2022年11月27日 主日礼拝説教 マタイによる福音書26:17~35 「裏切る弟子」 石井和典牧師

 聖書と出会って、やっと「本当に知るべきことを知ることができた」と思わされています。正しい知識が身についてきていると思います。

 神の言葉との出会いというのは、自分自身が日々新たに更新されていくもので、今、この時にこそ新しく聞きなおすという出来事が信じるものたちのところで毎日のように起こっていきます。

 そうすると、主が昔から必要な情報はすでに十分に聖書を通して、人々を通して、出来事を通して与えていてくださったのだということがわかってきます。

 それに「気づいていなかっただけ」だったと思いなおされます。

 それはちょうど、誕生の瞬間から、母の胎内にあるときから、主が私を覚えてくださっていたのだと思いなおすことと同じです。

 「私は裸で母の胎を出た。また裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の名はほめたたえられますように。」ヨブ記1:21、旧約736)

 この聖書の御言葉は、葬儀の最後というか、火葬の直前、火葬前式で読み上げる言葉となります。皆様の火葬の時にも、読み上げることになろうかと思います。

 はじめも終わりも全部整えられていました。

 その主のご計画、ご経綸に自分が気づいていなかった。

 そんな意識の変革とともに、語られる言葉です。

 

 この前の金曜日の早天礼拝の詩編32の説教を自分でしながらも気づいてしまいました。私のツイッターからアーカイブ(11月24日の動画)見れますのでご参考に。この詩編32は古代から教会で悔い改めの詩編として皆の間で交読され続けたものです。礼拝で回数を重ねられ読み続けられて告白され続けたものです。

 まさにこの詩編32に力があることがわかります。

 ダビデの詩です。私たちが向き合うべき内容が記されている。

 何が書かれているのかというと、主の御前に本当に心のそこから、隅々にいたるまで悔い改めていくこと。そして、隠し立てするところが一つもなくなるということ。

 主のご性質のすべてが、慈しみと、憐れみと力と、赦し、主が私を覆いつくしてくださること。

 罪人でしかない私がおおわれて隠されて、赦されて、そこで主のお力が前面に出てくる。

 

 いままでなぜ力がなかったのか。それは、「主におおわれている」ではなくて、「自分自身で自分の恥ずかしいところを隠していた」から、力が無かったということなんです。

 

 エデンの園で、アダムとエバが罪を犯して、自分の恥ずかしいところを自分で覆い隠したようにです。

 神の御前で罪のすべてを見ていただいて隠し立てすることもできない状態になってしまったダビデ。そのダビデの信仰における力強さというのは、考えられないほど強烈でありました。戦いにおいてはいつも主に聞いて託宣を求めました。主に聞いて戦った戦いで負けたことはありません。

 自分が羊であるという認識を持ちながら、神の御前における弱さを徹底的に自覚し、他者に対して絶対的な勝利を宣言しつづけるダビデ

 

 しかし、もしも、「自分の正しさを主張し、自分の罪を主の御前に隠してしまう」ようなことをしていたらどうだったでしょうか。

 それはイエス様がおっしゃられていますが。茨とあざみが、芽を覆いつくしてしまって、実りを生み出すまで成長しないという状態になってしまっていたことでありましょう。

 

 だから、問題は、主の御前における自分自身のスタンスであるということがわかってきます。

 そのスタンスが正しいものであれば、何があっても勝利が与えられるのです。

 どんな状況をも覆します。それが詩編33編16、17節に記されていることです。

 王は軍勢の大きさによって救われるのではない。勇者は力の大きさによって助け出されるのではない。馬は勝利に頼みとはならない。力の大きさでは人を救い出せない。見よ、主の目は主を畏れる人に

主の慈しみを待ち望む人に向けられる。詩編33:16、17、18、旧約848)

 主のご存在におそれかしこみ、主の慈しみがしめされる。主のご愛が前面にあらわれ、栄光があらわされることを求める人に望んでいく。自分の正しさじゃくて、主の正しさを求める人にその信仰のとおりに神の力が与えられるのです。

 

 

 最後の晩餐において、ユダの裏切りが宣言されます。その時にイエス様は「ユダだ」とははっきりおっしゃいませんでした。しかし、ユダが自ら、イエス様に対する態度を自分の言葉でしめしてしまっている箇所が今日のところにでてきます。

