、新約33)
 
 教会は何も知らないという自覚を持っている人たちが、ただひたすらにイエス様に聞くということに集中しつつ歩むところでしょう。
 「おれはお前たちよりも知っていて、わかっていて、わかっていないおまえたちに教えてやろう。」
 などというおどろくべき逸脱を主の御前で呈することが無いように気をつけなければなりません。
 全世界で、この地で、天で一番偉い人たちのあつまり。それが教会ですね。
 その偉い人たちは、子どものようです。
 「何も知らない」という無知の知を抱いて、イエス様の前にひざまずくものです。
 そこに必然的に形成されていくのは、主イエスへの信頼感。
 信頼感にもとずく、天の御国の空気です。

 本当に不思議ですよね。子どもってなんであんなに幸せそうなんでしょう。小さければ小さいほどに。めっちゃ守られて、めっちゃ楽しそうで。不安なんか全部一瞬でふっとんでしまって。幸せっていうのがデフォルト(初期値)の状態。

 その空気感がバシバシ伝わってきて、見ているだけでこちらが幸せになります。
 
 神の子として生き始めた使徒パウロ。彼の手紙が新約聖書の手紙の大部分を占めていますが、今も早天礼拝で読んでいますので、教会のホームページから動画でアーカイブで見れるので見ていただきたいと思いますが、パウロの信じるこころがこの手紙(コリントの信徒への手紙Ⅱ)からバシバシ伝わってきますよ。天の国の子として生きるということはどういうことだったのか。信じて、信じて、信じ抜いて生きるとどういう考え方になるのか。それが明確に証されています。敵がいっぱいいたにもかかわらず彼が見ているのは神の業です。そして、喜びと感謝に溢れています。

 パウロを見ていると幸せになります。まぁ、見た目は子どもじゃなくて、おじさんだったんじゃないでしょうか。でも、信じているパウロを見ていると小さな子供をみているように幸せになります。

 サドカイ派の人たちは、大人の事情でイエス様を十字架にかけるために、自分の立場を守るために策を謀りますが、全部地に落ちて、彼らの業は永遠へとつながる力とはなりません。
 しかし、主イエスは天の御国に対する心、見ているものを純粋にお語りになられて、私たちがどこにいくのかを指し示されます。私たちは男も女もないような状態になる。
 いや、それ以前に、主イエスによって神につながるかぎり、死なない。
 神を信じるものは復活に生きる。

 神が私のことを覚えていてくださるので、肉体において死んでも、死なない。
 私たちを覚えていてくださる主は永遠におられる。
 (     、←皆様のお名前)の神とご自分が呼ばれることを喜んでくださいます。アーメン。