 弟子たちは皆「主よ」とイエス様を呼んでいるわけですが。

 弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさか私のことでは」と代わる代わる言い始めた。(マタイによる福音書26:22、新約51)

 ユダだけが「先生」と言うようになってしまっています。

 エスを裏切ろうとしていたユダが、「先生、まさか私のことでは」と言うと、イエスは言われた。「それはあなたの言ったことだ。」(マタイによる福音書26:25、新約51)

 先生ということが、悪いことではないですよ。しかし、この期に及んで、ユダだけが、「主ではなくて、先生」とあえて言った。

 この言葉の背後には文脈があります。もうすでに心の内で裏切りがあったわけです。

 言葉ってすごいです。

 言葉にならない言語のことをノンバーバルコミュニケーションと言ったりしますが。一つの言葉の背後には、驚くべきノンバーバルコミュニケーションがあるのがわかります。「主から、先生」という言葉の変化が、その裏に裏切りがあったことを証明しいます。

 

 流れとか、推移とか、変化、その中に、本当はその内側に何があったのかということが明らかにされてしまうということがしめされます。

 

 人間って恐ろしく偽るものというか、その場に合わせて本心を言わないものですよね。

 小松市在住の現代アート作家のケイ・アラブナさんという方がこの間テレビに出演されていたのですが、東京出身であられ、東京においては小さいときから自分が心の中で考えていることを押し殺しながら生きてきたことを告白されておられました。

 小松で自然との調和を見ながら、自分らしくあることを回復しているというようなことをお話されていました。

 心の中にあるものっていうのは、表にやがて出てきます。それを偽っていたところで、「たった一言であらわ」になります。イエス様に対する一言の言葉の変化が、彼が裏でしていたことを物語っています。

 

 そういったことの流れの経緯をイエス様はすべてご存じであられるのです。何があったかを知っておられます。にもかかわらず、ユダを招くことをおやめにはなられません。今日朗読された記事の直前には、ユダの裏切りの顛末が記されていますので、私たちは裏切りの出来事を知ることができますが。

 「イエス様はこのような背景のすべてを知った上」で、ユダを過越しの食事に招いておられるわけです。イエス様の人間に対するスタンスというのは一貫しておかわりになられません。だからキリストのものである教会にとっても、このある人に対する態度を一貫して変えないということがいかに重要かがわかりますね。

 私もここに赴任してきたはじめに申し上げました。5年、10年たって、そのあとでもはじめに出会った時の信頼の言葉をいかに語ることができるのか。イエス様は愛するということに対して態度を変えないお方ですからね。私たち教会が本質を保っているのであれば、そうなります。

 

 最後の晩餐においては、特にヨハネ福音書を見ていただくと、弟子たちの足をイエス様は洗われますが、その時にユダも他の弟子たちも区別はありません。

 先週も申し上げましたが、ユダはおそらく、「このイエスという自分はメシアにはふさわしくない、メシアではない。」と判断したのではないかということを申し上げました。

 でなければ、手のひらを反すようなことはいくらなんでもできないからです。彼には彼なりの大儀があった、でないと裏切れません。

 

 にもかかわらず、イエス様は、ご自分が十字架におかかりになられて、すべての民を救うのだというそのスタンスを一切変えることはありません。だから、もしもユダが裏切っても帰ってきて、衣を引き裂いて主に赦しを乞いつつ、立ち戻っていたら、ユダが教会で活躍していたことが記されたことでありましょう。

 しかし、彼は、主イエスのお心に集中して、そのお心からいただけること、そのお姿を心に抱いたのではありません。

 彼が集中したのは、「自分がどう思うか」です。「自分がこの人をメシアだと思うか否か。」「自分にとって利得となる道はどちらか。」というようなことが心の真ん中に座ってしまったのです。

 さらに言えば、あとになって自らの罪に気づいて自死にいたったとも記されているのですが。その時にでさえ、自分で自分を裁くことをやめていたらとも思います。自分で自分を裁く必要さえ人間にはありません。

 

 帰る道を主イエスはご準備されたことでありましょう。なぜなら、イエス様の十字架に向かうスタンスは絶対に揺るがない。民のために自分を犠牲の小羊としてささげるということは。

 

 ここに私たちの救いがあります。

 

 ペトロのように裏切ることがある。言葉では信じると言いながら、行動においては全然別論理でうごいていることがある。それを私は二枚舌的だと表現したりしますが、そういった要素は、いつのまにか私の内側に入り込んで、心では絶対に裏切らないとペトロのように思いながらも、実際には裏切っているという行動をとってしまう。

 ペトロが三度裏切ったという出来事は全然他人事ではない。

 ユダが自分のこころでイエス様を判断してしまったということも他人事ではない。

 イエス様がインマヌエルなるお方として、片時もはなさずに私とともにおられるのに、私の方は、全然イエス様のことを意識していない時がある。自分の心に走っているという時がある。

 その為に、私は一つのブレーキ装置として、なにごとも一呼吸おいて、10秒置くということの中に自分を置くということを決めている。ことあるごとに、私はそこに帰ることが重要であることがわかっている。

 しかし、それでも大事なことが何なのかわからず自分の思いに走るのです。それが悲しいかな、肉を抱えた人間の現実でしかありません。

 

 霊的な戦い、見えない心の中での戦いを戦い抜くためにあなたに力をあたえようとの、主からの語りかけを私などは祈りの中で受けとっています。しかし、それでも、その見えない戦いの中で、自分のこころにすべてを奪われて負けてしまい、自分の感情に流されて、怒りに満たされるということがたびたび起こってしまう。それが、いつわらざる私の姿です。何もペトロと変わらない、何もユダと変わらない。

 

 そんなことも!!イエス様は百も承知でおられます。

 

 だから、心を開くと私はどうやってその戦いを戦うのかという知恵を主によって準備されているとうことに気づくことができる。私にとっては、早天礼拝がそのどうやって戦うのかということが明確にしめされる場になっています。不思議ですね。超ホットな温度をもって、私に迫ってくる。それが主の御言葉であります。

 

 イエス様は、ペトロだけじゃなくて、最後の晩餐の時に、皆弟子たちが裏切るであろうことをご指摘くださっています。それは現実となります。

 その時、イエスは弟子たちに言われた。「今夜、あなたがたは皆、私につまずく。『私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散らされる』と書いてあるからだ。しかし、私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」するとペトロが、「たとえ、皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と言った。(マタイによる福音書26:31~33、新約52)

 抜け駆けをして、ペトロが自分だけはつまづかないと言いますが、、、みんなつまづきます!

 だけど、、、ここでイエス様の心に触れるわけですが。

 

 イエス様は、「ガリラヤに行くよ」と言ってくださいます。

 

 イエス様が十字架に架けられた後、みんな自分のなすべき使命を捨ててしまいました。故郷のガリラヤにもうだめだと思って逃げ帰っていた。そこで、ガリラヤ湖で出会うのですよね。

 イエス様がすでに岸辺で炭火を起こして、魚を焼いてくださるそのお姿に。

 赦しをもって一緒に食事をしてくださった。

 もう、絶対に許されない、私のことを受け入れてくださらない。。。とは弟子たちは二度と言えないのです。

 

 なぜなら、炭火の魚を食べさせてくださったからです。何もなかったかのように。

 イエス様は、弟子たちが裏切ったその瞬間に「ガリラヤで会えるよ」ってご準備くださっていたのです。

 

 大丈夫、あなたは裏切るけどね、あなたはわたしと会えるよ。

 大丈夫、あなたは裏切るけどね、あなたの傷は癒されるよ。

 大丈夫、あなたが裏切ったとしても、ガリラヤで会えるよ。

 

 裏切りの現場というのは、人それぞれ違いますよね。

 「裏切る弟子」というなんとも不吉な説教題にしてしまいましたが。

 

 しかし、これ不吉なんですが、私の、また皆様の現実の姿です。

 私にとっては、詩編をこのダビデの歌をあなたの歌として授けるって主から語りかけを受けているので。もうダビデ的に自分が発想していないときというか、それ実は毎瞬間だったりするんですが。

 ダビデの歌を自分の歌として読み始めたときに、気づくのは、自分の信仰の力がほぼ0%に近いというか、全然ダビデのようではないということです。

 

 だけど、大丈夫だよ。あなたと出会える場所を準備しているから。

 その状況を。その現場を。

 

 実は、礼拝がその場所ですね。

 

 裏切っても裏切っても、この聖書の言葉が響いているうちは、ガリラヤが、出会いの場所が準備されています。その場所が与えられているうちに帰りましょう。主の憐れみにすがって。アーメン。